ケンのブログ

日々の雑感や日記

CDラジオを買う

2021年11月29日 | 日記
僕は音楽CDを聴く時間はかなり長いほうだと思うけれどオーディオには無頓着で、長年1.5ワットのスピーカーのCDラジオでCDを再生して聴いてきた。

特にそれで不自由を感じたことはない。しかし、こちらに来て、部屋が広くなったらなぜか1.5ワットのスピーカーでは物足りなさを感じるようになった。

それで、家電量販店でCDラジカセやCDラジオのコーナーを見たら、20ワットのスピーカーを搭載したものが、その量販店では最も大きな出力のスピーカーを搭載したものだった。

コンポーネントステレオを買う気にもならず、CDラジカセのたぐいでは多分20ワットのスピーカーというのは音質的にはもっとも上位のものだろうと思って購入した。

家に来て聴いてみると、従来使っていた1.5ワットのスピーカーのものと比べて低音のなり方がぜんぜん違う。

ショスタコーヴィチの交響曲第5番をまず聴いたのだけれど、もうティンパニーがバコバコ鳴っている。

いやあ、ショスタコヴィチの交響曲のティンパニーってこんなにすごいのかと思った。

地響きのような感じにも聴こえる。

ベートーヴェンの交響曲第5番も聴くとやはり随分低音がバコバコ聴こえる。

それからチャイコフスキーの白鳥の湖 を聴く。

こちらはたとえば金管楽器なども低音がよく鳴るスピーカーで聴くととても音が分厚く聴こえる。

違うスピーカーで聴くことで演奏そのものに対して自分が持っていたイメージはそれほど変わることはなくても、やはり音そのものの聴こえ方は随分違うものだなあと思う。

目を閉じて聴くと、やはり20ワットのスピーカーで聴く音の方が生の音にイメージは近いなと感じる。

低い音がしっかりと聴こえると音の鳴り方に幅と厚みがあるように聴こえる。

しかし、オーケストラの音楽の場合、旋律は高い音の楽器が受け持つことが多いので、旋律が聴こえるようにと思ってボリュームを調整すると音楽がフォルテになったときに低音がバコバコ来てちょっとうるさいというか暴力的に聴こえたりする。

それでボリュームを絞るとこんどはピアノになったときの旋律がよく聴こえなくなってしまう。

まだまだ、新しいスピーカーに対する慣れが必要だなと思う。

今、リッカルド・ムーティ指揮、フィラデルフィア管弦楽団の演奏でベートーヴェンの交響曲第9番のCDを聴きながらこの記事を書いているけれど、ティンパニーの音が随分マイルドで、その響きの感じがそのまま演奏全体の響きの印象になっているなと思う。

今まで気づかなかった、、、。


それはともかく いちにち いちにち 無事にすごせますように それを第一に願っていきたい。

カレーになります おそろいですか

2021年11月27日 | 日記
スーパーマーケットに入ると入り口の近くに来年の干支、寅の陶器の置物が販売されていた。

僕、寅年で来年60歳になる。

還暦と言うけれど、あまりピンとこない。

まだ、心のなかでいろいろとやりたいと思っていることがあるからかもしれない。

一方で健康寿命は男の場合72歳と出ている。

つまり、平均的な経過をたどれば健康の問題が日常生活の支障にならない程度に暮らせる期間はあと12年ということになる。

それは短いなあと思う。

自分自身や両親の周りを見ていると80歳になるとさすがに支障のない人はあまりいないという気もするので(支障と言っても様々なことで人それぞれなので、80歳以上の人はどうぞ気にしないでください)やはり、そのように頭の中で計算すると歳だなと思うし、先は長くはないなと感じることもある。

なるべく、あせらないように、ひとつ ひとつ 試行錯誤しながら進んでいこうと思ってはいるのだけれど。

・・・・・・・・・・・・・・・・

スーパーのおもちゃ売り場に行くとプラレール(プラスチックのレールの上を新幹線などの電車が走るおもちゃ)や容器の中にボールを入れるとその中のらせん状のコースを球がくるくるまわりながら落ちていくおもちゃで我を忘れて遊んでいる子供がいっぱいいる。

イエスの言葉に「子供に見習いなさい」という主旨のものが聖書には何度となく出てくるけれど、子供の様子を見ていると、基本的には目の前のことだけを考えていて、一ヶ月後にどうかとか、それどころか明日はどうかさえも考えていないように見える。

子供が明日のことを考えるのは寝る前くらいになってからかも知れない。(子供の年齢にもよるけれど)

「空の鳥を見るがよい」、とか「野の花を見るがよい」、とか、そういうことばもよく出てくる。


これも、聖書の中では子供と類似の意味で使われていると思う。

つまり、鳥や野の花も先々のことを考えるということはなく、その瞬間だけを生きている。

そういう姿勢が大切ということを語るための、たとえ、あるいは具体的イメージとしてイエスは子供、鳥、野の花というものを引き合いに出している。

それは、ただ、「明日のことを思い煩うな」と言われるよりも、野の花のように とか鳥のように、などと具体的なイメージを示して語ってもらえれば聞く方も抽象的に理解するだけでなく、イメージと結びつけて理解できるからわかりやすいだろう。

本当に僕も忘れかけていたことだけれど、花や鳥を見るときにそういう気持ちをもって眺めたいものだなあと思う。

「カラスだ怖い」と思っているだけよりも、そういうイメージと結びつけたほうがいいように思う。

もちろんカラスが来るような臭いゴミを出さないことも大切と思うけれど、、、。

・・・・・・・・・・・・・・
新聞にデジタル教科書をさらに普及させていこうという方向性の記事が出ている。

僕、デジタル教科書があまりはびこると日本語力が低下しないか心配。

先日、役所が発行する文書を読んでいたら、「ペットボトルの回収は○曜日になります」とい文が何ヶ所かにあった。

役所の文書もそうなのかと思ってしまった。

「〇〇です。」 というべきところを「〇〇になります。」という表現、最近は世間でかなり一流と思われている会社の文書でも見かけることが多くなった。

こういうの見ると大丈夫だろうかと思ってしまう。

たぶん、かれこれ20年くらい前だと思うけれど、「〇〇になります」という言葉が特に飲食店のバイトの子の間で流行り始めた時はまだそれを危惧したり批判したりする風潮もかなりあった。

「こちらミートソースになります」と言ってミートソースのスパゲティーを持ってくるバイトの子に「それならお前、この場でミートソースになれよ。お前、ミートソースに変身してみろ」と言ってやりたくなる衝動にかられると書いていた人がいたと記憶している。

それを読んで僕はそのとおりだと思っていた。

「こちら(これ)がミートソースでございます」と言うべきだと思っていた。

あと、
「注文は以上でおそろいでしょうか?」ってあなた、「注文」が主語で、「そろう」が動詞の構文になってしまっている。

注文という無生物の主語に「おそろい」という丁寧語を添えてしまっている。たぶん敬語のイメージで丁寧語にしているのだろうけれど、そもそも注文という無生物に敬意を払うのもおかしい。

注文した主体はお客様なのだから「お客様が注文された品はこれですべてそろいましたか?」というのが本来あるべき言い回しなのに、、、。

本当に「注文が注文したのか?違うでしょ?注文したのはオレだよ?本当にお客をバカにしているのか」と言いたくなることも昔はあったけれど、いまはすっかり諦めモードになってしまった。

下手にそんなこと言ったら逆にクレームをつけるモンスターのお客だと思われてしまう。

「はい、そろいました、大丈夫です」と答えている。

まあ、村上春樹さんもなにかのエッセイで間違っている表現がいつの間にか慣用化してして正しい表現になってしまうこともあり、必ずしも目くじらをたてるべきではないという主旨のことを書いておられたような気がする。

しかし、人間は言葉で物事を思考するから、言葉使いの論理性が無茶苦茶になると、結局、思考の論理性も無無茶苦茶になってしまう。

まあ、これは、ひとり ひとりが考えなければならない、あるいは考えるべき問題ではあるなと思う。

それはともかく、いちにち いちにち 無事にすごせますようにそれを第一に願っていきたい。



寒くなった

2021年11月26日 | 日記
近くの小さいお宮に行く。

手水に龍の形の蛇口があってそこから水がチョロチョロ流れている。ひしゃくもおいてある。

久しぶりにちゃんの機能しているお宮の手水を見たような気がする。

コロナも少なくとも日本では収束に向かっているのか。

海外ではひどいところもあるようなので油断はできないけれど。

お宮の銀杏の葉が黄金色になっていた。

カエデも真っ赤になっている。本当に真っ赤。

地面にもカエデの真っ赤な葉が散っていて地面も木も真っ赤という感じ。

もし、最も真っ赤な時が見頃とすればちょうど見頃のときに行けてよかった。

その他に、ナンテンの実も真っ赤にたくさん実っていた。

境内のはしの方にゆずの木があってその果実もちょうど収穫に適した感じになっている。

もぎそうになったけれど、今は岐阜県は柿の盗難で警戒レベルが上がっているし、警戒されなくても境内のゆずを勝手にもいだら窃盗だし、もちろん、もがなかった。

ゆずと言えば、一昨年か、3年前くらいに、通っていた歌声サロンの伴奏の先生に袋いっぱいのゆずを持ってきた人がいて、先生が何故か袋から僕に2つ出しておすそわけくださって、それを風呂に入れたらとても気持ちよかったことを思い出す。

もう冬至も近いなと思う。

僕は頭が寒いとスースーするヘアスタイルなのでニットの帽子も寒い時はいつでもかぶれるように用意した。

あとマフラーも。

だんだん、寒くなっていくなと思う。


いちにち いちにち 無事にすごせますように、それを第一に願っていきたい。

卵カレー

2021年11月25日 | 日記
名古屋のカレーショプに入る。

お店のメニューの中で最もスタンダードと思しき品を注文。

カウンターに食券をおくといきなり「卵は温泉卵ですか生卵ですか」と聞かれる。

聞かれて初めて、卵が乗るカレーだったのかと知る。

「生卵でお願いします」と僕。

まあ、ようわからんけどとりあえず生卵でいいかと思った。

そういえば大阪の心斎橋か難波のあたりにも真ん中に卵が乗ってくるカレーがスタンダードの店があったなとぼんやり考える。

織田作之助も行っていたとかいう触れ込みの店だった。

そんなことを考えているうちにカウンターの僕の前に福神漬けと天かすが出る。

「ええ?カレーに天かす?」と思った。そばやうどんに天かすならよく聞くというか見るけれど、カレーに天かすって生まれてはじめて。

カレーが出てくる。やはり真ん中に生卵が乗っている。織田作之助ゆかりの店のように真ん中に穴はあいてないけど、、、。

まあ、大雑把に言えば織田作之助ゆかりの店と同じ種類かと思う。

それで天かすどうしようかと思った。

カロリーがちょっと気になるけれど、まあ、ふりかけてみた。

ちょっと、カレーに天かすって範疇不明の気もするけれど、まあ、悪くはないという感じだ。

おむすびに天ぷらを入れる食習慣の町だから、カレーに天かすくらいありかと思う。

僕の隣に座っていた人は味噌カツカレーを注文した。

品が来たときちらっと見たけれど、カレーのルーもたっぷりかかっているし、真ん中にお味噌のかかったカツも乗っている。

関西は基本薄味でそこで長年暮らしたから、いやあ味噌カツカレーってなんてコテコテのメニューと思ってしまう。

いつかは食べるかも知れないけれど、当面は食べないだろうなと思う。

イチローさんもカレー好きで、「僕カレー好きだけどカレーの上にとんかつとか考えられない」と言っていたと記憶している。なんとなくそう言いたくなる気持ちわかるような気がする。

食事の最中に店内のどこからともなく「結局は失敗のなすりつけ合いなんだよな」という声が聞こえてくる。

ああ、近所に勤めている人が連れ立って来てるんだなと思う。

どこの職場の休み時間にもありがちな会話だから、、、。

・・・・・・・・・・・・・・・・

愛知県の弥富市の中学校で生徒同士の殺人事件があったと新聞に出ている。

僕が中学生の頃は学校で生徒同士の殺人事件ってちょっと考えられない時代だったと思う。

本当に悲惨な出来事だと思う。

やはり、自分が今いる場所の近くでこういうことが起きるかと思うと心がどんよりしてしまう。

今日、名古屋市内はなんとなく警備がものものしいと思ったけれど、ひょっとしたらこの事件と関係あるのかもしれないと思った。

原因は第三者委員会が究明する方針と出ている。

僕、不祥事が起きたときにすぐに第三者委員会という最近の風潮があまり好きでない。

自らの手で原因を究明することが本当の再発防止になると思うから。

第三者に反省してもらってもあまり、本人の反省にはならないということがままある。

しかし、今回は、第三者委員会というのは妥当なことだと思う。

学校の先生も自分たちの学校で殺人が起きればとても冷静でいられるとは思えないから、、、。

まあ、こういう悲惨なことは起きなければいいとは思うのだけれど、、、。

それはともかく いちにち いちにち 無事にすごせますように それを第一に願っていきたい。







劇画の世界

2021年11月24日 | 日記
ふとしたきっかけで江夏豊さんと田淵幸一さんが対談した動画を見た。

江夏豊さんは昭和43年にシーズン353奪三振の日本タイ記録を王貞治さんから三振を奪って達成する。

新記録と勘違いした江夏さんはやったと思ってベンチに帰りまだタイ記録だと知る。

それで、それならば新記録も王さんからと思って打者一巡、手頃の球を投げていわばわざと三振を取らないで王さんまでもう一度打順を回す。そして見事、王さんから新記録の354三振も奪ってしまう。

その時のことを振り返って江夏さんは言う。

「あれはもう劇画の世界だね」と。

“”あれはもう劇画の世界“”

いやあ、劇画の世界を演出する人は語るセリフも劇画的でかっこいいなと思ってしまった。

考えてみればオールスターゲームでのべ9人に投げて9人全員三振。

日本シリーズではノーアウト満塁の絶対絶命のピンチをしのいで優勝。
しかもこのときは、相手バッターのスクイズを投球モーションに入ってから一瞬で見破って球をはずすという離れ業のおまけつき。

延長11回ノーヒットノーランのときには、味方の阪神も一点も入ってなかったので自分でホームランを打って勝利を決めてしまう。

どれをとってもまさに劇画の世界だなと思う。

通算勝利数とかそういう記録では江夏さんの上を行く人はいるけれど、通算劇画数 という記録がもしあったら、断然江夏さんがトップになるかもしれない。

「あれは劇画の世界だね」というセリフも江夏さんそのもの。

衣笠祥雄さんがなくなったときも
「ぶきっちょだったけど、骨折しててもバット三回振って帰ってくる男だった」と衣笠さんのことをたたえていた。

このセリフもどこか劇画っぽいけれど、王さんの品行方正な言葉とはまた違う意味で心にグッと来るなと思う。

あまり、有名ではないシーンでの江夏さんの言葉で僕の印象に残っているものがある。

昭和56年、巨人対日本ハムの日本シリーズ。

なぜか僕、その第一戦をテレビで見ていた。

江夏さん、その年に引退を表明していた松原選手にホームランを打たれてマウンドをおりた。

打たれた感想を聞かれた江夏さんが質問したアナウンサーに一言

「(このホームランで)松原さんも(引退の)いい思い出になったんじゃないですか?」と。

僕、そのセリフをテレビの実況で聞いていて、いやあ、江夏さんは打たれてもしびれること言うなと思って感心してしまった。

松原さんもそれを聞いて「しゃらくせえ」と言ったと報じられたけれど、まあ、セリフでは完全に江夏さんの勝ちと思った。

僕が見た動画の中で田淵幸一さんは江夏さんに「おまえは心臓が弱いんだから打ってアウトになりそうな時はわざわざ一塁まで走るな。(ピッチングのために体力温存しとけ)」とアドバイスしていたという。

そんなこと、今の時代にやったら、袋叩きにあってしまうのではないかと思う。

たしかにあの時代はピッチャーはもう全然やる気無しで打席に立っていることもおおかったけれど、、、。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
劇画と聞いて思い出したことがある。

いつかNHKの相撲放送で過去の名勝負ということで北の富士さんと若浪という力士の一番をビデオで流した。

若浪という力士は小兵だけれど吊り(つり)の強い力士だった。

その相撲、北の富士さんが若浪を土俵際までより立てる。

若浪は体が伸び切ってしまって、つま先立ちで残している。

あそこまで、相手の体が伸び切ってつま先立ちになれば、北の富士さんがちょっと腰を落として押せば、もう勝負がついてしまうように見える。

ところが、北の富士さん、なぜか腰を落とさずに、そのまま北の富士、若浪両者とも土俵の真ん中まで戻ってきてしまう。

若浪という力士は俵でつま先立ちになってからも驚異的に相手をひきつけて足腰のバネで相手をうっちやる技もあったので北の富士さん怖くてもうひと押しできなかったかも知れない。

そして今度は若浪が小さい体で北の富士さんを高々と吊り(つり)上げて土俵の外に運んでしまう。

若浪、大逆転で北の富士をつり出しで破る。

もう館内は割れんばかりの大喝采。

あの相撲も今の時代から見ればひとつの劇画だなと思う。

「今の相撲はどうでしたか」とテレビのアナウンサーに感想を聞かれた北の富士さんは一言

「ええ?この相撲の解説をオレにしろって言うの?NHKも人が悪い」と。

北の富士さんも劇画の時代のものの言い方を知っている人だなと思う。

・・・・・・・・・・・・・・

今場所、ほとんど相撲見てないけれどたまたま、見た中で面白かったセリフをひとつ。

正代が後ろに下がってかろうじてかかとが残って取り直しになった相撲がある。

取り直しと決まった瞬間に北の富士さんがひとこと。

「本場所だから取り直しでいいいけれど、稽古場であんなに後ろに下がって取り直しなんて言ってたら、まわりからバカヤローって言われちゃうよ」と。

まあね、稽古では後ろに下がるのではなく前に出るのが相撲の基本だから、、、。

それはともかく いちにち いちにち 無事にすごせますように それを第一に願っていきたい。