3月16日は京都市交響楽団第687回定期演奏会を聴きに行った。
指揮は広上淳一さん ピアノはジャン エフラム バヴゼさん。
最初に演奏されたのはピアノ バヴゼさんで
バルトークのピアノ協奏曲第2番
演奏が始まってしばらくは ボーっとしていたけれど ある程度、時間がたってくると、これって おしゃれで かなり華やいで ブライトな世界と思い始めた。
バルトークは暗いイメージが僕にはあるけど、この演奏はおしゃれで ブライトだなと思った。
それで、たまたま この演奏会の数日前にネットで目にした バルトークの若き日の写真はとてもシュッとした男前であることを思い出した。
芸術家に限らず、死後も名前が残るような人は、晩年の写真が主に人の目に触れることになるけれど若いころのシュッとした顔にも注目すべきだと思う。
どんな人でも 若いときのベースがそのまま根底に残るということがあるから。
オーケストラの方をずっと見ていて二楽章になってふと ピアノのバヴゼさんに目をやると ピアノを弾くためという観点で考えると ちょっと不自然というか 無駄な動きをバヴゼさんがしていることに気付き始めた。
この動きはなんだ と思ってしばらく見ていると 「ああ あの動きはオーケストラにキューを出したり 気を送ったりしているんだ」ということがわかった。
特に二楽章から三楽章にいたる場面では もう二楽章の最後でピアニストがオーケストラの方に顔を向けて 「この状態をキープして三楽章よろしくたのみます」という感じでおがみたおしているような気がしてちょっとユーモラスでもあった。
きっと、ピアニストがキューを出したり 気を送ったりしてもいいという合意というか暗黙の合意がバヴゼさんと広上さんの間に出来ていたのだと思う。
でも、ピアニストがたとえキューや気を送ったとしてもそれに対応できるだけの余裕というか度量が広上さんにもあったということなのだと思う。
もちろんピアニストは特に指揮のような動作をしなくてもそこで演奏しているだけで大きな気をオーケストラに送っているわけだけれど、このピアニストの場合は 素人目というか 僕の目にもそれとわかる動作だったということだ。
でも 見ていて けっこう楽しかった。
ピアノを弾いてて指揮も自分がちょっと表に出たいというときは ちゃっかり表に出ちゃうというのはフランスというかラテン的な考え方なのかなと思った。
第二楽章は 途中から 結構 速いスケールをピアノが弾いていくことになる。
音楽が速くなっても 中庸のテンションを保ちながら弾いておられるように僕には思えてそれもまたすごいことだなと感じた。
たぶん 第二楽章の表記が演奏会のプログラムによると アダージョとなっているので だとえ途中で音が速くなっても アダージョのベースを崩してはいけないという意識も働いているのかもしれない。
そういう なんというか 根本の型を崩さずに 自由にふるまえるというのがすごいことのように僕には思えた。
さすがに 三楽章になって 音楽がもっと激しくなると 中庸のテンションではなくなったけれど、、、。
アンコールにドビュッシーが演奏された。
聴いたことある曲だけれど タイトルまでは知らないという曲。
ちょっと勢い余った感じの演奏に僕には思えた。
けれど アンコールだし コンチェルトをやったあとだし。
最初から ドビュッシーを演奏する という意識で演奏されたら きっとまた違った感じになるのだろうと思った。
演奏が終わった後 ピアノの後ろでアンコールを床に腰を下ろして聴いておられた広上さんの方にバヴゼさんは歩み寄られた。
その時になって 広上さんが後ろで聴いておられることに僕は初めて気づいた。
そして バヴゼさんと広上さんのカーテンコールは 二人の体格の違いを存分に生かしたパントマイムの要素も多分に含まれていてみていて楽しかった。
20分の休憩をはさんで次に
ラフマニノフの交響曲第3番作品44が演奏された。
いい曲なのだけれど 僕の理解がまだまだ足りないせいか いまひとつ交響曲としての統合性に欠けるような気がして どこか映画音楽のようだなという印象がぬぐいされなかった。
でも ときおり 木管や チェロなど主に低い音を受け持つ弦から ふっと気持ちが和らぐような旋律が出てくるのに気づいて そういうところはやはりラフマニノフだなと思った。
最後に毎年3月の定期恒例の今年で引退なさるプレーヤーの紹介がなされて、毎年のことだけれど、ちょっとうるうるっとなってしまった。
帰りは京都植物園の門からちょっと中をのぞいて それから地下鉄の駅に向かった。
駅にいく道々 夫婦でコンサートの印象を語る声が聞こえてくる。
ある おじさんが 奥さんと思しき人に「やっぱラフマニノフは辛気臭くないからええなあ」と語る声がたまたま僕の耳に入ってしまった。
確かにメロディは美しいし バーッと盛り上がるところもあるし 癒しの要素もあるし 辛気臭くない なるほど と思った。
でも それよりも なによりも 辛気臭くない という いわば関西独特の表現がコンサートの帰りに人の口をついて出てくるというのが 京都のコンサートだなと思う。
それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。