ケンのブログ

日々の雑感や日記

夏の終わりのハーモニー

2018年08月31日 | 日記
今日で八月も終わりだなと思う。
聴いていたラジオに届いたお便りに
暑いのはいやだけれど夏が終わるのは寂しい 
という内容のものがあった。
その通りだなと思う。
猛暑はいやだけれどまた来年もよい夏を
というようなことをDJが言っていた。
そうであるといいなと思う。
ラジオで今日は一般的には夏休みの最後の日ということで
夏休みの宿題ということを男性のゲストと話していた。
男性ゲストが僕は要領をかますタイプだったので
提出日に提出せず、友達に写させてもらったり
いろいろ工夫してました、というようなことを言っていた。
すると女性のDJは
「私は提出日を知っていながらその日に出さないなんてことが
できない人だったので出してましたけれど
出さないでなんとかなるならそれが賢明です」と応じていた。
まあそうかもしれない。
僕が小学生の頃は「夏の友」という
学校に出入りする業者が作った問題集が
宿題としてあてがわれることが多かった。
僕はこの問題集が嫌いで、夏休みのおわりごろに
一気にやって適当に提出していた。
僕の記憶では日記形式になっている問題集で
毎日一定のペースでやっていけば
ちょうど夏休みの間に終わるように編集されていた
問題集だったけれど、そんな真面目なやりかたは
したことがなかった。
高校の頃、数学で黄色チャートが自習用に配布されていて
これが夏休みの宿題になったことがある。
一学期に習った範囲のチャートの例題と類題をすべて
やって提出するという宿題だった。
チャートは例題と類題だけでもかなりの量になる。
夏休みにまったく宿題をしなかった。
二学期になって学校に出ていって隣の席のyy さんに聞くと
宿題はやってきたと言っていた。
ちょっとノートを見せてもらった。
確かにしっかりとノートに問題を解いてある。
「すまんけど写させて」と僕は言った。
yy さんは写させてくれた。
家に帰ってくると一目散にyyさんのノートを写して
翌日に数学のG 先生に提出した。
一週間くらいたったある日、数学のG先生は授業で言った。
「この中には少なくとも二三人は友達のノートを写して
宿題を提出したものがおる。
こちらもプロやからね。同じところで同じ間違いを
複数の生徒がしていれば、ちゃんとわかるんだよ」と。
その言葉を聞いたとき僕はしまったと思った。
yyさんのノートをただ機械的に写しただけで
間違いなどチェックしなかった。
僕以外にyyさんのノートを写した人も
同じだったようだ。
しかし、僕以外にyyさんのノートを写した子がいることは
そのときはじめて知った。
そういうことだけ生き馬の目を抜くような生徒が多い
高校だった。
あとで職員室に呼ばれてG先生にお説教を
食らうものと思っていたけれど
それはなく教室で宿題を写して提出した生徒がいることを
先生は指摘しただけだった。
しかし、これは成績に響くだろうと思った。
しかし二学期が終わってみると、通知表には
定期考査でとった点数にまったく見合った成績が記載されていた。
いやあ、G先生、宿題のことは教室で一言かましただけで
あとはおとがめなしにしてくれてよかったとあのときは
しみじみと思った。
大変熱心に授業をなさる先生で
黒板に数式をぎっしり書いて
「上の段と下の段の式の正負を比較すると
これだけいっぺんに文字と数が消えますね。
はい、ありがたき幸せ」といいながら
余計な文字と数値を黒板から消していかれる
様が今でも目に浮かぶ。
いい先生だったなと思う。
今時、ありがたき幸せという言葉を教室で使う
先生ってそんなにいないと思う。
G先生は旧制教育を受けた世代の先生だった。

ラジオでは夏の終わりということで
井上陽水さんと玉置浩二さんがコンビを組んで
ヒットした夏の終わりのハーモニーを流した。

歌詞の一節
二人だけの恋のハーモニー

のハーモニーというところを
陽水さんと玉置さんで本当にきれいにハモって
美しい歌だなと思う。




八月は夢花火

2018年08月30日 | 日記
もうそろそろ八月も終わりだなと思う。
夏の甲子園も終わってしまったし。
これは現実の話ではなく僕が子供の頃夢中に
なったいた巨人の星という漫画のなかでの話なのだけれど、
星飛雄馬と伴宙太が所属する青雲高校は
甲子園の決勝で破れ準優勝で
東京に帰ってくる。
甲子園も終わった八月の末ごろ
伴宙太と星飛雄馬は青雲高校のグラウンドの片隅に
二人でたたずむ。
夏の甲子園大会の間、留守になっていた
青雲高校のグラウンドにはいつの間にか
夏草が生い茂っている。
それを見て伴宙太は
「夏草やつわものどもが夢のあと か」と寂しそうにつぶやく。
「お互いにこのグラウンドで甲子園目指して
死に物狂いで頑張ったな」と伴宙太が星に言う。
星飛雄馬は黙ってグラウンドのマウンド付近の
草をむしりにいく。
季節はちょうど夏の終わりの寂しい場面だった。
実は僕は松尾芭蕉の 夏草やという俳句を
高校の教科書ではなく
この伴宙太のセリフで覚えた。
子供心にも本当にいい俳句だなと思った。
 
今日は朝のFM放送で井上陽水の
少年時代という歌が流れた。
今日八月三十日は陽水さんの誕生日とのこと。
毎年僕は八月の終わりになると陽水さんの
少年時代を聴く癖があったけれど
今年はすっかり忘れていた。
ラジオを聴いて思い出した。

八月は夢花火 私の心は夏模様

本当にいい歌詞だなと思う。

陽水さんの歌に続いてラジオでは浜田省吾さんが
八月を歌ったある歌を流したけれど
なんだかメロディもアレンジも
重ったるくて好みじゃないなと思った。
会社の先輩で浜田省吾を好んで聴いていた人が
いたけれど僕は一貫して浜田省吾は
ほとんど聴かなかった。
その嗜好はこの歳になってもかわらないなと思う。
ラジオのDJが体操のパワハラ問題で
お互いの主張が真っ向から対立していることに
触れ、もちろん本当のことはその中にいる人にしか
わからないけれど、と前置きした上で
何だかきゅうくつというかいきづらい世の中になりましたね
と言っていた。
僕も話の真相はわからないけれど
なんだかDJの気持ちがわかるような気がする。
そして、それを感じているのは僕やDJだけではないような気がする。

ラジオでは村上春樹さんがノーベル賞に相当するような
文学賞の候補にノミネートされたというようなことも言っていた。
ハルキストのためにも今年は賞をとってほしいと言っていた。

なんだか、春樹さんのことで文学賞うんぬんで騒ぐのは
もうたくさんという気がする。
そっとしておきたいと個人的には思う。
谷崎潤一郎もノーベル文学賞の候補でありながら
受賞しなかったことが今では明らかになっているけれど
細雪の世にも美しい世界を思うとき
谷崎潤一郎がノーベル賞を受賞したしないは
今日どうてもいいことになっている。
少なくとも僕にとっては、、、。
春樹さんも同じことだと思う。


自己決定と幸福

2018年08月29日 | 日記
昨日の午後8時前地震があった。
震度2かそのくらいの揺れだったような気がする。
極めて主観的な判断なのであてにならない震度だけれど。
市民交流センターにいてエレベーターの前の踊り場に
行ったときに揺れた。
それほど恐怖を掻き立てるほどの揺れではなかったけれど
揺れているとはっきり認識できる程度の揺れだった。
念仏を唱えながら揺れがおさまるのを待った。
揺れはすぐに止んだけれどたっているときの感覚だけでは
あてにならないと思ってその場でしゃがんで
まだゆれているかあたりを見たり
自分の感覚を確かめてみたけれど
どうやらゆれは確かに止んだようだった。
エレベーターに乗って階下に降りていった若い子が
何人かいたけれど、地震のときは
エレベーターに乗ってはいけないと注意する余裕はなかった。
あとでそのことをちょっと後悔したけれど
まあいいか、と思い直した。
結果オーライもいいところだけれど。
朝、ラジオのFM放送を聴いたいたら
娘に彼氏ができて最近デートによく行く
そこで私もと思い旦那を映画に誘ってみたら
めんどくさいは、いややと言われた。
というリスナーからのお便りが紹介されていた。
まあ、世の中にありがちな話だなと思う。
スーパーのイートインコーナーに行ったらおばちゃん同士が
話をしていた。
「私な、寝られへんねん。ここ3日くらい寝てへんねん。
寝てへんて、寝てないわけやないんやで
ただな、いつ寝たかどうか分からへんねん。
寝たゆう感覚がないねん。
ほんでな、夜中の一時くらいに目が覚めるやろ
そうするとなんかお腹が空いてるねん。
それでバナナ食べんねん。
目が覚めへんかったら、べつにお腹もすかんのやけどな」
と結局おばちゃん健康やないかと突っ込みを入れたくなるような
話をえんえんと続けておられる。
きっとそこそこ幸せな人なのだと思う。
思いっきりなにかを話せる相手がいたらまあ幸せだと思う。
まあ、おばちゃんにしかわからない悩みはきっとあるとおもうけれど、、、。
二三日前に喫茶店に入ったら
あるおばちゃんが
「ほんまに、あの人もまあ、今まで
私の悪口をさんざんよく言ってきてくれたもんやと思うわ」と
かなり大きな声で話していた。
そのときはおばちゃんもっと小さい声ではなせばいいのにと思った。
本当におばちゃんという人種は本能だけで
ものをしゃべっているのだろうか。
それもしかりかもしれない。
イエスも鳥が神様に守られていることを引き合いに出して
人間も同様に守られていることを悟れ
という主旨のことをいっている。
言動が本能的になるのはあながち
悪いことではないのかもしれない。
もちろん人間である以上はそこに
修養というものがあればもっといいのだろうけれど、、、。

話の時間軸が前後するけれど
ラジオで興味深いニュースを紹介していたので
内容を覚えておいてもう一度
それをネットで確認した。
ラジオで紹介していたのはこんなニュースだ。
神戸大学のチームの調査によると
日本人の主観的幸福感には
所得や学歴よりも選択の自由
自己決定度が強い影響を与えていると。
言われてみればきっとそうなんだろうなという
調査結果だと思った。
自分で決めてやっていくということは
大変なことと思うけれど
それができた人はきっと幸福感も強いのだろうと。
サマセットモームの
up at the villa
という小説はこんな文句で終わる。
to take risks that is what the lefe is for.
日本語に直訳すると
リスクをとる。そのために人生はある。
ということになるのだろう。
リスクってなにも経済的リスクに限ったことではない。
自分で決めればリスクは自分持ち
人のせいではない。
神戸大学の調査結果のニュースを読んでいて
サマセットモームの小説の最後の文句が
ふと頭に浮かんだ。
もちろん何をするにしても
真に自分一人でできることなど何もないので
常に人のおかげを受けられるように
人を軽く見ないことは常に必要だけれど、、、。

山口県で行方不明になった2才の男の子を
発見したおじさんのニュースがネットに最近よく載っている。
それを見ていたら
おじさんは、パックのライスも暖めずにそのまま
食べると出ていた。
実は僕もパックのライスをそのまま暖めずに食べてみたことがある。
そんなもの、暖めないパックのライスなんて
パリパリで食べられたものではない。
霧吹きで水をかけたらどうなるだろうと試してみたことも
あるけれど、それでもごわごわで
続けて食べる気にはとてもならない。
僕は2才の男の子を発見したボランティアのおじさんに
負けたと思った。
世の中なにごとも上には上があるものだと思う。
ボランティアのおじさんは自分で決めて
生きておられる方の代表格かも知れない、、、。

歌声サロン8月27日 28日

2018年08月28日 | 音楽
昨日と今日二日続けて隣の町の歌声サロンに出席した。
昨日は隣の町の劇場で催された男のK先生の歌声サロンだった。
会場の入り口で先生に会うと先生は
ナカシマさんこんにちはと言ってくださった。
半月ほど前の先生のジョイントコンサートのあとで
先生が僕に名前をまだ聞いていませんでしたとおっしゃったので
僕が名前をそのとき言った。
するときのうその名前を覚えていてくださったのでとても嬉しかった。
やはり名前を覚えてもらうということは嬉しいことだなとしみじみと思う。
全部で6曲歌ったのだけれど
先生は今日は残暑で暑いのでなるべく涼しい歌をと思い選曲しました
と言っておられた。
その中の一曲が家路という曲だった。
ドボルザークの交響曲、新世界から、の第二楽章の
メインテーマに日本語の歌詞をつけた歌だ。
先生は交響曲、新世界からの解説をされた。
そして第二楽章のメインテーマは黒人霊歌と呼ばれることも
あるということまで思い入れたっぷりに解説してくださった。
もともと黒人霊歌でないものがそのように呼ばれることに
このメロディーの美しさの本質があるというような
趣旨の解説だったけれどいかにもK先生らしい
思い入れの深い解説だったと思う。
そのあと第一楽章のテーマはこんな風
第三楽章のテーマはこんな風
第四楽章のテーマはこんな風というように
結局ドボルザークの交響曲新世界からの
すべての楽章のテーマをピアノで弾いてくださった。
僕も第二楽章のテーマを聞くと
すべての楽章のテーマを口ずさみたくなってしまう
タイプなのでK先生にはとても共感を覚えた。
それに交響曲のすべての楽章のテーマを
ピアノで即興で奏でるってそう簡単にできることではない。
すごい先生だなと思う。
その歌声サロンが終わったあと
また先生は「ナカシマさん今日はありがとうございました」と声を
かけてくださった。
やはりそんな風に声をかけていただけと嬉しいと思う。
「こちらこそ、また次もよろしくお願いします」と僕は言った。
今日は市民交流センターで催された
女性のN先生の歌声サロンに言った。
いつも伴奏をなさるY先生が今日はご都合が悪いということで
I先生が伴奏をされた。
スペイン民謡に日本語の歌詞をつけた
追憶という歌を歌ったとき
僕は、さざ波かそけくという歌詞を、さざ波かけそくと過った。
隣の女性にひじを小突かれた。
歌が終わったあと「あかんやないの。プロが間違えたら」と
そのかたはおっしゃった。
「すみません」と僕は言った。
ポール・モーリアのポップスオーケストラや
森山良子さんの歌唱でヒットした
恋は水色も歌った。
この歌は一番と二番はマイナーからメジャーに転調する。
三番はマイナーからメジャーに転調せずそのまま終わる。
一番と二番でマイナーからメジャーに転調するところは
音程も高くなるので
よし高い声を出すぞと思って歌ったら
爆発的に大きな声が出てしまった。
歌のN先生が「爆発しましたよ」と僕におっしゃったので
二番は一オクターブさげて歌った。
三番ではマイナーからメジャーに転調してはいけないのに
伴奏の先生はメジャーの方に行ってしまった。
演奏が終わったあと僕は隣の女性に
昨年Y先生も同じパターンの間違いをされたことを話した。
すべての曲を歌い終わったとき
伴奏のI先生が僕の方にこれれて
「ききほれて間違えました」とおっしゃった。
隣の女性が「すごいやん」とおっしゃったので
「そうですね、それはお世辞でも嬉しいです」と僕は言った。
本当にお世辞でも嬉しいことってあると思う。


ブログを再開して一年経った。

2018年08月27日 | 日記
今日で一年あまり中断していたブログを
別のURLで再開して一年経った。
以前のブログはパソコンで更新していたけれど
今はタブレットのアプリで更新するのが基本になっている。
そういうことも要因のひとつになって以前のブログとは
雰囲気もちょっと変わったかもしれないと思う。
おかげさまでブログも再開できて一年たって
早いと言えば早いという気がする。
それが天の心であるならば
できれば地道にまたブログを更新していきたいと思う。
今日はちょっと曇りがちのお天気でさすがに若干涼しくなっている。
ブッダの言葉にパラパラと目を通していると
粗野ならずことがらをはっきりと伝える真実の言葉を発し
言葉によってなに人の感情をも害することのない人。
彼を我はバラモンと呼ぶ。 と出ている。

バラモンというのはここでは深く考えず
最上の者と解釈すればよいと思う。

言葉というのは本当にケースバイケースのもので
一律にこうあるべきというのはないのだと思う。
場合によってはもちろん嘘も方便ということもあるし、、、。
しかし、ことがらをはっきりと伝える、
これはプライベートにおいても仕事においても
あの人の話はわかりやすいと思っていただける
ひいては言葉によってしかるべき信頼を得るための基本であると思う。
どんな意図で何を語ろうとしているのかわからない
言葉に出会うと僕はしばしば混乱してしまう。
そういうことの少ないようにとは思うのだけれど。

昼前に隣の町の駅前のスーパーマーケットに行って
そこで買ったパンをイートインコーナーで食した。
平日の近郊都市のスーパーには年配の方が多い。
イートインコーナーで食事をしていた男性が
杖をついて歩いてきた別の男性に名刺サイズのカードを見せた。
するとその杖をついた男の人はそのカードを見て
大きな声で「統合失調症、ああ、あんたヘルプが必要か?」と言った。
そんなにでかい声で言ったらまわりにカードを見せた人が
統合失調症であることがわかってしまう。
そう思ってみると杖をついた男の人も認知症のような顔をしておられる。
まあ、今時、認知症も統合失調症もぜんぜん珍しいものではないので
べつにいいといえばいいんだけれど。
というかそういうことが平気で言える世の中のほうがむしろ
望ましいとさえ言えると思う。
本当に平日の昼間の年長者から学ぶことは多い。

二三日前の夕方お母さんとスーパーマーケットに買い物に来ていた
3才くらいの女の子がお菓子とおもちゃを買った。
女の子はそのお菓子とおもちゃを自分の布製のトートバッグに入れた。
10メートルくらい歩くと女の子は買ったお菓子と
おもちゃをトートバッグにちゃんといれたかどうか心配になったらしく
突然立ち止まった。
そしてトートバッグの口を目一杯広げた。
それから足をちょっと広げて
軽い前屈の姿勢になって
まるでトートバッグのなかに顔を突っ込むような勢いで
トートバッグのなかにちゃんとおもちゃとお菓子が入っていることを
確かめていた。
お母さんがそばであせった顔をしていることが
まるで女の子の目には入っていないようだった。
見ていると女の子の意識はトートバッグの中のおもちゃと
お菓子を確かめることに100パーセント集中していて
そのときはそれ以外にはなにも考えていないことがわかる。
本当に子供の一心ってすごいなと思う。
子供のようにそのときのことだけ考えていれば
なにも心配はないだろうに
へんなことが起きないだろうかと先のことを
取り越し苦労したり
あのときこうすればよかったと後悔したり
そんなことが苦の種になることが私たちは圧倒的に
多いと思う。
なるべく今の今を考えるようにしていきたいと思う。
岩谷時子さんのある歌の歌詞の一節
いいじゃないの今がよければ
にはきっと大きな意味があると思う。