ケンのブログ

日々の雑感や日記

春のあれこれ

2023年03月24日 | 日記
3月21日に母は86歳になった。

あまり 歳をとったので自分の年齢が わからなくなることがあるそうだ。

それで 僕の妹から 一日一回 自分の年齢を唱えるといい というようなことを言われたらしい。

確かに 繰り返し 想起することで記憶に物事が定着する。

それは 記憶するための極意だなと思う。

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ある方に 「みんな 野球の話をしてますね 私 テレビ見ないから 話題についていけなくて」 と言われる。

「僕も テレビ見ないから 話題についていけません」と答える。

3月23日付の新聞を見ると世帯視聴率は40パーセントを超えているらしい。

それは すごい。

テレビでは見ていなかったけれど 話題になっていることは知っていたので そちらに意識が行っていた。

そして 気づくと大相撲大阪場所も もう残すところ3日となっているし 高校野球で岐阜県の代表はすでに姿を消してしまった。

知らなかったな。 意識がそれてしまっていた。

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ふと 検索でヒットした 「学校では教えてくれないクラシック」という動画を見ていたら、
「着想は神から来る」とベートーヴェンが言ったらしいというエピソードについて NHK交響楽団コンサートマスターの篠崎 史紀さんが「人間の想像し得るものならばヒットはするけれど100年も200年もは残らない。残るようなものならば そこには 目に見えないものとの交信 というものがあるはずだ」という主旨のことを語っておられた。

それを聞いた時 その通りだなと思った。

もう 残るようなものができるかどうかは 目に見えないものの力がなければならない。

もちろん 目に見えない力を受け取るには 相当な努力が必要だけれど 努力だけでそこまで到達できるわけではない。

なにしろ 努力の 対象は 目に見えないものなのだから。

そう 思ったとき なぜか ちょっと 心が軽くなるような気がした。

そして、思った 篠崎さんってきっといい人なんだろうなと。

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春と言うことと関係あるのかどうか きっと関係あると思うけれど セブンイレブンの店舗でビートルズのペニーレインを楽器だけで演奏したものがBGMで流れていた。

いいな と思う。

この歌だったら それこそ 目に見えないものから 受け取ったものがあるいは あるかもしれない。

それを証明するためには 100年 200年の時が必要だけれど。

でも この歌がリリースされた1967年から56年たつから あと44年で100年だけれど、、。

この歌の歌詞は いかにも イギリス人が書く歌詞という感じだ。

僕がいちばん好きなところだけを日本語で書くと
「ペニーレインには 砂時計を持った消防士がいる。 彼の ポケットには 女王のポートレイトが入っている」と。

女王って きっと 先般亡くなられたクイーンエリザベスのことだと思う。

いいな。

楽しい歌だけれど ところどころに イングランドや スコットランドの民謡と共通する哀愁が漂う。

そういうものが漂うというのが ある意味 何かを受け取っている証かもしれない。


↓ビートルズのペニーレインの動画です。

コンビニの店員さん

2023年03月21日 | 日記
コンビニで買い物をして お勘定が済んだときに女性の店員さんが 「お客様 いい声ですね」と言った。

声がいいと言われたことは 僕の人生で何度かあるけれど まったく面識のない コンビニの店員さんに声がいいと言われたのは 初めて。

なんだか うれしい気分。

春だから そういうことも言いたくなるのかもしれない。

気づけば桜も開花している。

ダウンジャケットを着るのをやめて ちょっと薄手のブルゾンに変えた。

春だなと思う。

井上陽水さんの 桜三月散歩道をカラオケDAMの音源で歌いました。

原曲のキーで ちょっと勢いをつけて歌ったので 一部ハウリングが出て 声もかすれてしまいました。


名古屋フィルの演奏会を聴きに行く。

2023年03月16日 | 日記
3月11日は名古屋フィルの第510回定期演奏会を聴きに行った。

指揮は大井剛史さん

最初に演奏されたのが ヒグドンのブルーカテドラル

1999年作曲とプログラムの楽曲解説に書いてあり 初めて聴く曲。

プログラムの楽曲解説に「曲は (中略) 輝かしい打楽器と柔らかな低弦のハーモニーで始まる。そしフルートとクラリネットがやさしく歌いあっていく」と書いてある箇所がある。

そこでフルートが出てきたときに なんとなく ラヴェルのダフニスとクロエに出てくる 夜明けのようだ と思った。

後半は 曲が 力強くなって盛り上がっていくけれど そこを聴いていて 心の中で ホルストの惑星 特に火星を 心に思い浮かべていた。

次にシューマンの序奏と協奏的アレグロ作品134が演奏された。

ピアノはフィリッポ ゴリーニさん。

過去にどこかで聞いたことがあるかもしれないけれど 記憶に残ってないので 実質初めて聴く曲。

何度となく 出てくる 特徴的な モチーフを聴いて 「おい! 山田耕作先生の 赤とんぼやんか」と思った。

まあ こういう類似は 音楽の中には いくらでもあるけれど やはり 類似点を発見するというのは 楽しいものだなあとは思う。

家に帰ってきて ユーチューブを検索してみたら やはり 赤とんぼに そっくり ということで 動画をアップロードしている方がいた。

まあ そうだろうな と思った。

オーケストラが 堂々と鳴る場面では なんとなく 心の中で シューマンの交響曲第4番を思い浮かべていた。

最近 いろいろ 過去に聴いた 音楽を思い浮かべるクセに なってしまったな と思う。

次に 世界初演と言うことで 坂井健治さんのピアノ協奏曲キューブ が演奏された。

コンサートを聴いた当日に 書いていたら もっと 記憶が残っていたと思うけれど 5日も経過してしまったので 記憶が おぼろになってしまった。

ただ 楽しい曲だったことは 覚えている。

あちらで あの楽器が鳴り こんどは こちらで この楽器か とあちこち 見ているうちに曲が終わったという感じだった。

曲の途中から ピアノの譜面をめくる役の方に視線が行ってしまった。

初演の曲だから 譜めくりが必要なことは なんとなくわかる。

僕は上の方の席だから こまかいところまでは見えないけれど 譜面の右上の角から 巧みに譜面をめくっておられた。

関西のあるピアノの先生が 自分が演奏するときは とくにメガネをおかけにならないのに 他者の譜をめくるときは メガネをかけられることが多いので そのことを 尋ねたら 「ある意味 自分が演奏するよりも 人の譜をめくる方が緊張する」というようなことをおっしゃっていたことを思い出した。

演奏が終わって ステージのみんなも 初演成功という感じて祝典的に拍手をしているときも 譜をめくるかたは じっと不動の姿勢でおられたので ああ これは 歌舞伎の黒子の役とも似ているかも とそんなことを心の中でぼんやり考えていた。

もちろん 一度 ステージから引っ込むと カーテンコールでまた出てこられるということもなかったし、、、。

それから ピアノの アンコールがあった。

フィリッポ ゴリーニさんの発音が よすぎて ブラームス しか 聞き取れなかったけれど なんしか ブラームスのピアノ曲を演奏してくださった。

音が 先に先に流れていくような感じに僕には聴こえた。

僕自身 割と ひとつ ひとつの 音に ひっかかりのあるタイプの演奏が好きな傾向にあるので 少なくとも僕の好みとは ちょっと 違うな と思った。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのが 
アーノルドの 交響曲第5番作品74

休憩時間に 席に座っていると ピアノの高音のような音がステージから聞こえてきた。

「あ ピアノか?」と思ってステージを見ると 男性の奏者の方が ハープを鳴らしておられた。

「あっ ハープとピアノって意外と似てる」と思った。

今まで ハープは どこか 乙女チックな楽器と思っていたけれど そうではなくて 結構ハードな楽器 とその時思った。

ハープのための協奏曲とか そういうタイプの曲とはちがって あくまで 交響曲の中で使用されるハープ 

なので 交響曲の中の 構成要素としての役割をハープはこの場合 担っているわけで なんというか やはり チャイコフスキーのバレー音楽とか モーツァルトの ハープとフルートのための協奏曲とか 僕が これまで知っている曲よりは ずっと ピアノに近いような この楽器の ハードな側面を見る思いでとても勉強になった。

それで 肝心の アーノルドの 曲はどうだったかというと これも あちこち 楽器を見ていて あまり 覚えていない ということになってしまう。

しいていえば 第二楽章で 弦だけなっていて 管楽器の奏者が まったく音を出さずに じっとしている様子が 印象的だったなと思う。

プログラムの楽曲解説には たぶん そのようなことをふまえてと思うけれど マーラーの5番のアダージェットとの近親性が指摘してあった。

今年度の最後にこうして定期演奏会が聴けて よかったな と思う。


↓シューマンの序奏と協奏的アレグロと山田耕作の「赤とんぼ」の類似性を指摘した動画です。

そういえば 赤とんぼの旋律がとても美しいと感じ 涙を流したのは イムジチ合奏団が来日した時に アンコールで演奏してくれた時だったなと思い出す。

きっと 赤とんぼのメロディが 西洋音楽と 日本人の感性の両方にマッチするからだと思う。

そういう曲を作る山田耕作もやっぱりすごいな とこういう機会に気づかせてもらえるのはありがたいことと思う。












あれこれ思うこと

2023年03月06日 | 日記
数日前 日経新聞に出ていた大川隆法さんが亡くなられた小さな記事を母は見て 「大川隆法さん亡くなったよ。66歳。今どきの年齢としては若いね。こういう道に生きる人なら もっと長く生きるべきではなかったやろうか。お母さんは85歳。生きた年数としては もう合格やろうか」と言った。

生きた年数と 幸福とは 関係ないとも思うけれど 66歳は早いなとは思う。

と 同時に 自分の85歳と言う年齢を 母は もう ここまで生きた と感じているのだなと思う。

道は違うかもしれないけれど 例えば 音楽を通して 同時代や 後世の人に少なからぬ幸福を与えているモーツァルトの生涯は短かったから やはり 生きた年数では測れないけれど、、、。

モーツァルトと言って思い出したけれど 数カ月前 母と 百貨店の食品売り場を歩いていた時 母が モツァレラチーズのパッケージを見て「モーツァルトかと思ったわ」と言った。

その前の週に モーツァルトという名前のリキュールを買った記憶が残っていて それで 間違えたかもしれないけれど まあ ありがちな間違い。

僕も うなぎの “”ひつまぶし“” のことを 長年 うなぎの “”ひまつぶし“” だと思っていた。

ひまつぶしに うなぎを食べるのかと、、、。

母は 先週 百貨店に行ったときは 「カルピスバター」とだけ書いた メモを僕に見せて 「このバター探してるから 見つけたら教えてね」と言った。

それらしき場所を探していると 「カスピ海ヨーグルト」と書いたパッケージがあった。

モツァレラをモーツァルトと間違えるくらいだから と思いつつ「カルピスってカスピ海の間違いやないか」と僕が言うと「違う カルピスや」と母は言った。

それで 僕が 一生懸命探している間に 母はもう店員さんに「カルピスバターはありますか」と尋ねている。

店員さんより一瞬早く “”カルピス株式会社 バター“”と書いたパッケージを僕は見つけた。

「これかなあ でも メモにはカルピスバターって書いてあるしなあ」と母と話していると店員さんが困ったような顔をしていたので「ああ、もうここから先は 自分たちで考えるので大丈夫です」と僕は店員さんに言った。

店員さんの立場では 「カルピスバターは カルピス株式会社のバターの間違いではないですか」とは言いづらいだろうし、、、。

でも 普段の母の メモの取り方のパターンから判断して カルピスバターは カルピス株式会社のバターと判断して間違いないと思った。

食べるのは母で 僕はバターは食べないから わからないけれど カルピスのバターってなんとなくよさそうな気がする。

そういえば がんの放置療法で有名な 近藤誠さんも 今日 ちょっとしたきっかけで 昨年亡くなられていたこと知った。

大川隆法さんも 近藤誠さんも 本をたくさん出したりして 過剰に忙しくなることでストレスが過度にかかってしまったのではないかと 勝手に想像したりする。

もちろん 寿命は 天から授かったもので 本人が決められることではないけれど、、、。

自分自身も歳を取っていき 親の世代は もっと 歳をとっていて 順番に寿命が終わっていく ということを考えると 僕に限らず 誰でもそうだと思うけれど やはり わびしいなと思う。

できれば 一日でも長く健康で 楽に人生を終わっていければとは思うのだけれど、、、。

それは ともかく 一日 一日 無事でありますように それを第一に願っていきたい。







連絡手段

2023年03月05日 | 日記
昨日 母が 「電話で連絡をしたくて 年賀状を見ても 最近 年賀状に電話番号を書いてないことが多いね。本当に 困ってしまうことがある。世の中 不便になってるんやないやろうか」と言った。

スマホやネットが使えない母にとって 電話ができないということは 本当に不便だろうと思う。

僕も スマホは持っているけれど 母から 電話がかかってきたときは マナーモードにして 元に戻すのを忘れてたとか 僕も もう老眼になっているから 着信ランプが点滅していても 気づかずに終わってしまったとか そういうこともある。

大阪にいる頃は たぶん 会社から携帯電話を持たされている人だと思うのだけれど、ターミナル駅のトイレの個室の中で 電話で話している人もいた。

たぶん トイレに入っていても 仕事関係の電話だと出なければならないとか そういう事情なのだと思う。

話をしている雰囲気で もう やむなく出ている電話だなということがなんとなくわかったりする。

そういうのが いやだから 電話は極力やめて LINEとか メールで連絡を取る人も圧倒的に多いように思う。

僕も 相手に 電話をしても 着歴が相手の電話に残るから もし 相手が電話に出なかった時に 折り返しかかってきたら 今度は こちらが 出られないかもしれない などと思うと つい 電話をかけるのをためらってしまうこともある。

メールも 文を書くのが 苦手な人にとっては それほど 便利ではないだろうし また つたない文章のメールでは 伝達したい内容が よく伝わらないことも多い。

本当に 昔に比べて便利になったのか 不便になったのか わからないな と思う。

昭和の時代に 義理の伯父が 留守番電話をセットした時に その留守電に一番最初にメッセージを入れたのは 僕の祖母だった。

その 祖母のメッセージの内容は 「おらんなら おらんで ええわ ガチャン」だった。」
本当に 昔は いなければ いないでいいと思って逆に気楽に電話がかけられたように思う。

電話をかけて いなければ いないでいい ガチャン とやっていた時代が 今となっては恋しいなと思う。

それは ともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。