8月30日
京都市交響楽団第703回定期演奏会を聴きに行った。
指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント(首席客演指揮者)
独奏:HIMARI(ヴァイオリン)★
独唱:石橋 栄実(ソプラノ)◆
中島 郁子(メゾ・ソプラノ)◆
山本 康寛(テノール)◆
平野 和(バス・バリトン)◆
合唱:京響コーラス◆[合唱指揮:浅井 隆仁]
曲目等 ドヴォルザーク:ロマンス ヘ短調 op.11★
ヴィエニャフスキ:ファウスト幻想曲 op.20★
モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626◆
コンサートの前半は
指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント(首席客演指揮者)さん
独奏:HIMARI(ヴァイオリン)さんで
ドヴォルザーク:ロマンス ヘ短調 op.11
ヴィエニャフスキ:ファウスト幻想曲 op.20
の二曲が演奏された。
二曲とも少なくとも僕が聴くと特に感情面でなにか抑揚のない退屈な演奏に聴こえた。
独奏のHIMARIさんは音を正確に出しておられるけれど演奏に痛切さと言うものがあまりないと感じた。
14才なら14歳なりの痛切さと言うものがあってもいいのにと思った。
音楽が高揚する場面でも淡々と弾いておられるという感じでよく言えば演奏に均一性があると思ったけれど裏を返せば高揚感を出そうとする気迫に欠けるように感じた。
なんだかコンサートの前半は平凡だったな 指揮者フリーントさんの方針であえて抑揚のない音楽づくりになったのかと思いつつも 後半のレクイエムは場面ごとの情緒の変化を作るのがとても巧みな演奏だったので あの平凡さはバイオリン独奏によるところが大きいと思って家に帰ってきた。
最近の音楽情報に疎い僕は、家でコンサートで配布されたプログラムを見てそこにHIMARIさんのことが「一世代に一人の才能と称される」と書いてあるのを見て正直ちょっと驚いた。
素人の僕から見たらそれは14歳であれだけ正確に音を出せたら十分に凄いと思うけれど、ごく直感的な印象として、あのくらいの人、世界を見回せばたぶんいくらでもいるようにも思える。
ちょっとびっくりしたので ネットを見てみると動画などがいっぱい出てくる。
こんなに有名な人だったのかと思った。
若くして才能が開花した人への僕のやっかみかもしれないけれど、なんとなく周りの人が彼女のことを持ち上げすぎかもしれないという印象を持った。(あくまでも個人の感想です)
ただ、周りがどう思おうとシェイクスピアの芝居の文句ではないけれど人間はだれしも人生で何か一役やらなければならないので、注目されるという役柄もそれを丁寧にこなしていけば長く広い目で見たとき、きっといい成果を生むような気がする。
コンサートの後半は
モーツァルトのレクイエムK626が以下のメンバーで演奏された。
独唱:石橋 栄実(ソプラノ)◆
中島 郁子(メゾ・ソプラノ)◆
山本 康寛(テノール)◆
平野 和(バス・バリトン)◆
合唱:京響コーラス◆[合唱指揮:浅井 隆仁]
冒頭でクラリネット(家に帰ってきて調べるとクラリネットではなくバセットホルンとなっていたが近眼でそこまで見えないし、クラリネットとバセットホルンの音を聴き分ける耳もなかった)の音を聴いた時 いやあ、これはスピリチュアルな音だなと思った。
そして、このレクイエムとクラリネット協奏曲K.622は作曲された時期が近いことに思いが至った。
この協奏曲に関して、ずっとモーツァルトは最晩年にこんな無垢な曲をよく書けるなと思ってきたけれど ステージでクラリネット奏者の方が出す音を聴いていると、それまで無垢だと思ってきたクラリネット協奏曲の音と今、レクイエムのステージでなっている音は、なんというかその神秘性という意味ではとても共通点があるなと思った。
それは僕にとって大きな発見だったような気がする。
レクイエムもクラリネット協奏曲もこれまでとはちょっと違った感じでとらえられるようになった気がする。
やはりモーツァルトはすごいなと今さらのように思う。
演奏はとても集中度の高いもので息つく暇がないほど気を入れて演奏を聴くことができた。
でも気を入れすぎてしまって 家に帰ってきた今となってはどんな演奏だったか記憶があまり残っていない。
ただ、すばらしい演奏だったと言うことだけが心に残っている。
特に音楽の場面ごとの表情の変化のつけ方が素晴らしいと思った。
合唱も最初のうちはちょっと素人っぽいなと思ったけれど、集中力のある演奏が進んでいくうちにそんなことは気にならなくなった。
演奏が終わった後カーテンコールの時に指揮のフリーントさんが一度、合唱団の方に駆け寄られたときにはちょっと感動した。
全員が一体になったいい演奏だったなと思う。
そして、コンサートの後半が合唱を含む大曲だったので、前半の演奏が平凡に聴こえたのはあるいはリハーサル不足のせいもあるかもしれないと思った。
後半に難曲、大曲があるときの前半が平凡に聴こえるということはこれまで何度も体験してきたように思うから。