ケンのブログ

日々の雑感や日記

まとめてお得

2020年10月30日 | 日記
今日の新聞に○○ガスの社長が変わるという記事が出ている。

その記事にこのような記述がある。

“”
(○○ガスは)電力小売が全面自由化された2016年以降、関西電力などから約145万件の顧客を獲得し、首都圏にも進出した。(中略)
関西の電力、ガス小売市場は競合他社への切り替え率が全国で最も高く、競争環境が厳しい。
新社長は「勝ち抜くには新しい価値を提供することにつきる」として、、、以下略“”

ということでどうやら○○ガスは電力自由化でかなり関西電力などから顧客を奪っているらしい。

道理で、○○ガスからよく電力をうちで買いませんかというような内容の郵便物が送ってくるはずだと思った。

郵便物を顧客に送る。

そしてその何日後かに○○ガスから電話がかかってくる

「先日お送りした郵便物お読みいただけましたでしょうか」と○○ガスの担当者。

「いいえ、読んでいません」と僕。

「大体でいいんですが、お宅様の毎月の電気代はどのくらいか教えていただけますでしょうか。大体でいいです」と○○ガスの担当者。

「そのお答えは拒否いたします」と僕。

○○ガスの担当者は電話の向こうでムッとした感じになって、失礼しましたと言って電話を切る。

そんなもの回答を拒否するのはぼくにとっては当たり前。

大体、電気代がいくらか答えようものなら

「大体そのくらいの電気代でしたら、○○ガスに電気を切り替えると月々このくらい電気代がお得になります」という話の展開になって、まとめてお得の論理で○○ガスの担当者に理屈でまるめこまれてしまって、なんとなく○○ガスから電気を買わなければならないはめになってしまう展開は、予想できることだ。

僕、ガスや電気などエネルギー関係は生活の根幹だし、一つ間違えば大きな事故にもつながりやすい分野。

そういうものはやはりガスなら○○ガス、電気なら関西電力というように長年それ専門、もしくはそれ中心でやってきた会社にお任せするのが一番安心、という考え方。

ただ、安くなるというだけで切り替えたくないという考え方だ。

はっきり言って、電気をうちで買ってくださいという郵便物を送ってきたり、電話をかけてこられるのは迷惑という考え方だ。

電話は、拒否したのにも関わらず3回くらいかかってきている。

そういう関係の法律にぼく詳しくないけれど、拒否したところに繰り返し電話をかけることはまずいことではないのだろうか。

また、○○ガスの下請けの業者にガス警報器を取り替えてもらったとき、作業が終わったあとで、作業員の方が「ところで電気の話なんですが」と言ってこられた。

ガス警報機の取り替えに来て電気の話なんておかしい。

まともに話を聞いていたら、また、電気も○○ガスでまとめてお得の話になる可能性は高いと見た。

「電気の話は、なしにしてください。聞くつもりありません」と僕は言った。

ああ、すみません、と大阪ガスの下請けの会社の工事の作業員の方は言った。

そういう営業の話さえなければ、「工事していただいてありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。またお願いします」ということでお互い気持ちよく別れることができるのに、、、。

もう、こんな状況になってくると、ガスの工事に来てもらうのもイヤという感じになってしまう。

○○ガスの下請けの工事会社にまで営業の司令が下っている可能性は高いように思う。

ある携帯ショップのお兄さんが、関西は業者に家に来られることを嫌う傾向が高いですからね。
と言っていたけれど、それはそうなるだろうと僕も思った。

その○○ガスの下請け会社も以前はそんな工事に来て余計な営業の話をしてこられることはなかった。

それに、ガス警報器の工事に来ると言っておいて、電気の営業をするのは、厳密に言えば訪問販売法に抵触する可能性もないわけではないと僕は思う。

まあ、その点は法律の専門家に相談しなければわからないけれど。

逆に、関西電力の方はそんなに郵便物を送ってきたり、ガスもうちで買いませんかという電話をかけてくることもない。

いっそのこと逆にガスも関西電力でまとめてしまおうかと思うことさえある。

カレーショップでカレーを食べても、バイトのおばちゃんがカードの営業をしてくる。

スーパーマーケットで買い物をしても、カードの営業。

営業、営業、営業でもうそれをかわすのに気を使ってしまって、レジのお姉さんとまともに話をする機会もないような感じになってしまっている。

自由化でものが安くなると言うけれど、これだけ営業、営業、競争、競争の世の中で本当に私達は今までよりも幸せな毎日を送れるのだろうかと思ってしまう。

ものが安くなれば、自分が勤めている会社の商品も安くしなければ売れなくなり、結局、自分がもらえる給料も安くなってしまう、つまり、ものが安くなっても生活は楽にならない、という経済の論理もあるそうだ。

まあ、何を思ってもなるようにしかならないのだろうけれど、、、。

なんとか毎日、無事に生き延びていけるようにとねがっている。




ごみ捨て、褒めて押し付け

2020年10月28日 | 日記
僕が定期購読している全国紙の人生相談のコラムに次のような相談が出ていた。

“”
50代のパート女性。

職場での一幕です。ゴミ箱が満杯になっても、いつも放置されています。見かねて私がまとめ、階下の収集場所へ持っていくと、終わってから飛んできて「ありがとう」「見習います」と騒ぎ立てる同僚たち。

給与体系は違えど経営者側でもなく、雇用されている立場なのに、まるで会社代表みたいに礼を言ってくる。

とはいえ先んじてゴミ集めをすることはなく、逆に「この人がゴミ集めをする人」とわたしのことを周知させ、それを押し付けてくる。

そして「ありがとう」を言う自分たちは他人を褒めて認めるすてきな人。私とってはありがとうの呪い。

これは一例でしたが「ありがとう」が不快で苦痛です。“”

内容を読んで、ああ、これは事務職の職場だなとピンときた。本当に事務職の職場でよくある話。僕も会社で原稿を書いたり、校正したり、その意味ではいわゆる事務職と同様の仕事だったから相談内容を読むと様子が手に取るようにわかる。

誰もゴミ集めをしたがらないのは、それをやっても勤務評価が上がるわけではないから。
ゴミ集めが勤務評価の査定項目に入っていれば話は別だけれど、オフィスのゴミ集めは普通は勤務査定の項目には入らないだろう。

それに、女性は特に既婚者なら家に帰ったらやはり家事などもしなければならない。余計なことはしないでなるべくさっさと帰りたいのが本当の気持ちと思う。

そして、ゴミ集めは意外と時間がかかる。

ゴミを集める。ゴミ袋を縛って口をふさぐ。階下の収集所の鍵を所定の位置に取りに行く。
エレベーターで階下まで降りる。ゴミ収集所の鍵を開けて所定の場所にゴミをほかす。
またゴミ収集所の施錠をして自分のオフィスの階まで戻ってくる。そして鍵を所定の位置に戻す。そしてゴミ箱に新しいゴミ袋をセッティング。

これだけのことをするのに10分くらいは時間がかかる。場合によってはもっとかかるかも知れない。

会社のビルでゴミの分別が決められている場合には分別作業までしなければならないはめになることもある。そうなると本当に20分はかかる仕事になってしまう。

さらに、お局のような人がいて、ゴミの分別が規則通りにできていないと、それでねちねち言ってくる場合もある。

そうなると、お局にたいする気遣いまで増えてしまう。

その間に例えばパソコンの入力作業の仕事だったら何件の入力ができるか。

こういうゴミを集める時間や気遣いって、本当に馬鹿にならない。

ゴミを集めていたばかりに、勤務査定のときにパソコンの入力の件数が少ない、などど言われようものならばパート職員ならばパート契約の更新が危うくなることさえある。

本当に、勤務査定がいわゆる成果主義になってからこういうことがよりいっそう多くなったように思う。

僕もいっときゴミを集めるかかりをやっていたことがあるから気持ちはとてもよく想像できる。

会社の帰りにポストによってみんなの郵便物をポストに投函するかかりになんとなく成り行きでなってしまったこともある。

ポストに投函するだけやん、とやったことのない人は思うかも知れない。

しかし、会社と駅との間にポストがない場合にはポストまで回り道をしなければならない。すると、帰りの電車を一本のがすことになる。

それで電車の乗り継ぎがちょっと狂ったりすると(例えば一本のる電車が遅れたばかりに急行の代わりに準急が来る乗り継ぎになるということが都会の電車ではよくある)家に帰宅する時間が15分20分と遅れてしまう。

その残業代が出るわけではない。

しかし、一回、僕がポストに投函する役だと言うふうになってしまうと、僕が会社を出て帰ろうとすると「ヘイ、ポストマン。ちょっとこれから封筒に切手を貼るから5分だけ待って」と言ってくる人もいた。

本当にいい加減にしろとおもいつつも5分待っていた。

マクドのようにゴミ箱を定期的にきれいにしないとお客に直接影響の出る職場なら、ゴミ集めもちゃんとした業務とみなされるだろうけれど、事務の仕事ではこういう相談者の女性のような事例ががおこりやすい。

まあ、今の僕だったら、この女性に、ゴミ集めなんか率先してやらないで、床がゴミだらけになるまでほっといたらいいよ。

それで、ゴミだらけになったら結局はそこの部署の責任者の責任。そのくらいに思ってないとやっていけないよ。とアドバイスするかもしれない。

とにかく今の時代はゴミ一つでもヘタに自分の判断ではやらないでとにかく責任者に報告、相談、それが原則だと思う。

自分の判断で率先してやっても勤務評価にはつながらないのだから、、、。

職場でいきていくためには綺麗事ではやってられない時代になってしまっている、、、。


地道に行けますように

2020年10月27日 | 日記
今日の新聞を読んでいると都心で高級クラブを経営する方の談話として、26歳のときナイトクラブの客である大手商社の部長に名刺を出して挨拶したことがあると書いてある。

その部長にナイトクラブの副社長の肩書を書いた名刺を差し出すと大手商社の部長は、その名刺を投げ捨てて「お前なんか、しょせん水商売だ」と冷笑を浴びせてきたという。

新聞にはこういうことが起きた話の前後関係は書いてないので商社の部長さんにクラブの副社長が何か至らない対応をしたのかも知れない。

しかし、お前なんかしょせん水商売だよと言って差し出された名刺を投げ捨てるというのもまたずいぶんひどいはなしだなと思う。

僕もこういうクラブのような場所に精通しているわけではないので、あくまで想像なのだけれど、たとえ大手商社の部長であってもサラリーマンがこういう場所に遊びに行けるというのは会社のお金(接待費)などを使っていく場合が多いように思う。

たとえ部長であってもサラリーマンならば毎回自腹を切ってクラブの馴染みになるほど遊びに行ける人はそんなにいないと思う。

こういうときに会社でえらい立場になる人って、なぜか会社のお金でここに来させてもらっているという自意識の人よりも、俺は会社の金を使う権限のある実力のある人間なんだと思うタイプの人が多いように思う。

つまり、クラブに遊びに来られるのは自分の実力なのだと。

まあ、どんな自意識を持とうとその人の自由だし、会社で重要なポジションにつくというのも一つの才能であり努力でもあるとは思う。

しかし、こういう話を新聞で読むと、八王源先生が生前「部長、課長と言ってもね、みんながちやほやしてくれるのはその地位にある間だけ。誰でも、地位のある人間には頭を下げないと自分の立場が危うくなるでね。それでみんな地位のある人間をちやほやするの。でも、その人がその地位から去ったらただのおじさん、おじいさん。誰も見向きもしないようになるの」としばしばおっしゃっていたことをしみじみと思い出す。

その頃は僕も若かったので、そんなものかなあと思ってその話しを聞いていた。

しかし、自分がもう還暦に近い年齢になってきて、会社などの一線を退いた人を見る機会が多くなるにつれて、本当に、会社に勤めていた頃、部長や課長だったとしても、その地位をおりてしまえばただのおじさんだなと思うことが多くなった。

ただのおじさんならまだいいけれど、部長だった頃のえらそうな口調や考え方はくせになってしまってなかなかぬけないから、それがいわゆる老害というものになってしまうこともしばしばという感じだ。

あと、若い頃に体を鍛えたり、勉強したり、そういう習慣を身につけなかった人は歳をとってから、なんかよれよれという感じになってしまう場合も多いなというのも最近しばしば思うようになった。

自分のどんなふうに歳をとるか、それはわからないけれど、なるべく謙虚な気持ちで努力するという姿勢はできることなら続けたいなとは思う。

コロナも欧州でまた拡大、大阪でも感染者がまた増えていると新聞に出ている。

なんとかこういう時期を地道に乗り切っていきたいものだなと思う

この目で見てやろう

2020年10月26日 | 読書
芹沢光治良の「人間の運命」という小説に次のような記述がある。

“”
(主人公次郎の旧制中学時代からの親友、石田孝一の母は次郎に言う)

「次郎さんそれでお願いに上がりましたが・・・娘たちは家を出た人たちですから、親の決めたことは、いやいやでも承知してくれますが、孝一夫婦を納得させるのは、とても難問です・・・

それで主人とも相談の上で、お願いに上がったんですが、孝三(石田孝一の弟)の結婚を認めるように、孝一夫婦を説得してくれませんか。(結婚)相手の娘さんが次郎さんのお友達の妹さんで、すなおなお嬢さんで、次郎さんのお宅でしばらく行儀見習いをしていたことや、(結婚相手の)お兄さんは早稲田出の新聞記者であるが、小説家志望で小説を書いていることなども、話して・・・

娘さんは田舎へ来て、郵便局をやることを喜んでいることも、書いてやってください。あの子(次郎の親友石田孝一のこと)は次郎さんのお手紙なら信用しますが・・・私達が話しても、孝三を甘やかしているようにとりますからね。どうぞお頼みします」
と言い加えて、おじぎをするなり、次郎が引き受けるものと頭から決めて、手土産の桃羊羹をのこして。こそこそ帰っていった。

次郎はしばらく縁側に立ちつくした。婦人の駒下駄の音を追いでもするように、ぼんやり考えていた。

石田(孝一)の両親や弟が家庭に面倒な問題があるたびに、何故自分に押し付けるように頼むのか。ただ石田の親友で幼い頃から知っていて気がおけないからか。

わが母が、石田の祖父が小間使いの女に産ませた娘であるために、家庭で使用人をあごで使っているように、自分をも無意識に軽く扱っているのではなかろうか。

わが家の小間使いに産ませた娘の息子であるから、血縁関係にあるものと扱わないで、大地主の封建制のもとの一種の奴隷のように考えているのではなかろうか・・・

その証拠には、石田の弟も母も、自分が結核で長く闘病していることについて、一言の見舞いの言葉もかけなかった・・・それなら、その大地主が崩壊するのを、一生かかっても、この目で確かめてやろう、そう次郎は自分をむちうった。

※小説では、石田孝一は次郎の旧制中学からの友人で大地主の息子。そして次郎は石田孝一の祖父が小間使いの女に産ませた娘の子で、石田孝一と次郎はその意味で血縁関係にもあるという設定になっている。“”


ここを読んだときに僕は次郎というのはすさまじい気迫の持ち主だなと思った。

こんなすごい気迫の持ち主ってちょっとお目にかかったことがない。

恨みでもない。かといって悟りきっているわけでない。

そのギリギリのラインを行っているところがすさまじいところだと思う。

ここを読んだときパウロのこの言葉を思い出した。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われると書いてあります」という言葉。(新約聖書ローマびとへの手紙代12章より)

キリスト教関係のサイトを見ていると、キリスト教の先生がここを引用して、自分で復讐せず飢えている人には食べさせ渇いているひとには飲ませるように愛と善に生きましょう。というような話になりがちだけれど、芹沢光治良の小説を読んでいると、神の怒りにまかせるという思いはそんなになまやさしいものではなく、むしろすさまじい気迫なのだな、というように思えてくる。

そして小説のここからあえて何か教訓を求めるとすれば、何か困難にぶつかったとき、それにうちひしがれるのではなく、どうなるかはわからないけれど、とにかく結果をこの目で見てやろう、そういう思いが困難に負けないために大切なのだということだと思う。


ラミレス監督退任

2020年10月25日 | 日記
横浜ベイスターズのラミレス監督が今季限りで5年間優勝できなかった責任をとって退任するという記事が今日の新聞に出ている。

新聞には退任の記者会見を終えて帽子をとって挨拶するラミレス監督の写真が掲載されている。

その写真を見てプロ野球の監督の退任の記者会見でこんなに穏やかで悟りきったような目をして挨拶する監督はかつて見たことがないと思った。

優しい目をしておられそれでいてどことなくその目が憂いを帯びているところが最高に素敵。

ラミレス監督といえば日米の通算ではなく日本のプロ野球だけで通算2000本安打度達成した唯一の外国人選手ということで有名だけれど、そういう誰もやったことがないことを成し遂げる人はやっぱりちょっと違うなと思った。

三冠王とかそういうタイトルに比べると日本での通算2000本安打というのは話題性とか派手さにはかけるかも知れない。しかし、日本人選手でもごく限られた一握りの人しか達成できない通算2000本安打という記録を南米のベネズエラからやってきて自分が育った世界と文化の違う環境で達成してしまうのは並大抵のことではなかったと想像する。

そういうラミレス監督の人柄とか困難を乗り越えた経験とかそういうすべてが現れている表情が新聞の写真に写っていると思った。

どこの世界にもいろんな意味で素晴らしい人というのはいるものだなとしみじみと思う。

話は変わって
大阪の北のターミナル駅を降りたすぐそばにHEP FIVEという商業ビルがある。僕もそこのチケットぴあで時々チケットを買ったりしている。

そのHEP FIVEは特に若い人が好んで待ち合わせ場所にするところで、いつも若い人、特に女性が多くたむろしている。

一昨日その多くの人がたむろしている場所に飛び降り自殺した人がいて、ビルの上から飛び降り自殺をした人の体が地上にいた女子大生の背中を直撃した。

昨日の新聞にはその女性は意識不明の重体と出ていたけれど、今日の新聞には搬送先の病院で死亡したと出ていた。

同じ事故死でも、なんか交通事故とかそういうのとはちょっと違うような気がする。

もちろん、家族を失った人の悲しみはどんななくなり方でもかわりないのだけれど、なんか自殺の巻き添えでなくなるなんてそんな理不尽なことがあるものかと思ってしまう。

また、自分が自殺して、他人まで死の巻き添えにしてしまう人というのも不適切な言い方かもしれないけれど、本当に因果なことだなと思う。

自殺した方の親族の方はまた、それはそれでやりきれない気持ちでおられることと思う。

こころよりご冥福を祈りたい。

またまた、話題が変わって
街の横断歩道を歩いていたら、若いカップルがやはり横断歩道を渡っていて男の子が女の子に「やっぱり、あのときライン交換しといてよかったわ」と言っていた。

なんとなくあのときラインを交換しておいたからこうして二人が付き合うことができたと言いたげな感じだった。

本当に僕が若い頃とは男女のコミュニケーションのとりかたも違ってしまったなと思う。

駅のコンコースではちょっと不機嫌そうな顔をした女の子のところに男の子がスマホで地図のアプリを開きながらやってきて、「ごめん、逆の方向に行ってたわ。こっちやったんやな。途中で勘違いに気づいた」と言っていた。

僕が若い頃は待ち合わせ場所を決めるときはお互いが知っている場所を選んだものだけれど、今は、地図のアプリを見ながら来てよ、ということになりがちなのだろうと思った。

もしそれで間違えてもそれこそラインでやり取りすれば二人が出会えないということはまずないし、、、。

女の子からアプリ見ながら来てよ、と言われて、アプリ見ながら行くの苦手といえば男がすたるかも知れないし。

まあ、時代も変わったものだなあと思うけれど、そういう不確実な要素の多い待ち合わせの仕方って僕は苦手だなと思う。

もし、僕が今の時代の若者だったとしても、不確実な要素の多い待ち合わせの仕方はイヤ、とはっきり言うかも知れないと思ったりした。

いつか、新聞のコラムに若い人はスマホを駆使すれば待ち合わせなんで当日になってからどうにでもなると思っているから仕事で若い人と待ち合わせるのはストレスだ、という主旨のことを書いている人がいたけれど、そんな気持ちわかるような気がするなと思う。

逆に、そういういろんなアプリに精通していて、それで若い人によからぬことをたくらむ中高年もいるし、、、。

まあ、考えていたらキリのない話だけれど、、、。