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ケンのブログ

日々の雑感

京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行く(第703回)

2025年09月04日 | 音楽
8月30日
京都市交響楽団第703回定期演奏会を聴きに行った。

指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント(首席客演指揮者)
独奏:HIMARI(ヴァイオリン)★
独唱:石橋 栄実(ソプラノ)◆ 
   中島 郁子(メゾ・ソプラノ)◆
   山本 康寛(テノール)◆ 
   平野 和(バス・バリトン)◆
合唱:京響コーラス◆[合唱指揮:浅井 隆仁]
曲目等   ドヴォルザーク:ロマンス ヘ短調 op.11★
ヴィエニャフスキ:ファウスト幻想曲 op.20★
モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626◆


コンサートの前半は

指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント(首席客演指揮者)さん
独奏:HIMARI(ヴァイオリン)さんで

ドヴォルザーク:ロマンス ヘ短調 op.11
ヴィエニャフスキ:ファウスト幻想曲 op.20

の二曲が演奏された。

二曲とも少なくとも僕が聴くと特に感情面でなにか抑揚のない退屈な演奏に聴こえた。

独奏のHIMARIさんは音を正確に出しておられるけれど演奏に痛切さと言うものがあまりないと感じた。

14才なら14歳なりの痛切さと言うものがあってもいいのにと思った。

音楽が高揚する場面でも淡々と弾いておられるという感じでよく言えば演奏に均一性があると思ったけれど裏を返せば高揚感を出そうとする気迫に欠けるように感じた。

なんだかコンサートの前半は平凡だったな 指揮者フリーントさんの方針であえて抑揚のない音楽づくりになったのかと思いつつも 後半のレクイエムは場面ごとの情緒の変化を作るのがとても巧みな演奏だったので あの平凡さはバイオリン独奏によるところが大きいと思って家に帰ってきた。

最近の音楽情報に疎い僕は、家でコンサートで配布されたプログラムを見てそこにHIMARIさんのことが「一世代に一人の才能と称される」と書いてあるのを見て正直ちょっと驚いた。

素人の僕から見たらそれは14歳であれだけ正確に音を出せたら十分に凄いと思うけれど、ごく直感的な印象として、あのくらいの人、世界を見回せばたぶんいくらでもいるようにも思える。

ちょっとびっくりしたので ネットを見てみると動画などがいっぱい出てくる。

こんなに有名な人だったのかと思った。

若くして才能が開花した人への僕のやっかみかもしれないけれど、なんとなく周りの人が彼女のことを持ち上げすぎかもしれないという印象を持った。(あくまでも個人の感想です)

ただ、周りがどう思おうとシェイクスピアの芝居の文句ではないけれど人間はだれしも人生で何か一役やらなければならないので、注目されるという役柄もそれを丁寧にこなしていけば長く広い目で見たとき、きっといい成果を生むような気がする。

コンサートの後半は

モーツァルトのレクイエムK626が以下のメンバーで演奏された。
独唱:石橋 栄実(ソプラノ)◆ 
   中島 郁子(メゾ・ソプラノ)◆
   山本 康寛(テノール)◆ 
   平野 和(バス・バリトン)◆
合唱:京響コーラス◆[合唱指揮:浅井 隆仁]

冒頭でクラリネット(家に帰ってきて調べるとクラリネットではなくバセットホルンとなっていたが近眼でそこまで見えないし、クラリネットとバセットホルンの音を聴き分ける耳もなかった)の音を聴いた時 いやあ、これはスピリチュアルな音だなと思った。

そして、このレクイエムとクラリネット協奏曲K.622は作曲された時期が近いことに思いが至った。

この協奏曲に関して、ずっとモーツァルトは最晩年にこんな無垢な曲をよく書けるなと思ってきたけれど ステージでクラリネット奏者の方が出す音を聴いていると、それまで無垢だと思ってきたクラリネット協奏曲の音と今、レクイエムのステージでなっている音は、なんというかその神秘性という意味ではとても共通点があるなと思った。

それは僕にとって大きな発見だったような気がする。

レクイエムもクラリネット協奏曲もこれまでとはちょっと違った感じでとらえられるようになった気がする。

やはりモーツァルトはすごいなと今さらのように思う。

演奏はとても集中度の高いもので息つく暇がないほど気を入れて演奏を聴くことができた。

でも気を入れすぎてしまって 家に帰ってきた今となってはどんな演奏だったか記憶があまり残っていない。
ただ、すばらしい演奏だったと言うことだけが心に残っている。

特に音楽の場面ごとの表情の変化のつけ方が素晴らしいと思った。

合唱も最初のうちはちょっと素人っぽいなと思ったけれど、集中力のある演奏が進んでいくうちにそんなことは気にならなくなった。

演奏が終わった後カーテンコールの時に指揮のフリーントさんが一度、合唱団の方に駆け寄られたときにはちょっと感動した。

全員が一体になったいい演奏だったなと思う。

そして、コンサートの後半が合唱を含む大曲だったので、前半の演奏が平凡に聴こえたのはあるいはリハーサル不足のせいもあるかもしれないと思った。

後半に難曲、大曲があるときの前半が平凡に聴こえるということはこれまで何度も体験してきたように思うから。










京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く(第702回)

2025年07月24日 | 音楽

7月19日京都市交響楽団第702回定期演奏会を聴きに行く

会場に向かう地下鉄の中 南北と東西のラインが交わる駅でかなりの乗降があった。

そのタイミングで幼い男の子が座席に座った。

するとその子のお母さんが「○○ちゃん、ここに座りたかったの?」と言った。

その声のトーンと声が発せられるタイミングからお母さんは子供が何を考えているかを察することに意識のほぼすべてを集中しておられたことが直感的にわかった。

泣きやまない子(たぶん娘から預かった赤ちゃん)をあやしながら「なんで泣くか言ってくれへんから困りますわ」とぼやいてたおばちゃんに大阪近郊の市民センターで遭遇したこともあるけれど、それもまた事実だなと思う。

いくら男女共同参画の世の中になっても子供の状況に意識を集中したり時にはおおらかに構えたり、そういう能力はどう考えても女性の方が上のように思うのだけれど。(個人の感想です)

さて

プログラムは以下の通り
指揮:高関 健
独奏:中山 航介(ティンパニ/京響首席打楽器奏者)★
曲目等   カーゲル:ティンパニとオーケストラのための協奏曲★
マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調


最初にカーゲル ティンパニとオーケストラのための協奏曲が演奏された。

混沌とした現代音楽と感じる場面もあった。

太鼓は6つ へりもたたいたり ほうきや手でたたいたり最後は突き破ったり180度回転など見所はいろいろあった。

180度回転は後ろに目がついてるわけでないのにすごいなと思った。

曲の終盤でお経のような声が聞こえてきたので 京都だからお経かと思ったけれどそうではなくてティンパニーの方が金属製のメガホンのような見慣れない楽器を演奏しておられた。

僕は近眼で矯正してもなお遠くがぼやけるので勘違いかもしれないけれど ティンパニーの独奏の方が指揮者よりもむしろ左奥の木琴などパーカション奏者とタイミングやテンションを合わせることに気を配っておられるように見えるシーンが随所にあった。

やはりパーカッションどうしで意気をあわせることが大切なのかなと思った。

次にマーラーの交響曲第5番が演奏された。

演奏が始まって間もないときにコントラバスのピチカートに目が行って、とてもしっかりと重くかつ端正にリズムを刻んでいるなと思った。

たまたま目に止まったそのコントラバスの動きが演奏全体に対する僕の印象を支配することになったような気がする。

重さがあって端正にリズムを刻んでいく演奏、そんな風に感じながら聴いていた。

ただ、その端正というイメージが演奏を聴き進んでいくうちに少し変化してきた。

そして端正と言うよりも明晰だと思い始めた。

こんなにそれなりに力強くてメロディもきれいで、明晰という演奏に今まであまりであったことがないなと思った。

明晰というのはリズムに関してだけの話ではなく、弦楽器のいろんな声部が、特にチェロやヴィオラなどの音が中間の音域を聴きとるのがあまり得意ではない僕にもよく聴こえてきた。

それで、ああ、これはリズムだけでなく音の聴こえ方も明晰だなと思った。

ビオラの一番前の方が僕の目から見てほぼ正面に位置していたことも幸いしたと思う。

そしてチェロも正面から見るよりも僕にとっては側方から見たほうが動きがわかりやすいということも今回のコンサートでわかった。

幸いチェロの後ろの方の奏者は僕の目から見て側方が見えるような配置になっていたのでそれも幸いした。

最近は視覚と聴覚を連動させて聴く習慣になっているので楽器の配置によって音のイメージが随分変わって来てしまう僕だけれどいろんな点で今回のコンサートは幸いだったように思う。

明晰な演奏と感じられたので、いろいろと気づくことも多かった。

マーラーの交響曲は、楽器が大勢で奏でられているときにもソロ的に聴こえることが多いというのもその一つだった。

もちろんリヒャルトシュトラウスのように文字通り弦楽器などがソロで活躍することもあるけれど、そうでない場合もおのおのの楽器がソロのような感じで耳に届いてくるなと思う瞬間が演奏の随所にあった。(それがどの箇所だったかと言うことはもう忘れてしまったけれど)

そしていろんな楽器の音がセパレートに聴こえてくることとマーラーが指揮者としてのキャリアも相当のものであったことときっと無関係ではないだろうなと思った。

第三楽章の中間部で弦が三拍子のピチカートを刻む場面があるけれどそこを聴いていて、ああ、これはイメージはウインナワルツだなと思った。

三楽章でメインのホルンが協奏曲のように指揮者の横で演奏した。

僕にとってはこのようにすることで楽器の音の出どころがわかりにくくなるので(目が奥に言ったり手前に行ったりするため)通常の位置で演奏してくださった方が聴きやすかっただろうと思った。ただ、これはごく個人的な感想です。

盛り上がる所でも則を外さずちゃんと制御が効いている感じだなと思って聴いていた。

どの楽章とかもう忘れたけど、弦が活発に動くところでバイオリンの音がもう少し腰が据わっていて力強ければと思った場面が少しだけあった。

明晰なマーラーと言うことで印象深い演奏だったけど、演奏が終わってしばらく時間がたって振り返ってみると、ややこぢんまりまとまっている感じがしたことも事実。

でも、二兎を追ってあれもこれも中途半端なことになるよりもポリシーがしっかりした演奏で、明晰さを感じ取ることができのは僕にとってはとても幸いだった。

演奏会が引けて四条まで戻ってくるとコンチキチンの音が聴こえていて ああ祇園祭の季節だなあと思った。

ちょっと京都線沿線のややディープな街のカラオケ店に入る。

受付の機械が電話番号を入力してくださいとなっているので 機械に入力しても何も反応しない。

「電話番号入れても機械反応しません」と僕が言うと
「その機械、まだ電話番号には対応してません。詐欺みたいなことになっておりまして申し訳ありません」と若い女性の店員さん。
「詐欺みたいってあなた、ここ大阪だからそんなこと言っても許されるけど 尾張地方でそれ言ったらあなたもう空気ごと固まってしまって終わりだよ」と言おうと思ったけれど、忙しい子のじゃまになってもいけないと思って黙っていた。

それはともかく いちにち いちにち 無事にすごせますように





名古屋フィルハーモニーの定期演奏会を聴きに行く(第536回)

2025年07月14日 | 音楽
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7月12日名古屋フィルハーモニー交響楽団第536回定期演奏会を聴きに行った。

プログラムは以下の通り。

エミリア・ホーヴィング指揮
ヨルゲン・ファン・ライエン トロンボーン独奏

バーンスタイン:『ウエスト・サイド・ストーリー』からのシンフォニック・ダンス
デスナー:トロンボーン協奏曲[日本初演]*
ラフマニノフ:交響的舞曲 作品45

最初にバーンスタインのウエストサウドストーリーから シンフォニックダンスが演奏された。

旋律を歌わせることがとても上手な指揮者のようで、美しい旋律が出てくるところではうっとりするような気持ちになった。

甘い旋律が流れているときには、旋律そのものも美しいと思ったけれど、「バーンスタインってショスタコーヴィチやチャイコフスキーの交響曲をある意味、誰よりも熱く演奏した人だったよな」、(そんなにたくさん聴いてるわけではないけど)とか「五嶋みどりさんが若いというよりも幼いころバイオリンの弦が二回切れてもその都度 オーケストラの人のバイオリンを借りて演奏を乗り切った話は有名だけれど みどりさんがバイオリンを交換する間 曲の途中でオーケストラをしっかり停止させていたのはバーンスタインだったんだよな。あの偉業はバーンスタインの指揮だったからこそできたんだ」とかそんなことを心の中で思い浮かべていた。

そんな人だからこんなに美しい旋律が書けるんだと。

そんな思いにひたらせてもらえる演奏でよかったなと思う。

パーカッションも一般的なクラシックの曲に比べるといろいろと豊富で楽しかった。

演奏が終わった後、なぜか早く通路をあけなければならないと、席を立ったらオーケストラのメンバーの方々がまだステージに残っているので、ああ、前半にもう一曲あるんだと気づいてあわてて席に引き返した。

あやうく二曲目を聴かずに外に出てしまうところだった。

そして二曲目にヨルゲン ファン ライアンさんトロンボーン独奏で
デスナー:トロンボーン協奏曲[日本初演]*
が演奏された。

初めて聴く曲だしよく覚えてないけれど 途中で 木管の音が執拗なリズムを刻んでいるのに どこから音が出ているのかわからない。

あちこちぐるっと三周くらい見渡してやっとファゴットの音だとわかった。
僕はしばしば ファゴットって楽器が大きい割に何をやっているのかよくわからないと思うことがある。

あと管楽器の美しいコラールのようなハーモニーが出てきた場面があって、あれはどの楽器だろうとしばらくわからなかったけれど ようやく トロンボーンの独奏とホルンのハーモニーだと気づいた。

ホルンも微妙に譜面台に隠れて奏者が見えないのも不運だったと思う。

まあ、気づいたから結局はよかったけど。

最後にラフマニノフの交響的舞曲が演奏された。

この曲でも指揮者の旋律の歌わせ方が素晴らしいなと思った。

それで指揮者に目を凝らすと、なんだかメロディを歌わせるところではふわっと流れるような感じで腕がうごいている。

それはメロディが美しく流れるはずだと思った。

この曲は冒頭で弦の伴奏に乗りながら 木管がタ タ タン という三つの音からなるリズムをリレーしていく その直後に今度は弦が力強くタン タン タン タン タ タ タン タンという感じのリズムを刻むのだけれど 最後の タン タンの二音が一瞬ブラームスのハンガリー舞曲第六番の冒頭の二音にかぶって聴こえた。

家でCDを聴いていてもそんな風に聴こえたことないのだけれど 本当にコンサートの生演奏だと耳も不思議な現象を起こすことがあるんだなと思った。

いま 心の中で二つの二音のリズムを歌ってみると少なくとも相対的には同じ音ではないのできっと幻聴だったのだと思う。

終盤でグレゴリオ聖歌「怒りの日」が金管ででてきた。

これも家でCDを聴いていても気づかなかったからやっぱりコンサートには来るべきものだなと思う。

それで怒りの日の旋律が出た後は 確かに怒りのような雰囲気もあったけれど それほど執拗な怒りの表現と言うわけでもなく 怒り、平安、希望などが入り乱れた微妙と言えば微妙な感じだなと思った。

この曲はベートーヴェンのように同じ音形がいろんな楽器に受け継がれていくので僕にとっては今度はあちら 今度はそちら という感じでとても楽しかった。

冒頭のタ タ タン という音型は曲の中でいろんな楽器で繰り返しでてくるし、なぜかブラームスのハンガリー舞曲とかぶって聴こえてしまったリズムもいろいろ形は変化するけれど何度も出てくる。

それらのリズムが、異国の地にいる作曲者の何とも言えない不安感、望郷の念などを表しているような気がして、演奏会が終わった今も、管楽器や弦楽器の響きがなんとなく心に残っている。

メロディの美しさと相まって印象に残る演奏だったなと思う。










京都市交響楽団定期演奏会を聴きに行く(第701回)

2025年07月10日 | 音楽
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6月21日京都市交響楽団第701回定期演奏会を聴きに行く。

プログラムは以下の通り

指揮:沖澤 のどか(常任指揮者)
独奏:アラベラ・美歩・シュタインバッハー(ヴァイオリン)★
曲目等   G.レンツ:ヴァイオリン協奏曲「...to beam in distant heavens...」★ (日本初演)
タイユフェール:小組曲
ラヴェル:組曲「マ・メール・ロワ」
デュカス:交響詩「魔法使いの弟子」

最初にG.レンツ:ヴァイオリン協奏曲が演奏された。
ヴァイオリン独奏:アラベラ・美歩・シュタインバッハーさん

バイオリンもうまいと思ったし、演奏も悪くはなかったのだけれど、僕の席のすぐ後ろの客席内にたぶん奏者の方がおられたようで 後ろから聞こえてくる音と前(ステージ)から聞こえてくる音が、頭の中でぐじゃぐじゃに交錯するような場所だったので、ちょっと苦痛を覚えながら演奏を聴いていた。

僕の後ろにいた楽器はたぶんバイオリンと思うけれど、それも本当かどうかはっきり思い出せないほど頭が混乱してしまった。

たぶん 違う場所で聴いたら演奏にもっと異なる印象をもったことと思う。

次に
タイフュールの小組曲が演奏された。

プログラムで曲を確認するとシチリア舞曲がはいっていたのでたぶんそういう地中海の感じの音楽なのかなと思ったいたら、どうもそんな感じだった。

弱音器のついたトランペットから出る音を聴いてチャイコフスキー白鳥の湖の「ナポリの踊り」で奏でられるトランペットのメロディを連想した。

シチリア舞曲ときいてフォーレのシチリアーナを最初に思い浮かべたけれど こちらのシチリア舞曲はそれに比べるとちょっと暗いと感じたしたけれど音楽には明と暗があるわけで別に暗いからよくなかったというわけでは決してない。
次にラヴェルの
マメールロワが演奏された。
ステージを見ると、金管はホルンしかいない。

CDで聴いて木管の印象深い曲だなと思っていたけれど 金管がホルンしかないのはステージを見て初めて気づいた。

やはりコンサートには来るべきものだなと思う。

演奏が始まった時 あまり芸術に格付けをするのはよくないかもしれないけれど 直観的にもうラヴェルはオーケストレーションの格が違うなと思った。

美しいし精巧。

若い時に読んだ本(書名は忘れてしまった)にラヴェルのことをスイスの時計師に例える記述があった。

本当にそう例えたくなる気持ちがわかるほど精巧だなと思った。

木管はどれも美しいので聴いていてとても嬉しかった。

そんな気持ちで聴いていたので演奏の内容がどうとかは覚えていないけれど、沖澤のどかさん 前にリヒャルトシュトラウスをやった時もいいなと思ったし ラヴェルもいいなと思った。

要するにドイツ系でもフランス系でも大丈夫な指揮者なのだと思った。

次に
デュカス 交響詩魔法使いの弟子が演奏された。

ファゴットの旋律が出てくるときにはなぜかチャップリンの映画で ずるい登場人物が出てくるようなときに流れる音楽を連想した。

この曲で音楽を盛り上げるような場面での、沖澤のどかさんの動きを見ていて 体幹がしっかりしていて上体だけで動いて盛り上げるというのとは一線を画していたのでいろんな意味で期待が持てそうだなと思った。
それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますようにそれを第一に願っていきたい。






ベルリンフィルハーモニーを聴きに行く

2025年07月04日 | 音楽
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7月3日ベルリンフィル名古屋公演を聴きに行く。
グスターボ・ドゥダメルさんの指揮で

ベートーヴェン:劇音楽『エグモント』 (ソプラノ:クリスティーナ・ランツハマー / 語り:宮本益光)
チャイコフスキー:交響曲第5番

の二曲が演奏される。

演奏前ステージ左に並んだコントラバスを見て楽器の色が僕がいつも聴いているオーケストラのものよりも濃い茶色だ と思った。

茶色と言うよりこげ茶色。

こころなし小さいようにも見えるし。

色で楽器の質が決まるわけではないけど、弦楽器は全く習ったこともない僕が見てもなんとなく小ぶりでしっかりした楽器に思えてくる。

きっと 楽器の質が地方のオーケストラとは違うのだろうなとステージを見ただけの段階で思った。

劇音楽エグモントが始まる。

最近 聴くよりも見る癖がついてしまっているので 実は 見るのに夢中でどんな演奏だったかもう覚えていない。

ただ、凝縮された音が出ていて、音楽の場面ごとの表情の切り替えとか 目いっぱい練習しているというよりも 経験値の高さから ちょっとリハーサルすればもうできてしまうというレベルなんだろうなと思いながら聴いていた。

小さい音でも勢いが失われずに出ているし 大きい音で盛り上がる場面でも 音がしかるべき枠の中で動いていて一定の範囲を逸脱しない感じだなと思った。

僕は純粋に?音楽を聴くタイプなので語りが途中から耳障りになりはじめた。

オーケストラが小さい音を出しているとき バリトン歌手のような感じの語りなので 本当にリハーサル入念にしているんだろうか でも してないはずもないし とかいろいろ考えていた。(個人の感想なので語りの宮本さんごめんなさい)

オーケストラが止まっているか 静かな音を出しているときに語りがえんえんと続いている場面があった。

語りが終わったらオーケストラがきっと活発に動き始めるのだろうと思った。

その時 このベルリンフィルのメンバーの中で 語りが何を語っているのかわかるのはひょっとしてコンサートマスターの樫本さんだけ?と思った。

日本語がわかるヨーロッパの人ってそんなにいないのでその可能性も極めて大きいと思った。

ということは 語りからオーケストラにバトンがわたるタイミングでは樫本さんの日本語力が大きくものを言うのかと思った。

そして オーケストラにバトンが渡った時 樫本さんは身を乗り出すように演奏を再開され 大きな役割をしておられるようにも見えたし まあ そんなのあたりまえかとも思えた。

結局どちらかはわからなかった。

ただ、樫本さんがそこで身を乗りだすように始められたのは事実。

エグモントは序曲の部分はCDでも何度も聴いているので とても楽しかったし それ以外の部分ももちろん楽しかった。

物語の音楽は なぜか 僕の場合 ストーリーを知らなくても楽しめてしまう。

知っていればそれに越したことはないとは思いつつ、、、、。
次にチャイコフスキーの5番

最初の重々しい部分はバイオリンはほとんど休止状態なんだなということにステージを見ていて今さらのように気づく。

第二楽章もホルンの有名な旋律が出る前の序奏の段階ではバイオリンは僕の目に入った限りでは休止していて こういうところは 一楽章 二楽章と連動性があるんだなと思う。

CDでトラック送りのような感じで聴いているとなかなか気づかないことだからやっぱりコンサートはいいなと思う。

見ていて 気づくことは 例えば弦が速い動きになるときに注目すると前の奏者から後ろの奏者まで ほとんど 同じ勢いで 弓が動いているから見ていて 壮観。

例えは悪いけど 兵隊さんの演習のようによくそろっている。

あと 僕がよく聴いている日本の二つのオーケストラと比べると男性の比率がたかいせいもあると思うけれど みんな 体幹がしっかりしているなと思う。

小さい音でも 大きい音でも 速い旋律でも 遅い旋律でも みんな 余裕をもって弾いているように見える。

この余裕がけっこう大きいんだろうなと感じる。

僕が座っていた座席が普段よりも左で オーケストラが対抗配置だったせいもあると思うけれど 僕が聴きとるのを苦手としている ビオラや ファゴットの音もよく聴こえてくる。

これは演奏者の腕と言うのもあるかと思うけれど なんとなく ここでも 楽器の質も違うように思えてくる。

楽器などまったく 手に取ってみたことない僕だけれど オーボエの形も普段 コンサートで僕が見慣れているものよりもなんとなく細くて引き締まった形に見えるしビオラもなんとなくガタイがしっかりしているように思えてくる。

べリリンフィルだと思って見るから気のせいかもしれないけど 気のせいばかりともいえないような気がする。

第四楽章でトロンボーンの和声を聴いていてどことなく ブラームスの交響曲第一番で第四楽章のテーマが弦楽器で出てくる前のトロンボーンのコラールのような和声に似てるなと思った。

トロンボーンのラッパの口がちょうど僕の方に向かっていて音が聴きやすかったのが幸いした。

樫本さんのことなのだけれど 身を乗り出したり そらしたり 動きが活発だなと思ったけれど 後ろにいる奏者も 僕の目から見ていると 地方のオーケストラに行ったら一番前で弾く人のような動きをしているのであそこまで動かなくてもいいのにと思った場面があった。

ちょっとせわしないなと。

ただ、これは僕自身が足が床にしっかりついてないと落ち着かない体感だから 自分の体感をものさしにして判断しているとは思う。

すばらしいオーケストラを聴けて良かったと思うけれど 演奏をよく覚えていないなりに振り返ってみると それほど素晴らしい演奏だったという記憶がなぜかない。

それは チャイコフスキー特有の悲しいメロディを切々と歌ったりする場面の伸びが足りないように思えたから。

そこそこ 力強くて引き締まった演奏だったけれど 広がりというのもに欠けていたように思う。

それは第一楽章の終盤あたりから感じ始めたので 時折指揮者を見てたけど 何となく オーケストラに広がりを求めるような動きはされていないように見えた。

体幹はしっかりしているけれど 意外とバリエーションの少ない動きに見えた。(個人の感想です)

僕がこれまでいろいろ聴いてきた感じでは うまいオーケストラになればなるほど指揮者が動いた通りの音がでる気がするので、もう少しエレガントな動きも加えれば演奏もそれに応じてかわってきたような気がする。

それでも 比較的落ち着いた会場の雰囲気の中 世界の一流と言われているオーケストラの演奏を聴き そして見ることができてよかった。

いちにち いちにち 無事にすごせますように。