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のりこえねっとTV「『日本』てなんだ 20151222 イラクの実態

2015-12-31 16:04:01 | Weblog

20151222のりこえねっとTV「『日本』てなんだ!これだ!それな!-2015年大総括会議-」

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ヘレンケラーの名言 ツイート

2015-12-31 15:32:51 | Weblog

ヘレン・ケラーの名言@名言ナビ @HelenKeller_bot 12月29日

いつも太陽の光に顔を向けていなさい。そうすれば影を見なくてすむ。いつも真理に目を向けていなさい。そうすればあなたの心から不安や心配は消える。(ヘレン・ケラー)

 

本当の教育は知性と美しさと善良さを組み合わせたものです。そしてこのうち一番大切なものは善良さです。(ヘレン・ケラー)【名言ナビ】

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硫黄島の戦い

2015-12-29 17:03:34 | Weblog

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

<気になる記事箇所>

◇司令部・本部附のいわゆる事務職などを含む全将兵に対して陣地構築を命令、工事の遅れを無くすため上官巡視時でも作業中は一切の敬礼を止めるようにするなど指示は合理的に徹底していた

◇掘りの土は一滴の血を守る」を合言葉に作業が続けられたが、病死者、脱走者、自殺者が続出した[5]

◇海岸砲を主体とする摺鉢山の火砲陣地のみ、海軍の不手際によって敵軍上陸を迎える前に全滅している(同山に展開していた海軍管轄の海岸砲が、栗林中将が事前に定めていた防衛戦術を無視しアメリカ軍の事前砲撃時に発砲を行い、その結果火砲位置を露呈してしまい反撃を受けたため)。

栗林中将は海軍の一連の不手際、無能・無策を強く非難し

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 以外な事実 冷酷、悲惨

Ж米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%85%B5%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E6%88%A6%E6%AD%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E9%81%BA%E4%BD%93%E3%81%AE%E5%88%87%E6%96%AD

ペリリューの戦い硫黄島の戦いなどで日本軍との間に死闘を展開したアメリカ海兵隊では、激戦につぐ激戦による最前線兵士の精神的疲労も重なって、日本兵の遺体損壊が日常的になっていた[4]。撃墜した日本軍機パイロットの遺体や、特攻により損傷した米軍艦艇に残されたパイロットの遺体が「コレクション」された記録もある[5]

大量の日本軍の戦死者の遺体は排尿や死体への射撃などで冒涜され、あるいは記念品として戦死者の耳や、時には頭などが切断されネックレスにされるなどして持ち去られた[6]。なおこれらの猟奇行為は、敵兵に対する怒りから行われるだけでなく、黄色人種である日本兵に対する人種差別的感情からも行われていると批判された(同様の猟奇行為はインディアン戦争ヴェトナム戦争といった他の異人種相手の戦争でも繰り返され、常態化している)。

日本軍の戦死者の部位を切り取り「コレクション」する連合国軍兵士の猟奇行為は「戦争の全期間にわたり連合国軍当局に懸念を抱かせるのに十分な規模で行われ、そして、広く広報され、さらにアメリカや戦時中の日本の新聞においてコメントされていた」[7]

連合国軍兵士により、日本軍将兵の遺体の部位を「コレクション」する行為は戦争の初期から行われており、このため1942年9月にこれら「コレクション」を行うことを懲戒処分の対象とするとの命令が出された[8] 。サイモン・ハリソンはこれらの行為はガダルカナル島の戦いが最初の機会であったと結論付けている。明らかに、生きていようが死んでいようが、初めて日本軍と遭遇した時、戦死者の身体の一部をコレクションすることは軍当局に懸念を抱かせる規模で行われ始めた[9]

戦後、マリアナ諸島から本国へ日本軍将兵戦死者の遺体の残りが送還された時、約60%がそれらの頭部を失っていた[10]。サイパン島で収容所にいた日本人少年は、海岸で頭蓋骨をボール代わりにして遊ぶ米兵を目撃している[11]

戦争犯罪[編集]

1944年6月13日付けの報告ではアメリカ陸軍法務部長(JAG)において、「そのようなひどい残虐な行為」が不快であることに加え、戦時国際法違反であると主張されており、それを全ての指揮官に配布することを推奨しており、「敵の戦没者の虐待は病人と負傷者の扱いについて規定された1929年に批准されたジュネーブ条約の露骨な違反であり、さらにそれは関わるごとに、戦場を保持している交戦国は負傷者と死者を探し当て、彼らを強盗行為やそのほかの悪行から保護する処置を捕らなければならない」とされている。

これらのアメリカ軍人の行為は陸上戦における慣習的な不文律に違反しており、死刑に処することもできた[12]。アメリカ海軍法務部では1週間後、その見解を反映し、「幾人かのアメリカ軍将兵が犯した残虐行為により、日本人による報復行為が引き起こされ、それが国際法の元で正当化されるおそれがある」とさらに付け加えた[12]。しかしこれらの違法行為はその後も断罪されることはなかった。

1944年6月13日の報道では、「フランクリン・D・ルーズベルト大統領が、フランシス・E・ウォルター連邦議会下院議員からレターオープナーを贈呈されたが、それが日本兵の腕の骨から作られたものである」と報じた。日本でもこの記事が報道され「アメリカ人は精神錯乱しており、野蛮で、人種差別主義者で、非人道的である」と描かれた。

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戦争に正義は存在しない。

地獄のみだ

勝っても真の幸福などない。

 

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生死の境、3度経験 元整備兵の証言

2015-12-28 03:00:44 | Weblog

軍人精神注入棒」で尻を強くたたかれた。殺されると思った。尻は腫れ、あおむけで寝られなかった。生命の危険すら感じた。何が海軍の伝統か、何が生死を共にする戦友か、どうして心を一つにして戦えるかと思うようになった。

ミッドウェー海戦も経験した。しかし、真珠湾攻撃とは異なり、作戦が見破られ日本は大敗。暗号は敵に解読され、手ぐすね引いていた中に飛び込んだ格好になった

船底近くの機関室に残る仲間は脱出することができず、全員蒸し焼き状態で戦死。乗船していた約1500人のうち、約1000人が死亡したという。

 

戦争体験を語る滝本邦慶さん=大阪市東淀川区【時事通信社】

 飛龍が炎上する前、航行中に米軍のグラマン戦闘機の機銃掃射を受けた。甲板上でとっさに身を伏せた。目を開けて見ていたら、銃弾はわずか30センチ横をかすめた。もう少し横にずれていたら、即死していた。この時は痛みを感じず、あまり血も出なかったので、簡単な止血処置をしただけだった。しかし、日本に戻る途中、右腕が上がらなくなった。軍医に診てもらうと、弾が1発、右脇の下にめりこんでいた。

 手術を受けることになるが、病院では病棟で缶詰め状態になった。新聞を見ると、ミッドウェー海戦の記事は、実際とは違う報道内容。大本営はうそをついていたと思った

乗船していた飛龍は航行できなくなり、最終的に日本軍の駆逐艦が2発の魚雷で、船に残った司令官と艦長とともに海に沈められた。司令官と艦長は責任を取った形となり、気の毒だと感じている。

目の前で死んでいく戦友を見て、こんな死に方はしたくないと思った。先に見えるのは絶望だけ。それ以外は何もなかった。その時に母親の顔が思い出された。「国にだまされた」と思った。

 

 

 

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戦争を美しく語る者信用するな人々は政治家のために殺されているクリント・イーストウッド

2015-12-28 02:28:33 | Weblog

http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/00857a4ed968ddb8a63678f170f894ad

 

彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから

ずっと前から、そして今も

人々は政治家のために殺されている

<クリントイーストウッド監督>

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中隊長は「なんで逃げて帰ってきたんだ。みんなが死んだんだからお前も死ね!」と。

<漫画家水木しげる>

毎日新聞 2014年08月13日 東京夕刊

 ◇命懸けで合流した部隊で「死ね!」こみあげた怒り--水木しげるさん(92)

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Claude Fran�・ois, Le roi du Show

2015-12-21 01:49:31 | Weblog

Claude Fran�・ois, Le roi du Show

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claude francois et ses enfants

2015-12-21 01:28:01 | Weblog

claude francois et ses enfants

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Claude Fran�・ois - Comme d'habitude (BBC - 1er f�・vrier 1977)

2015-12-18 03:29:43 | Weblog

Claude Fran�・ois - Comme d'habitude (BBC - 1er f�・vrier 1977)

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Claude Fran�・ois My way Comme d'habitude

2015-12-07 02:44:37 | Weblog

Claude Fran�・ois My way Comme d'habitude

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Ella Fitzgerald - Lover Man

2015-12-07 01:09:52 | Weblog

Ella Fitzgerald - Lover Man

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