ケンのブログ

日々の雑感や日記

名古屋フィルの定期演奏会を聴きに行く(第525回)

2024年07月25日 | 音楽
7月20日愛知芸術劇場に名古屋フィルハーモニー交響楽団の第525回定期演奏会を聴きに行った。

指揮はグミアン イオリオさん

最初に演奏されたのが

グリンカ 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲。

かなり快速テンポで 勢いよく音楽が進んでいく。

弦楽器も かなり良く鳴っているように思えた。かなり元気な演奏なのに パワーがマックスまで行ってない まだ 何となく余力があると感じられるのは きっとティンパニーの響きがマイルドだからだろうな とか考えながら演奏を聴いていた。

元気なのに 余力があるというのが 僕の気に留まった点で まずティンパニーが柔らかいからと思っていて それから 指揮者を見たら 肩幅が広く、がっちりしいていわゆる体格のいい人だった。

体格がいいからオーケストラに 余裕をもって気を送ることができる そんな風に僕には見えた。

それも 元気だけれど余力があるように聴こえる要因かな、などと考えながら演奏を聴いていた。

視覚的に見ても 例えばバイオリンは後ろの方までキビキビ動いているように見えて、細かい音もかなり聴こえてきてなんだかいい感じと思いながら演奏を聴いていた。

次に演奏されたのは

ピアノ ジャン チャクムルさんでチャイコフスキーピアノ協奏曲第一番

第一楽章 ちょっとピアノの音がドミノ倒しのように前に前に倒れこんでいくようだなと思いながら聴いていた。

残響が長すぎかな、と思いながら聴いている場面もあった。
要するに僕が好きなタイプの音ではないような感じだけれどそれは好みの問題だから。

ピアノよりもどちらかというとオーケストラの方に注目して聴いていた。

第二楽章
この楽章はピアノもオーケストラもなんだかいいなと思って聴いていた。

ピアノはスッとした感じだったし、木管が美しいメロディを切々と歌ったりするのはいいなと思っていた。

第三楽章もなんだかピアノがちょっとものたりないかも と思いながら聴いている場面もあった。

ただ、この曲に関しては若いころに聴いた ラザールベルマンさんが来日した時のNHK交響楽団もついていけないほどのすごい演奏とか、アルゲリッチさんがキリルコンドラシンさんの指揮で演奏されたものとか、もう圧倒的としか言えないような演奏の録音が心のどこかにこびりついてしまっているので、そういう影響も多分にあるような気がする。

全体に この演奏も オーケストラのパワーがマックスまで行かないのは 指揮者の体格がいいことと ティンパニーが柔いからかな、などと思いながら演奏を聴いていた。

休憩をはさんで次に演奏されたのは

ショスタコーヴィチ コンロン編 歌劇「ムツェスク郡のマクベス夫人」

このメロディ、シンフォニーでも聴いたような気がするとか思いながら聴いていた場面もあったけれど 何番のシンフォニーとか気づかずに終わってしまった。

ただイメージとして 音がおどけたように快活に転がるところでは交響曲第9番を、また、荒涼とした情景が目に浮かぶような曲想の場面では交響曲第11番を思い浮かべることが多かった。

そして交響曲11番は標題音楽だし、交響曲第9番は多分にパロディの要素があるであろう、ということに思いが至る。

何となくそのような点で「ムツェスク郡のマクベス夫人」と共通点があるように思える。

そして15曲のショスタコーヴィチのシンフォニーの中で9番と11番ってそういえば CDで聴く回数が僕にとっては結構多かったなとか そんなことを思いながら演奏を聴いていた。

歌劇の音楽なのでシンフォニーに比べるといろんな楽想が次々と出てきて、その意味では楽しかったけれど 逆に 次々いろいろ出てきてせわしないなと思うこともあった。

できればシンフォニーを聴きたかったような気がするけれど コンサート後半の40分くらいの時間で演奏できるショスタコーヴィチのシンフォニーとなると結局5番ということになってしまいそうだし、今まで聴いたことのないショスタコーヴィチの曲をコンサートで聴けてよかったなと思った。

この曲もオーケストラはかなりの熱演だったと思う。

演奏会が終わって外に出ると まあ 蒸し暑いこと、いよいよ本格的に暑いシーズンだなと思う。

後日談だけれど、演奏会が終わって何日かして クラシックにあまり興味のない人にコンサートに行った話をしたら、その人が「チャイコフスキーって何んかいいよね どうしてかなあ」と僕に言った。

普段クラシックをあまり聴かない人にどういったらいいかわからなかったので とっさに「チャイコフスキーの音楽はロシア民謡の要素が多分に織り込まれているし、ロシア民謡はメランコリックだし、そういう雰囲気がチャイコフスキーの魅力だと思う、そして たぶんそれはショスタコーヴィチにも言えること」と答えた。

そして 後になって その答えでよかっただろうか と自問自答してみた。

考えてみればチャイコフスキーのピアノコンチェルト第一番の第三楽章は、ほとんどロシアダンスの雰囲気だし まあ あたらずとも遠からずかと思った。

でも ロシアの音楽や そして文学がすごいのは(文学はあまり読んでないけど) やはり昔から農奴問題とか厳しい気候とか 人権抑圧とか 戦争とか 要はしんどい目をロシアの人はしているから そのことが大きな理由の一つなのだと思う。

それはともかくいちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。







名古屋フィルハーモニー名曲シリーズを聴きに行く(第92回)

2024年07月11日 | 音楽
7月5日、日本特殊陶業市民会館フォレストホールに名古屋フィルハーモニー第92回名曲シリーズを聴きに行った。

指揮 ニル、ヴェンディッティさん
ピアノ サー スティーヴン ハフさんで

最初に、ラフマニノフピアノ協奏曲第3番が演奏された。

曲が始まってしばらくの間 ピアノとオーケストラの意気が微妙にあっていないと感じてちょっと大丈夫だろうかと思う場面があった。

僕はコンチェルトを聴くときに 意識の照準を指揮者に置くべきかソリストに置くべきが混乱してしまうことが時々ある。

しかし、当日の演奏は そういうレベルの話ではなく演奏そのものが指揮者のリードで進んでいるのか、ソリストのリードで進んでいるのか わからないと思う場面があった。

第一楽章の後半になるとだんだん ソリスト つまりピアニストが演奏を支配しているんだなと感じるようになった。

そう感じてからは割と落ち着いた気持ちで演奏を聴くことができた。

ただ、ラフマニノフのような音楽になるとホールの音響が若干ドライであることがちょっと気になるなと思う場面もあった。

たぶん僕はラフマニノフの音楽の中でピアノコンチェルト3番をCDなど録音で聴く回数が最も多いと思うけれど 生演奏では奇妙な風景に出くわすことが多い。

かれこれ8年近く前に 大阪のフェスティバルホールで山田和樹さん指揮、河村尚子さんピアノ バーミンガム市交響楽団の演奏でやはりラフマニノフのピアノコンチェルト3番を聴いた。

この時も 演奏が始まってしばらくの間ピアノと指揮者の意気が微妙にあっていないなと思う場面があった。

ただ、僕がそう思っていたら 山田和樹さんが オーケストラよりもむしろピアノに向かって積極的に気を送っているように僕には見える場面があって、そうこうしているうちに指揮者とピアニストの意気がだんだんあってきて 演奏は尻上がりに盛り上がっていった。

あの時の 指揮者がピアノを指揮しているように素人には見えるという光景が何ともほほえましくてちょっと僕には忘れられない。

この日の名古屋フィルの場合は 指揮者がちょっとコンチェルトに不慣れかも(指揮者の動きがオーケストラの指揮者の動きというよりは合唱コンクールなどの指揮者の動きに近いように僕には見えた) と思っていたらだんだんピアニストが演奏を盛り立てて行って次第に演奏が熱気を帯びてきた。

このように 指揮者とピアニストが意気をはかりながら演奏をものにしていく このラフマニノフの3番のコンチェルトでそういう場面を2度見ることができたのは ちょっと奇遇というか僕にとっては印象深い体験になった。

休憩をはさんで次に
望月京 ベートーヴェン交響曲第2番と第6番の間奏曲が演奏された。

この曲は作曲された望月京さんがプレトークでベートーヴェン交響曲第二番フィナーレのドレドレという音をモチーフにしたというようなことを語っておられた。

どれどれ どこかでドレドレの音が出てくるだろうかと思っていたけれど 結局 気付かずじまいだった。

ベートーヴェン2番、6番の他のモチーフも出てくるだろうかと思っていたら そういうことにも気づくことができなかった。

ただ、いろいろオーケストラから奇妙な音が出てきて これはゲゲゲの鬼太郎など妖怪映画のBGMによいかも と思いながら聴いていた。

最後に
ベートーヴェン交響曲第二番が演奏された。

これは僕にとってはとてもよかった。

あるいはこの曲に最もリハーサルの時間を割いたかもなどと余計なことを考えていた。

第一楽章はフレージングが短いところが多かったけれど ピリオド奏法的な演奏というわけでもなく、響きはそれなりに豊穣で迫力があるように聴こえた。

イントロダクションが終わって主部に入ると 弦楽器もかなり踏み込んでいくというか切り込んでいくというかそういう印象だった。

全員で踏み込んでいければ すごいことになるのだと思う。ただ、 僕の目にはファーストバイオリンとセカンドバイオリンの一番前で弾いている方が 率先して踏み込んでおられるように見えた。 だから、オーケストラ全体で鋭く切り込んでいるのか 前の方が踏み込んでおられるので 全体的に切込みの鋭い音に聴こえるのか その点はちょっと微妙かも と思いながら演奏を聴いていた。

ただ、視覚的に、踏み込んで行っておられる奏者が見えるというのは 聴く側も気合が入って楽しいものだなと思った。

あと第一楽章の終結部ではテンポを速めて緩めて終わるという感じだったけれど、これは音楽的ジョークなのかなと思った。

あるリラクサロンのセラピストの方が「凝った筋肉を伸ばして緩めます」という言葉を自分のプロフに書いておられたことを思い出した。

第二楽章もスーッと行く感じでいいなと思った。

オーボエが僕にとっては聴きなれない 不思議な装飾音をつけておられるなと思う場面もあった。

第三楽章は高速メヌエットとうかプログラムにもはっきりとスケルツオと書いてある。

ちなみに 第一楽章はアレグロコンブリオと書いてある。

僕にとって竹下登内閣と言えば消費税導入 そしてベートーヴェンのシンフォニーと言えばアレグロコンブリオとスケルツォ導入というイメージだけれど この第二番でその形がはっきりと確立されるんだなということを生演奏を聴くことでつくづく思い知った。

そして、天才は早い時期からもう天才だなと思った。

第四楽章も弦楽奏者の方が踏み込んで行かれる様に触れるのは 見ていてそして聴いていて楽しく 音楽ってほんとうにいいものだなと しみじみ思った。

最後は、トランペットが主和音の音階を高らかに奏でた後、弦楽器を中心に主音を5回たたくように奏でて曲が終わるのだけれど 最後の音で演奏がピタッととまって その止まり方が例えば体操選手の着地がピタッと決まった時のように心地よく感じられた。

アンコールで その最後の主音を奏でるところをもう一度やったのだけれど 今回は最初のピタッとした着地に比べると まあ 不揃いだった。それは、最後のところだけやればタイミングが取りづらくて不揃いになるのは理にかなっているわけだ。僕にとっては、この不揃いなアンコールが最初のピタッと決まった見事な印象を薄めてしまうことになった。なので、このアンコールはやらなきゃよかったのにと思ったけれど、これは名曲シリーズだし まあ、いっか と思いなおした。


それはともかくとして 一日 いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。












京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く(第690回)

2024年07月10日 | 音楽
6月22日に京都市交響楽団第690回定期演奏会を聴きに行った。

もう演奏会から半月以上経過して記憶も薄れてきたけれど、それでもなんとか残っている記憶を思い起こして何か書こうと思う。


当日の指揮者は 井上道義さん

ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番 第2番がチェロ独奏 アレクサンドル クニャーゼフさんで演奏された。

ロシアのチェリストとプログラムに書いてあり、ロシアは今、戦争当事国であることを思い起こして、それだけでなんだかジーンと来てしまった。

戦争中でもこうして日本にやってきて演奏してくださるんだという思いと、戦争があっても人間は音楽をやめない という思いがどこかで交錯していたと思う。

チェロ協奏曲一番はステージを見ると金管はホルンだけであとの管楽器は木管であることに気づいた。

そして、僕がショスタコーヴィチのシンフォニーに抱いている特徴的なイメージは金管よりもむしろ木管のシャウトする感じ、まだ独特の不気味な感じであることに思いが至った。

実際、曲の冒頭付近でも チェロの不気味なモチーフに木管がやはり不気味な感じで合いの手を入れているのが印象的だった。

特に ファゴット クラリネットなどチェロと比較的音域が近いと思われる楽器(音域を調べたわけではないので詳しいことはわからないけれど)とチェロのからみはとても充実感に満ちているように僕には思えた。

僕は弦楽器の低い音にはよく耳が反応するけれど 木管の低い音にはあまり耳が反応しなくてファゴットってでかい割になにをしているかよくわからない楽器だなと思うことがあるけれど、このチェロ協奏曲ではファゴットの音もかなりキャッチすることができてよかった。

第二楽章など音楽が緩序になる場面では ショスタコーヴィチの何番という個別的なものではないけれど 全般にショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を心に思い浮かべることが多かった。

それだけ、演奏が精緻だったということなのではないかと思う。

続くチェロ協奏曲第2番ではやはり曲が静かで緩徐なところでは ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲が心の中で想起されることが多かった。

この曲もそれだけ演奏が精緻だったということなのだと思う。

演奏会プログラムの楽曲解説に「小太鼓のトレモロの上にホルンが調子っぱずれなファンファーレを拭く」とかいてあるところがある。

ここは例えば交響曲レニングラードで同じテーマを執拗に繰り返すように ショスタコーヴィチ独特の 執拗なことをこれでもかと繰り返し続ける という印象が小太鼓の側にもそしてホルンの側にもそしてもっと言えば二楽章から三楽章へと曲が続いていく場面全体に見られる。

そういう執拗な場面で小太鼓奏者の方が なんというか あまり派手な動作というのはなく遠くの僕の席から見ていると 僕が近眼ということもあるけれど ほどんど動かずに スッとそれをこなしておられるように見えて そういうことをそんな風にこなしてしまうというのもなんだか僕にはすごいことのように思えた。

最後に演奏されたのはショスタコーヴィチの交響曲第2番『十月革命』

この曲は冒頭の3分間くらい 弦楽器がいかにも現代音楽という感じの混沌とした音を奏でていく。

こういう場面になると、現代音楽が苦手な僕は通常、退屈してしまうのだけれど この日の演奏は その混沌とした音の一つ一つがセパレートに耳に聴こえてくるような気がして、本当にここでも演奏が精緻なんだな、よほど入念にリハーサルをされたのかな などと想像しながら聴いていた。

この交響曲が始まる前の休憩時間にプログラムに記載されたこの交響曲の合唱部分の歌詞の和訳を読んだ。

井上道義さんがプレトークでそうするように という主旨のことを話しておられたからだ。

その歌詞の中で「われらを束縛するもの、その恐ろしい名は、沈黙、苦悩、そして抑圧である」という言葉がひときわ目に止まった。というかそこだけ強く印象に残った。

そして、僕自身、束縛や抑圧を感じたとき、しばしばショスタコーヴィチの音楽を聴き、そこに表現された束縛や抑圧に対する怒り、悲しみ、茫然とした気もち、そうした心情に自分の心が同調し、ずいぶんと救われてきたことをしみじみと思い起こした。

そして、井上道義さんのおかげで初めて聴くショスタコーヴィチの交響曲もたぶん4曲くらいはあるのではないかと思い起こした。

その中で 井上道義さんが大阪フィルの音楽監督に就任されたときに演奏された交響曲ん第4番 そして この日の交響曲第2番の演奏がこれまでに聴いてきた道義さんのショスタコーヴィチの演奏の中でもっとも思い出深いものになった。

道義さんの演奏を聴くたびに このショスタコーヴィチなら世界のどこへいっても通用すると思って聴いていたけれど この日の京都市交響楽団の演奏もチェロコンチェルト、シンフォニーともに本当にその通りだと思えるような内容で本当によかった。

それはともかく いちにち いちにち 無事にすごせますように、それを第一に願っていきたい。



名古屋フィルハーモニーの定期演奏会を聴きに行く(第524回)

2024年06月16日 | 音楽
6月15日 愛知県芸術劇場コンサートホールに名古屋フィル第524回定期演奏会を聴きに行く。

指揮は川瀬賢太郎さん

最初に演奏されたのはコダーイの「ハーリヤーノシュ」

録音 生演奏通じて初めて聴く曲なので印象と言ってもよくわからないけれど、全曲を通じて木管が転がるように進むところはなんとなくラヴェルの管弦楽曲を連想することが多かった。

特に曲調が速くなって盛り上がっていくような場面ではラヴェルのピアノ協奏曲ト長調の一楽章や三楽章終盤の盛り上がりを連想しながら演奏を聴いている自分がいた。

僕が20世紀前半の音楽を聴いてしばしばラヴェルを連想するのは、たぶん自分が20才代のころまでに比較的よく聴いていた管弦楽曲はほとんどラヴェルのものが多かったということに起因しているような気がする。

やはり、若いときに得た印象が心の中に物事を感じる時の基準として残るのだなと思う。

次に演奏されたのが
ハイドンの交響曲第45番ヘ短調 告別

小学生のころ初めて買ったハイドンのレコードがアンタルドラティ指揮 ロンドン交響楽団の演奏で ハイドンの交響曲第100番がA面で45番がB面だったという僕にとっては思い出の曲。

でも 演奏前にステージを見渡してみて この曲の管楽器はオーボエとホルンそしてファゴットというちょっと僕にとっては珍しいと思えるような楽器編成だと気づいた。

第一楽章はフレーズごとに強く入ったり弱く入ったりのコントラストがとてもはっきり出ていて、その呼吸がとてもスリリングだったことがとても印象的だった。

演奏の呼吸がスリリングだったことと 会場の空調がこの曲のころから寒くなってきたことが重なって 体に力が入りすぎて こわばったようになってしまったことも印象に残ったことの一つだった。
もう一つ 第一楽章の最後はスッと抜くような感じの終わり方で何回も聴いているのに 「あっ 終わったんか」と思えるようなちょっと拍子抜け感があったことも印象的だった。

たぶん、こういう終わり方は指揮者の川瀬賢太郎さんが好まれるところなのだと思う。

ハイドンの交響曲はたくさんあるので第何番かは忘れてしまったけれど 大阪のシンフォニーホールで川瀬さんの指揮するハイドンを聴いた時も同じような印象を持ったことがある。

第二楽章は本当に弦楽合奏に管楽器が色を添える趣だなということを生演奏を聴いて初めて感じた。

やはり録音を何度聴いていても生演奏は違うなと思った。

三楽章を経て第四楽章でまた音がスリリングに動くさまを感じたとき たまたまコンサートマスターの方に視線が行って 「ああ 第一楽章で強弱の出し入れがとてもスリリングだったのはこのコンサートマスターのリードによるところがきっと大きいんだろうな」と感じた一瞬があった。

その感じ方が正しいかどうかはともかくとして、そういう印象を持つことができるのも、コンサートならではの感動だなと思う。

おなじみの オーケストラの奏者が一人消え 二人消え 最後はバイオリン二人で曲が終わるという場面に接した時に 「ハイドンの音楽はエンタテイメントの中に真心と真実があるんだな」と思って 胸になにかこみあげてきて ちょっと泣いてしまった。


20分の休憩をはさんで次に演奏されたのは
モーツァルトのフィガロの結婚序曲 僕は個人的に この曲はオーケストラ曲の中で演奏至難の曲だと思っているので 多くを期待してはいけないと最初から思って聴いていたのだけれど とてもいい演奏だった。

演奏もさることながら ステージを見るとハイドンのときよりも多くの管楽器が並んでいるのでそれも見どころの一つだった。

最後にリヒャルトシュトラウスの「ばらの騎士」演奏会用組曲が演奏された。

この曲はワルツが結構長いのだけれど もう ほとんどというか まったくウインナワルツだなと思ってその気分に身をゆだねていた。

弦楽器が濃厚に響くような場面では同じリヒャルトシュトラウスの英雄の生涯を連想したり あちこち 頭が飛ぶような状態で演奏を聴いていた。

さて、この演奏会で 僕の席は 自動車のナンバープレートでほしがる人が多いような番号の組み合わせなのだけれど その席に 僕がたどり着いた瞬間に まだホールのバイトを始めて間もないという感じの女の子が「お席ご案内しましょうか」と僕に聴いてくれて、「いやあ いまちょうど席にたどりつきました」と言ったら軽い笑いになって、それも印象深い出来事だった。

演奏会が終わって外に出ても まだ 外は明るくて 夏至も近いなと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事過ごせますように それを第一に願っていきたい。


京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く。(第689回)

2024年05月29日 | 音楽
5月25日 京都コンサートホールに京都市交響楽団第689回定期演奏会を聴きに行く。

指揮はヤン ヴィレム デ フリーントさん
ピアノ デヤン ラツィックさんで 
ベートーヴェンピアノ協奏曲第4番が演奏された。

この曲 たぶん 中学生のころハンスシュミット イッセルシュテット指揮 ウィーンフィル バックハウス ピアノのレコードで初めて聴いて、そのレコードをかなり繰り返して聴いたから その演奏が僕の心の中ではスタンダードになっている。

ピアノはとてもうまい けれど ちょっと僕が聴いたこともないようなタイプの音がしばしば出てきた。

第一楽章のカデンツァも僕の耳にはちょっと聴いたことがないタイプの即興演奏のように聴こえる。

ピアノだけでなく オーケストラの演奏も 例えば第二楽章の冒頭など あれだけ 音を短く切って 速いテンポで奏でられるパフォーマンスに今まであまり接したことがない。

僕は ピリオド奏法という言葉の定義を知らないので あいまいな言い方になるけれど きっとピリオド奏法的な表現だったのだと思う。

なので バックハウスのレコードが心の中のスタンダートとしてある僕にとっては とてもうまいけれど ちょっと違和感を覚える という演奏になってしまった。

ちょうど このコンサートの前日に ユーチューブで バーンスタインがショスタコーヴィチの交響曲5番を演奏する動画を見てというか聴いて 現在という時の地点から見れば ちょっと古いスタイルの演奏に思えるけれど 作曲した人の思いに同調しそれを聴き手に伝えるという精神においてはバーンスタインは素晴らしいなと思った。

カールベームさんの演奏なども 最近YouTubeでよく聴いていて やはり スタイリッシュな演奏ではないかもしれないけれど 作曲者の心 そして 長年はぐくまれてきた伝統 そういうものを伝えようとする意識が強いように思う。

そういう 動画を 見た直後に この演奏会でのベートーヴェンのピアノコンチェルトに接したので 新しいスタイルを求めようとする気持ち、自分はこんな表現をしたい という気持ちがややもすれば先行しているように僕には思えた。

うまいということなら とても うまかったと思うけれど、、。

特に 僕の場合は 交響曲第5番に匹敵するような このピアノ協奏曲第4番の主題労作の繰り返しの要素を楽しみたいタイプの聴き手なのでそのように感じたのかもしれない。

僕にとってはかなり変化にとんだ音が出てきたので 「ああ また同じこと繰り返してる」と思える楽しみがやや足りなかった気がする。

でも どうでもいいことかもしれないけれど 関西に住んでいたころは 京都市交響楽団の演奏を聴いて まあ プロなら このくらいはできるだろう と思っていた。

関西を離れて いわば お上りさんとして 京都市交響楽団を聴くと いやあ うまいなあ と思ってしまう。

暮らす環境の変化が思いを変えるのだないうことも感じた。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのがシューベルトの交響曲第1番Ⅾ82


第一楽章の思いイントロからアレグロに進むさまを聴いていて ハイドンのイメージかなと思った。

ただ、第一楽章に限らず全曲を通してハイドンやモーツァルトの交響曲よりも木管がハーモニーを伴いながら朗々と歌う場面も多く やはりシューベルトだなと思った。

そして 木管が ハーモニーを伴って朗々と歌う場面の 幸福感はもうシューベルト以外の誰にも創出することができない そういう 世界だなと思った。

演奏のいたる場面で 指揮者が 楽しそうに踊っているのを見て それもまたシューベルトだなと思った。

第三楽章メヌエットのワン ツー スリーの刻みが かなり早くて鋭く 実質はメヌエットとスケルツォの中間くらいの路線をいっているんだなと思った。

プログラムの楽曲解説に記された作曲年代を見ると1813年となっている。

もうベートーヴェンが 第九以外の交響曲を書き終えた時代の作曲なので いくら古典的と言っても やはり メヌエットもスケルツォに近くなるのかなと思った。
全曲を通して僕にとってはとてもいい演奏だった。

演奏が終わって カーテンコール でも 僕は端の席やからみんなが会場を出るときに すみやかに出られるように帽子をかぶって 会場を出る準備をしていたら 突如アンコール曲が演奏された。

定期演奏会ではアンコールってそれほどあるわけではないけれど 演奏が始まって 数秒後にモーツァルト アイネクライネナハトムジークの メヌエットとわかった。

エレガント ノーブル という形容詞はこういう音楽のためにあるのかな と思えるような演奏だった。

本当によかった。

それはともかく いちにちいちにち無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。