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ケンのブログ

日々の雑感や日記

京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く(第700回)

2025年05月22日 | 音楽
5月17日 京都市交響楽団第700回定期演奏会を聴きに行く。

指揮 ピアノ ハインツ ホリガーさんで最初に
ホリガー エリス3つの夜の小品がピアノ独奏版そして管弦楽版と連続して演奏された。

今日は開演ぎりぎりに着席したのでこの曲が始まった時プログラムで曲目を確認する時間がなかった。

それで、まあいいや とにかく演奏を集中して聴いて後でプログラムを見ようと思ってその通りにした。

指揮者が出てきてステージ左手に置いてあるピアノに座って演奏し始めた。

「おや ピアノの弾き振りか?でもステージのあんなに左の奥からどうやってオーケストラを指揮するのだろう。これは見ものだぞ」と思っていたらピアノの演奏が終わると指揮者はちゃんと指揮台の方に行って指揮を始めたので またまた おや?となってしまった。

「あんなに左の方にあるピアノに座って演奏を始めたのはみんなをびっくりさせるための演出か」 と思った。

後でプロクラムを見て、同じ曲をピアノ版と管弦楽版で演奏してくださったとわかった。

次に演奏されたのが ホリガー 2つのリスト作品のトランスクリプション
「灰色の雲」「不運」
グレゴリオ聖歌「怒りの日」、もしくはその断片と思えるような旋律が管楽器を中心に出てきたのが印象的だったけど全体的なことは忘れてしまった。


次に武満徹の 夢窓 が演奏された。
演奏中、木管楽器の音がどこからでているのかわからない時間がしばらくあり落ち着かない気持ちだった。

ふと気づくと指揮者の左にフルート右にクラリネットがいた ああ、あそこだったのかと思った。

指揮者の右のクラリネットはどなたが演奏されているのかわからなかったけれど演奏が終わって正面を向いてあいさつされたとき ああ いつも正面を向いて演奏されている方だと初めてわかった。

横からのお姿を見ることが初めてだったので。

いつも正面からばかりだと横からだとわからないことがあるんだなと やはり人間と言うか僕の感覚と言うものはあてにならないものだなあとそのときつくづく思った。

コントラバスが左右に並んでいたので弦楽器の並びは目を凝らして見たはずなのにその弦楽器のど真ん中にいらっしゃる二人の木管奏者の方が最初は見えてなかったなんて。

僕の視力が矯正してもそれほどよくないこともあるし、あんなところに木管がいるはずがないという思い込みもあると思った。(通常はコンサートマスターやビオラの主席の方などがいらっしゃる場所なので)

次に
シューマンの交響曲第1番が演奏された。

シューマンの交響曲に関してドビュッシーのこんな言葉がある。

「ベートーヴェン以後、交響曲が無用となったことは実証済みであるように私には思われる。実際、シューマンの場合もメンデルスゾーンにあっても交響曲はすでに力が衰えた同一の形式のうやうやしい繰り返しでしかもうないではないか」と。
岩波文庫 ドシュッシー 音楽評論集 47ページより引用。

僕はシューマンの交響曲でアグレッシブなタイプの演奏を聴くときしばしばある意味ドビュッシーがここで書いていることは的を射ていると思うことがある。

しかし、この日の演奏は、そういうアグレッシブと言うタイプの演奏ではなかった。

力をいかに入れるかよりもむしろ力をいかに抜くか、そしていかにゆったり演奏するかを意識したタイプの演奏だった。

そのような演奏に接した時、シューマンがシューベルトの交響曲 グレイトの楽譜を発見した時に語ったとされる言葉 「天国的に長い」というものを思い出した。

そして思った 力を抜いて演奏するとシューマンの交響曲もシューベルトに劣らず天国的だと。

要するにシューマンそのものが天国的と言う感覚を心に持った人だからシューベルトの天国性にも気づくことができたのだと思った。

そりゃそうだよな、シューマンは「子供の情景」の作曲者なのだものと思った。

シューマンの交響曲は最近CDなどで聴く頻度も増えたけれど そういうことに気付くことができたのは目の前で繰り広げられる演奏がある意味、神々しさを感じさせてくれるタイプの演奏だったからだ。

本当にいくら作曲家が素晴らしいものを書いても演奏する人がいなければ音楽は音にならない。

そしてその演奏によって作曲家が書いたものがどういうものだったのか気づくことができる。

その役割と言うものを感じされてくれる本当に素晴らしい演奏でよかった。

それはともかく 一日 いちにち 無事にすごせますように それを第一に願っていきたい。








名古屋フィルハーモニーの定期演奏会を聴きに行く(534回)

2025年05月19日 | 音楽
5月16日名古屋フィルハーモニー第534回定期演奏会を聴きに行く。
指揮はジャン クロード カサドシュさん
最初にガーシュインのピアノ協奏曲へ調が演奏された。

ピアノ独奏 トーマス エンコさん。

3月の定期演奏会でガーシュインが演奏されたときは、僕の印象はジャズかクラシックか範疇のよくわからない音楽という感じだった。

この日の演奏は僕の印象だとジャズの要素が多分にあるクラシックと言う感じだった。

要するにガーシュインの音楽って演奏の仕方によってジャズの方にバイアスがかかったりクラシックの方にバイアスがかかったりということなのだと思う。

そして僕にとってはこの日のようにジャズの要素のあるクラシックという感じの演奏の方が安心して聴けるという思いはある。

やはり、クラシックを聴いてきた時間がながいから。

演奏で印象に残ったことは例えば大きな音が来ると予想されるようなところで意外と大きな音が来なかったということ。

力まないように注意することが演奏のなかで一つの大きな要素だったように思う。

たぶん力まないということに注意をはらっているんだろうなと思って指揮者に注目すると大きい音をオーケストラに要求するときは力強い動きと言うよりもむしろスッと流れるような素早い動きという感じだった。

この素早い動きが少し力を抜くことにつながっているような気がした。

ジャズの要素のあるクラシックなので演奏中もちろんラヴェルのことは心に浮かんだけれど音楽がドラマチックになるようなところではむしろラフマニノフが心に浮かんでくることが多かった。

ピアノの旋律に一瞬ラフマニノフのものがあったような気がするのだけれど そんなに知らない曲だし一瞬のことなので勘違いかもしれない。

ピアノも素早い音を出すときに正確で強いのだけれど軽々と弾いているように思えることが何度もありちょっとすごいなと思った。

ピアノの素早いリズムが同じテンションを保ちながら木管などにリレーされていくさまはちょっといい感じだった。

ピアノ独奏のトーマス エンコさんが即興をやりますと言ってアンコールを弾き始められた。

本当に即興と言う感じの演奏だったけれど途中、かなり強くバッハを感じる場面が何度かあった。

あとベートーヴェンを感じる場面もバッハほどではないけれどあった。

家に帰ってきてプログラムを見るとトーマス エンコさんはBACH MIRRORというCDを出しておられるとのことで、きっとそういうことなのかなと想像した。

想像なのでCDの中身のことは僕には全く分かりません。ごめんなさい。

20分の休憩をはさんで次にベルリーズの幻想交響曲作品14が演奏された。

この演奏も柔らかい感じで音が大きい所でもマックスまでいくのではなくちょっと余力があるという感じがなんともいいなと思いながら聴いていた。

テンポを上げて盛り上げることが可能な楽曲展開でもむしろテンポを落とすような場面も何度かあって、そのテンポ設定が優雅な演奏の展開に寄与していたと思う。

プログラムの楽曲解説にも1830年つまりベートーヴェンが亡くなってわずか3年しかたっていないのに革新的な曲という主旨のことが書いてある。

僕も作品が書かれた時代と言うことを考えると本当に素晴らしい音楽だなと思う。

例えば管楽器はもう後期ロマン派を思い浮かべることができるほどにステージいっぱいに並んでいる。

弦楽器もチェロ コントラバスなど低い弦楽器から バイオリン ビオラなど比較的高い弦楽器までまんべんなく活躍するという感じだ。

なので、弦楽器の見せ場では目が右から左、左から右へと首振り扇風機のように移動してしまった。

第二楽章の美しいメロディを聴いた時には本当に幻想交響曲という名前がぴったりというほどファンタジックだなと思った。

家でCDを聴くときはしばしば第三楽章はスキップしてしまう僕だけどコンサートで聴くと管楽器のかけあい、楽章後半の盛り上がりなどCDでは味わえない音楽の要素をいろいろ味わうことができてよかった。

音の出どころを目で追ってしまう癖のある僕だけれどこの第三楽章でオーボエと他の木管が掛け合いをしているときもう一つの楽器の音はどこから出ているのかついにわからずに終わってしまった。

マーラーの交響曲などのようにステージの袖奥で音を出している可能性も十分にあると思った。

4楽章 5楽章はかなり気分がハイな状態で聴いていたのでどんな演奏展開だったかもう忘れてしまったけれどいい演奏だった。

第五楽章の鐘の音もどこからでているのか最後までわからなかった。一瞬天井のスピーカーから音が出ているのかとスピーカーに注目したけれどどうもそうではないみたいだった。

ただ、感じとしては録音された音とも思えなかったのでこれもステージから見えないところで音を出していたのかもしれない。

でも あの鐘の音ってステージの上でトンカチみたいなものでたたくのを見ると一気に幻想の世界から現実世界に戻ってしまったようで興ざめと言うことが僕が過去に行ったコンサートでもしばしばあった。

なので、見えないところで音を出していたのはイメージ戦略というか聴き手の想像力を駆り立てるという意味では正解だったと思う。
僕の感想としては今までに生演奏で聴いた幻想交響曲の中では最も夢中になって聴ける演奏だったと思う。

それはともかく 一日 いちにち無事にすごせますように、それを第一に願っていきたい。





名古屋フィルハーモニー名曲シリーズを聴きに行く(第96回)

2025年04月25日 | 音楽
4月24日 名古屋フィルハーモニー交響楽団の第96回名曲シリーズを聴きに行く

指揮は アドリアン ペルションさん

最初に
チン・ウンスクのスビト・コン・フォルツァが演奏された。

冒頭 はっきりとコリオラン序曲冒頭からの引用とわかるモチーフが提示された。

ビクッとしてどんな音楽か聴いていたら途中でこれもベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番冒頭からの引用とはっきりわかるモチーフが出てきた。

もうそこからは心がウォーリーを探せ状態になってしまってどこがベートーヴェンからの引用か突き止めようという一心になってしまったけれど結局 僕が分かったのはその2曲だけだった。

詳しい人ならもっと見つけていただろうと思う。

けれど、やはり冒頭にコリオラン序曲を引用するだけあって その音型やリズムは曲のいたるところに出てきた。

そういうところはベートーヴェンをとても意識しているのだろうと思う。

もちろん優れた音楽 優れた演奏と思ったけれど 意識する本家はあまりにも偉大過ぎすような気もする。

でも ベートーヴェン以降の人は多かれ少なかれ ベートーヴェンを意識しながら偉大になった人ばかりだなあと思う。

次にベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 作品60
が演奏される。

第一楽章はアダージョからアレグロビバーチェ
最初のアダージョはハイドンまでの時代だと序奏という感じがするけれど生演奏でベートーヴェンの4番のアダージョを聴くと低い弦の音のゴーっという響きから 弦と管との巧みな掛け合い 弦楽器相互の同じ音型の移行 など どこを聴いても これはもはや序奏などと言う範疇は超えてしまっているし 規模の大きさが全然違うなと思う。

アレグロに移行した瞬間に 急に弱い音が出て それはたぶんピリオド奏法の影響と思うのだけれど もっぱらショルティさんやハイティンクさんのCDばかり聴いていた僕にはこういう予測できない弱い音は、突っ込んで行ったらいなされた相撲取りのように前につんのめりそうになってしまう。

でも期待を裏切る音を聴いてつんのめりそうになるものコンサートの楽しみでいいなと思う。

CDで何回となく聴いている曲だから大体、先の展開が読めるのであちこち今度はあちらの楽器の音、今度はあちらの楽器の音 と目が回りそうな状態で聴いていたのでどんな演奏だったか実はもう覚えていない。

でもずっと夢中になっているうちに終わったということは つまり 演奏が素晴らしかったということだと思う。

あえて印象をまとめると きびきびした要素と雄大さそして力強さをバランスよく兼ね備えた演奏だったように思う。

どの楽章とか言うのももう忘れたけれど ファゴットの活躍度もやはりベートーヴェンの前の時代と比べるとけた違いだなと思った。

もちろんファゴットに限らず 管楽器全体の充実度が個々の楽器と言う意味でもそうだし 楽器全体のハーモニーという意味でも前の時代とはけた違いだなと思った。

しいて残念だったことを言えば僕は矯正しても視力がそれほど良いわけではなくまた僕の席からは背中を向けている弦楽器もかなり多い。

なので、同じ音型がいろんな弦楽器をあちこち行ったりしているような場面で 音は聞こえるのにそれがどこから出ているのかは見えない。

はっきりと見えたら 同じ音型があっちへ行ったりこっちへ行ったりするのを見るのは面白くて仕方ないように想像するのだけれど視覚の制約でそれができなかったことが少し残念。

でもCDやYouTubeで視聴するよりは音が移動していることがはるかによくわかってそこはやはりコンサートにいってよかったなと思った。

20分の休憩をはさんで次に
ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 作品67
が演奏される。

これもあちこち目移りしているうちに演奏が終わってしまってどんな演奏だったか実はよく覚えていない。

ただピンポイントで印象に残ったことは覚えている。

第一楽章冒頭で タタタターン+フェルマーターを二回繰り返すところはとても凝縮性のある音が出ていて その直後にこのタタタターンを第二バイオリン ビオラ 第一バイオリンでリレーしていく所では一転して軽めだけれど芯のある音が出ていて、そのコントラストが聴いていて心地よいなと思った。


第二楽章でバイオリンなど高音域の弦がなだらかな音階を演奏する中、チェロが第一楽章冒頭のタタタタンの主題を連想させる音を刻む場面がある。

そこのチェロの音は抑えが利いていて引き締まった感じでよかったなと思った。

見ていて美しいし。

あと左を見たときたまたま目に入ったコントラバスのピチカートもよかったなと思った。

普段は右にいることが多いコントラバスがこの日は左でよかったなと思った。
(座席から見て対角線上にある楽器の方がよく見えて、よく聴こえることがしばしばある)

ピチカートはこの楽章 いろんな弦楽器で出てくるけれどコントラバスは楽器が大きい分目立つし優雅な感じだなと思った。

コンサートミストレスはこれまで前に出て行かれるという印象を持っていたけど この日はたまたま、なだらかで大きなうねりを作るときに上体を後ろにそらしておられる場面が目に入って その気はなんとなくオーケストラによく伝わっているように感じた。

エポックメイキングと言えば第三楽章と第四楽章が切れ目なくつながっているというのもピアノソナタではすでにワルトシュタインとかあると思うけれど交響曲では初めてのはずでやはり生演奏で視覚を伴った状態で文字通り視聴すると息をのむように壮観だなと感じた。

第四楽章は盛り上がる音楽だけれど ステージを見ていると すべての楽器がくまなく活躍している。

そしてふと客席をみるとみんな、くまなく音楽に集中している。

演奏する側も聴く側も くまなく 取り込んでしまう これがベートーヴェンの音楽の神髄だと思い知らされる気持ちだった。

そしてそこには 自由 平等 博愛 というベートーヴェンが生きた時代にヨーロッパを席捲した精神というものもあるような気がした。

結局 その時代の権化であったものが後世に生き残るということで個人の才能 努力 時代の三つが重なることが大切なのだと目の前で生の演奏が展開されることで改めて感じた。

5番もよく覚えていないなりに 4番同様 きびきびした要素と雄大な要素 力強い要素を兼ね備えた演奏であるように僕には思えた。

それはともかくいちにち いちにち無事にすごせますようにそれを第一に願っていきたい。


京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く(第698回)

2025年04月17日 | 音楽
3月15日京都市交響楽団第698回定期演奏会を聴きに行く。

指揮は沖澤のどかさん

京都から北山に向かう電車の車内で話をする女性のこんな声が聞こえてくる。

「きのう私、寝てしまってな。 起きたら朝やったわ」と。
大事件かと思ったけれど 要はちゃんと寝たということかと思った。

尾張から京都に上ってくると関西弁は何を話していても大層なものに思えてくる。

さてコンサートでは、最初に 金川真弓さんバイオリン クレア チェイスさんフルートで

藤倉大:ダブル協奏曲 ―ヴァイオリンとフルートのための
が演奏された。

現代音楽だけれどフルートとバイオリンの掛け合いが音楽のかなりの部分を占めるので退屈しないで聴ける。

この演奏に先だったプレトークでこの曲のことを沖澤のどかさんが話しておられた。
プレトークは間に合わなくてロビーのスピーカーで聴いていた。

その話の中で、沖澤のどかさんが「白鳥はカーと泣きますよね。えーと、あっ、違うか」とおっしゃったので心の中で「なんで白鳥かカーってなくんや それはカラスやろう ひょっとしてのどかさん天然か?」などと考えていたので 何を話しておられるのか実は忘れたけれど 要するに 二つの楽器のかけあいは鳥をイメージしているのだろうと演奏を聴いていて思った。

そしてそれもカラスではなく 白鳥を。

どこをどう聴いても楽器がカーとなっているようなところはなかったから。

二つの楽器はよく息があっていた。

トレモロもバイオリンとフルート同じようなテンションで奏でられていたし バイオリンがフルートの音を出したり 逆にフルートがバイオリンのような音を出したり 相互の行き交いが心地よかった。

途中 よそ見をしていて気づくと フルートが大きいサイズに変わっていた。

いつの間に持ち替えたのか見逃してしまったけれど 小柄な方なのによく大きな楽器も扱ってられたと思う。

フルートとバイオリン二人の音だけでなく動作も近づいたり距離を置いたり 鳥同士のかけあいを思わせるようなものが頻繁にみられ視覚的にも楽しいものだった。


次にリヒャルトシュトラウスの 交響詩 英雄の生涯 が演奏された。

この曲にも沖澤のどかさんはプレトークで言及しておられた。

その中にこんな主旨の言葉があった。「ドイツの人たちの前で英雄の生涯をとりあえず英語でヒーローズライフ と言ったら まあそうだけれどちょっと違うよねという反応だった」と。

この話もロビーで聴いていたのでこのワンフレーズしか記憶にないのだけれど、ドイツ語も英語もダメな僕でも なんとなくのどかさんの言いたいことはわかる。そんな話だった。

のどかさん音楽専門の高校ではなく一般的な高校で学んでおられるし こういうところの意識と言うのは音楽だけで来た人とはちょっと違うなとその話の断片を聴いて思った。

そしてそういう意識が音楽にとってはとても大切なことなのだろうと思った。

特にリヒャルトシュトラウスの場合は交響詩と言うくらいで しかも 各楽章に具体的な表題がついているので言葉のイメージがたいせつなのは言うまでもないことだろうけど。

演奏では弦が朗々とよく鳴っていた。

曲想に応じて演奏は良く変化していたけれど 全体として 柔らかい音色は一貫していたと思う。

結局 京響位のオーケストラだと指揮者が動いた通りの音が出るのだと思う。

のどかさんの動作は切れがするどくて 丁寧だけれど やはり女性なのでそこに男性の指揮者にはない軽快さと柔らかさがある。

そういう動きの特徴も演奏によく反映されていたと思う。

大きなオーケストラを扱う点はマーラーと共通しているけれど マーラーのように混沌とした感じは見受けられず 音楽は整然と描かれているように思った。

ソロ的な部分もあり オーケストラ全体が鳴る部分もあり いろんな 要素が音楽に盛り込まれていて トータルバランスのきわめてよい作品なのだと生演奏をきいて思った。

それで 言葉との関連はというと のどかさんの話の断片しか覚えて居ない状況では知る由もなかった。

でも 演奏がよかったからまあ いいか。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように

それを第一に願っていきたい。




名古屋フィルハーモニーの名曲シリーズを聴きに行く(第95回)

2025年04月03日 | 音楽
3月29日 名古屋フィルハーモニー交響楽団第95回名曲シリーズを聴きに行った。
指揮は川瀬賢太郎さん

最初に
外山雄三 交響曲「名古屋」が演奏された。
最初、音が鳴り始めたとき雅楽のイメージと思った。
それも単独の楽器で雅楽のイメージを形成しているわけではなく弦楽器 打楽器 管楽器 つまりオーケストラ全体を駆使して雅楽のイメージを作り出している趣だった。

なんで交響曲名古屋が雅楽なの 名古屋のどこが雅楽なのだろうとしばらく思った。

そして熱田神宮を連想するのにそれほど時間はかからなかった。そうや、熱田神宮やと思った。
確かに日本を代表するお宮のひとつ熱田神宮はふだん意識していなくても名古屋の自慢の一つだ。

あるいは、きしめんやみそかつよりも自慢の材料になるかもしれない。
そうか 名古屋か 熱田神宮か と思った。

演奏もスーッと行く感じで 「名古屋フィルが交響曲名古屋をうまく演奏できなくてどうするんや」 という気概が伝わってくるような感じだった。

そうか外山雄三さんも結構名古屋にゆかりの人なんだなと思った。

そして、20代の頃知り合いのおじさんに名古屋の中心部にあるホテルの和食どころに連れて行ってもらったら、そこに作曲者の外山雄三さんが数人で食事をしておられたけれど 静かで気取った感じがぜんぜんなくて普通のおじさんという感じだったことを思い出した。

連れてきてくれたおじさんは音楽と言ってもせいぜい「想い出のサンフランシスコ」をカラオケでやっと歌えるという感じのそれほど音楽には興味のない方だった。

そのおじさんに「あそこにいるひと外山雄三さんと言って日本を代表する指揮者で作曲家ですよ」と小声で言ったらそのおじさんは「そう?ごく普通の人と言う感じだねえ。とてもそんな有名な人には見えない。加山雄三ではないよね」と言ったので「はい 外山雄三さんです」と答えたことをしみじみと思い出した。

さて音楽は雅楽のような感じがかなり長く続いたけれどそれから昭和の怪獣映画のような場面 そのほかいろいろな場面があった。
家に帰ってきてコンサートのプログラムの楽曲解説を読むと第一楽章のところに熱田神宮という文字が出ていたのでやはりそうだったかと自分の連想が間違っていなかったことに大いなる自己満足を得ることができた。

第二楽章で弦楽器が刻むリズムがビゼーのカルメン第二組曲のハバネラにそっくりと思う場面があった。
家に帰ってきて復習のために交響曲名古屋のニコニコ動画を見ていたらその場面に「レスピーギのローマ三部作に雰囲気がそっくり」という字幕が出てきた。

やはりニコニコ動画まで見るほど好きな人が思うことは似たり寄ったりだなと思った。

カルメン組曲もローマ三部作も要するにラテンの民族性に大きく依拠した音楽と思うので、、、。

どの楽章かもう忘れたけれど フルートがかなり長い時間ソロ的に活躍する場面があった、そこを聴いていると日本の横笛のような音だなと思う場面あり、尺八のようだと思う場面あり、西洋音楽のフルートのようだと思う場面あり、本当にフルートひとつでいろいろと音色があるし、それを楽譜に書いてしまう外山雄三さんはやはり普通のおじさんのような雰囲気でも中身はすごいと思った。演奏していた方もすごいと思ったけれど、、、。

これもどの楽章か記憶に自信がないけれどたぶん第四楽章だと思う。
弦楽器がリズムの核になる音形を執拗にそして正確に そしてかなり気迫に満ちて刻んでいる場面があった。

どの楽器だろうと思って目を凝らしたけれどそれがビオラだと気づくのにしばらく時間がかかった。

ビオラは僕の席からだと楽器の背がもろに向いているので音を聴き分けるのが苦手な僕にとっては発見するのに時間がかかってしまう。

でもあのときはビオラ気合が入っているな そしていい感じ すごいと思った。
本当に名古屋フィルが交響曲名古屋を素敵に演奏してくれてよかった。

外山雄三さんもどこかで喜んでおられるような気がする。

次に山本直純 児童合唱と管弦楽のための組曲「えんそく」
が演奏された。

僕は例えばベートーヴェンの第九などを聞いても合唱団よりもオーケストラの方を見ていることが多い。

けれど演奏が始まって子供の声を聴いた時 やっぱり子供は吸収力が違う ととっさに思ってその声に引き込まれてしまったのでほとんど合唱団のほうを見ていた。

本当に子供は違うなと思った。

芹沢光治良さんの「人間の運命」という小説に主人公の次郎が大学時代に子供のころから音楽を聴いている友人と一緒にベートーヴェンを聴き、その友人から「音楽には子供のころから聴いてないと聴こえない音がある」という主旨のことを言われる場面がある。主人公の次郎は貧乏で子供のころは音楽どころではなかった、けれど次郎はあっさりとそれを認め「ならば音楽の心は誰よりもわかる人間になってやろう」という主旨のことを思う場面がある。

子供の抜けるような声を聴いていてそのことを思い出した。

そして昭和40年代に小学生時代を過ごした僕は演奏を聴きながら当時は児童合唱の声で林光さんの「僕らの街はかわっぷち」南安雄さんの「歌はともだち」などがテレビで日常的に流れていたことを思い出した。

演奏されている音楽の雰囲気はそれらの音楽と僕にとっては同じものだった。
いい時代だったなと思う。

名古屋ローカルでも「どえりゃーうみゃーでいかんわ お湯で3分ぬくとめるだけ ハヤシもあるでよお」とラジオでオリエンタルスナックカレーのコマーシャルが繰り返しながれていたり、本当にいい時代だったなと演奏を聴きながらそんな思いにふけっていた。

当時の大須ういろのコマーシャルソングなんて今でも何も見ないで歌えるし、、、。

本当にいい時代だった。

もちろん直純さんの森永エールチョコレートも今でも暗記してます
「大きいことはいいことだ 大きいことはいいことだ 森永エールチョコレート おいしく食べて おいしく食べて 50円とはいいことだ 50円! 森永エールチョコレート」※おいしく食べては 大きく食べてだったかもしれない。

さて、20分の休憩をはさんで次にシベリウスの交響曲第一番が演奏された。

数年前に秋山和慶さん指揮の日本センチュリー交響楽団でこの曲の演奏を聴きそれが秋山さんを聴いた最後だったのでそのことにも思いを馳せた。

本当にオーソドックスと言うかいつでも安心して聴ける指揮者だったなと思う。

さてこの日の演奏は第一楽章導入のところでクラリネットの旋律がとても存在感のあるものに聴こえた。

僕は家でCDラジカセで音楽を聴いている。こういうクラリネットのソロ的な響きはCDラジカセではなかなか味わうことができず交響曲第一番の冒頭と言えばクラリネットの旋律の後に出てくる弦楽器と管楽器の雄大な楽想が始まりだと思っていた。

生演奏を聴くことで音楽の印象がコロッとかわることがあるけれどこの日のコンサートも僕にとってはそのいい例だった。

そうか交響曲第一番はこういうふうに始まるんか と初めてわかった気がした。

そういえば3月の定期演奏会 確かガーシュインの曲だったと思うけれど音楽の冒頭で実質クラリネットの方が演奏のイニシアチブをとっておられるような場面があったなとそのことも思い出した。

さてそれから木管と金管のコンビネーションもうまくいっているように思えた。

イメージとしては木管が鳥のさえずりなど自然の具体的な営み そして 金管はその営みの背景の光とかそういうものかなと演奏を聴きながら勝手に心の中で勝手に思っていた。

演奏は3月の定期演奏会のマーラーと同様演奏の場面場面でいろいろテンポを動かしたり切り替えの豊富なものだったように思う。

演奏会から日数もたって何楽章とか言うのはもう忘れたけれど 全体を通してテンポをぐっと落とす場面が何度かあったのが妙に記憶に残っている。

ただ 僕の記憶の中ではそれらのテンポのおそい場面はそこからだんだん加速してクライマックスを作っていく起点のようなイメージがある。
テンポのおそい場面でたとえば交響詩フィンランディアの中で讃美歌「やすかれわが心よ」に引用されているメロディーに典型的にみられるようなシベリウス特有のしみじみとした情感、安堵感が味わえたかと言うと 必ずしも僕の記憶の中ではそうなっていない。

記憶力がなくて忘れてしまった可能性も大きいけれど テンポのおそい場面でのしみじみとした情感がずっと記憶に残るような演奏であれば少なくとも僕にとっては一層よかったなと思う。

スケルツォなど弦楽器が細かい音を刻んでいく場面では、弦楽器がぐっと前にせり出してくる感じで聴いていて、そして見ていてスリリングだった。

それはそれでよかったのだけれど 木管などが僕の席からだと割と正面に見えるのでどうしてもそこに注意が行ってしまう。

そういう観点から見ると弦が細かい音を刻みながらその音に乗って管楽器がやはり細かい音を奏でていくような場面では、もう少し弦の音が抑え気味そしてかつスリリングであればもっと木管の音も浮き上がってきて全体としてよりスリリングなのにと思う場面も少しだけれどあった。

ただ、こういうことはホールの僕の席における音響そして眺めと言うこともあるので一概に言えることではないけれど、、、。

あとこれも演奏会から日数が経過してどの楽章とかは忘れてしまったけれど演奏の随所にピリオド奏法の時などによくみられるようにスッと力を抜くように弦楽器の音が小さくなる場面があった。

そこは聴いていてはっと思ったことは印象に残っている。

プログラムの楽曲解説に「やがて曲は終盤に向けて大きなうねりを形成し焦燥感と悲壮感を漂わせながら劇的に高揚していく」と書いてある場面での盛り上がりもよかった。

こういうところは名古屋フィルはすごいなとしばしば思う。

秋山さんの演奏の記憶と比較して安定感と言う意味では秋山さんと思うけれど秋山さんにないスリリングさがあってとてもよかった。

演奏が終わった後ビオラの前で弾いている二人が抱き合っておられた。

そんなビオラが困難な場面って演奏にあっただろうか ちょっとビオラは楽器が背中を向く位置だったので見逃したかなと思った。

家に帰ってきてプログラムを見るとビオラの前で弾いておられた方がこの演奏会を最後に退団される主旨のことが書いてあったので、ああ たぶんそれだなと思った。
さびしいことだなと思う。できれば今いるメンバーの方にはやめてほしくないのだけれど、これだけは人それぞれの人生行路だからやむを得ないなと思う。

本当に今の時期は年度替わりなんだなと思う。

それはともかくいちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。