トーマス・エジソン
発明家&起業家傑出した発明家として知られている。生涯におよそ1,300もの発明を行った人物であり、また人々の生活を一変させるような重要な発明をいくつも行ったことで知られている。例えば蓄音器、白熱電球、活動写真である[1][注 2][注 3]。電球などの家電だけでなく、発電から送電までを含む電力(電力システム)の事業化に成功したことが最も大きな功績、ともされる。また、エジソンはEdison General Electric Company エジソン・ゼネラル・エレクトリック会社の設立者で、J・Pモルガンから巨額の出資・援助をしてもらい、その指揮下で電力システムの開発・普及に努力したわけであるが、この会社は、現ゼネラル・エレクトリック社 (GE社、世界有数の巨大企業) の前身となった会社である。ここへ入社したサミュエル・インサルは、エネルギー効率の観点からシカゴの都市計画を丸ごとマネジメントした。インサルはMiddle West Utilities Company を運営した。この電力会社を使って非効率な小規模発電所を大量に買収し合理化を推進した。努力の人エジソンは「努力の人」「非常な努力家[1]」「不屈の人」などとして知られている。幼いころから正規の教育を受けられないという困難に見舞われたが、図書館などで独学した[1]。新聞の売り子(販売員)として働くことでわずかなお金をコツコツと貯め自分の実験室を作った逸話などでも知られている[1]。16歳ころには電信技士として働くようになり、さまざまな土地を放浪しつつも、自力で様々な科学雑誌を読破して学び続けた[1]。耳が不自由になったにもかかわらず、それに負けず、努力を積み重ね成功したことでも知られている。[注 4][注 5][注 6]失敗と敗北の人エジソンは成功した人物として知られているが、その一方で、それと同じくらい、あるいはそれ以上に数々の失敗・敗北を経験したことでも知られている。大きな失敗・敗北としては、自分が選択・採用した直流送電にこだわるあまりに交流送電の優位を受け入れられず、交流を採用したニコラ・テスラおよびウェスティングハウスとの間で電流戦争に陥り、結局、敗北してしまったことが知られている。また、飛行機(厳密にはヘリコプター)を作ることを考えながらも安全面の問題から断念せざるを得ず、ライト兄弟に先を越されたという失敗もある。ニコラ・テスラやウェスティングハウスとの戦いでは、「交流電流は危険」とのイメージを人々に持たせるために様々な汚い宣伝工作等々を行ったことなどの汚点でも知られている[注 7]。(またジョルジュ・メリエスの傑作『月世界旅行』を公開前に無断で複製しアメリカ中の映画館に売りつけ巨額の富を得たという事実も存在する。[E 1])その後の発電所に納入する発電機をめぐる戦いでも敗北してしまったため、Edison General Electric Companyに出資し株の過半を持ち実質上のオーナーとなっていたJ・Pモルガンから見切られ、エジソンはもともとは自分が設立した同社の社長の座を失い、会社とは無関係とされ、社名から自分の名前も消されるという屈辱も味わった。異名エジソンは様々な異名を持っている。しばしば「発明王」と呼ばれている。また研究所が置かれたメンロパークにちなんで「The Wizard of Menlo Park (メンロパークの魔術師)」 とも呼ばれた。リュミエール兄弟と並んで「映画の父」とも言われている。このほか、自らの発明の権利を守るため訴訟を厭わなかったことから「訴訟王」の異名も持つ[注 8]。
出生[編集]
1847年2月11日にオハイオ州ミランで父サミュエル・オグデンJr.(1804年8月16日 - 1896年、オランダ系)と母ナンシー・エリオット(1810年1月4日 - 1871年、スコットランド系)の間に生まれた[注 9]。 トーマスは彼らの7人の子供の末っ子(7番目の子供)で、トーマス・アルバが7歳の時に家族はミシガン州ポートヒューロンに移った。 幼少期の通称は「アル」であった。
少年時代[編集]
少年時代のトーマスは、異常なほどの知りたがり屋であった。小学校に入学するも、教師と馬が合わずわずか3ヶ月で中退した。当時の逸話としては、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問したり、英語の授業中にも、「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ばないの?」と質問するといった具合で、授業中には事あるごとに「Why? (なぜ?)」を連発して、先生を困らせていたという。
その様な好奇心は学校内に止まらず、ガチョウの卵を自分で孵化させようとして、卵を抱き抱えてガチョウ小屋の中に何時間も座り込んだり、「なぜ物は燃えるのか」を知りたいと思い立ち、藁を燃やしていたところ、自宅の納屋を全焼させるなどの事件を起こしたこともあった。これらが重なった挙句、最終的には担任の先生から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも「他の生徒たちの迷惑になる」と言われ、前述の通り入学からわずか3ヶ月で退学することとなった[注 10]。
学校教育に馴染めなかったトーマスは、自宅で独学することになった[1][注 11] [注 12]。トーマスが特に興味を示したのは、化学の実験であった。
化学実験に没頭した少年時代、人間が空を飛べるようになる薬を作ろうと試み、ヘリウムガスをヒントにして薬を自作し、友人に飲ませた。エジソンの目論見としては、その薬を飲むと体内でガスが発生し、その浮力で人間が浮き上がるはずだったが、実際には薬を飲んだ友人が腹痛を起こしてもがき苦しみ、大騒ぎになった。普段はエジソンの行為に理解を示していた母親も、この件に関しては激怒し、人体実験を行う事を厳しく戒めたという。(エジソンはその後も人間が空を飛ぶという夢を追求したが、後述の通り、またもや人命に関わる問題で挫折する事となる。) 少年時代のエジソンは持ち前の好奇心が高じて、自らの手で新聞を作り、列車の中で売って評判になった事があった。しかし、ある人物を皮肉った内容の記事を新聞に載せたところ、これを見て怒った本人から暴行を受け、これに懲りてエジソンは新聞作りをやめたという。 15歳の時に、働いていた鉄道の駅で、まだ幼い駅長の息子が汽車にひかれそうになったのを助けた事があった。エジソンはそのお礼として、駅長から電信の技術を教えてもらい、後に彼が技術者としての人生を歩み始めるきっかけを与えてもらったという。
オカルト研究[編集]
エジソンには超自然的、オカルト的なものに魅せられていたという一面もあった。ブラヴァツキー夫人やバート・リーズの降霊術を信じていて、ブラヴァツキー夫人の開く神智学会に出席したこともある。また、来世を信じ、後半生は死者と交信する電信装置 (Spirit Phone) を研究していた。ただし、あくまでエジソンは合理主義者を自負しており、1920年代を通じて常に自由思想家協会を支持していた[注 13]。
エジソンは、「人間の魂もエネルギーである」と考え、「宇宙のエネルギーの一部である」と考えていた。「エネルギーは不変なので、魂というエネルギーは人間の死後も存在し、このエネルギーの蓄積こそが記憶なのだ」と考えていた。エジソンの言によれば、自分の頭で発明をしたのではなく、自分自身は自然界のメッセージの受信機で、「宇宙という大きな存在からメッセージを受け取ってそれを記録することで発明としていたに過ぎない」のだという