http://matome.naver.jp/odai/2134359284309198901
ただ一人の人間の命は、この地球上で一番豊かな人間の全財産よりも100万倍も価値がある。隣人のために尽くす誇りは、高い所得を得るよりもはるかに大切だ。蓄財できるすべての黄金よりも、はるかに決定的でいつまでも続くのは、人民たちの感謝の念なのである
指導者とは、人が自分と同じところまで追いつけるように誘導するものだ。ただ言葉で強いるのでなく、後ろにいる人たちを力づけて、自分のレベルまで引き上げようとするのだ。
もし私たちが空想家のようだといわれるならば、
救いがたい理想主義者だといわれるならば
出来もしないことを考えているといわれるならば
何千回でも答えよう
「その通りだ」と。
明日死ぬとしたら、生き方が変るのか?
あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なのか
http://matome.naver.jp/odai/2138264035021211801
人を愛する事を信じ続けた真の革命家!チェ・ゲバラの名言集
▼チェ・ゲバラとは?
Ernesto Che Guevara
本名:エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ
1928年6月14日 - 1967年10月9日
アルゼンチン出身の政治家・革命家で、ゲリラの英雄的存在。
青年期に南米を放浪、見聞を深めるうちに社会主義に傾倒する。メキシコ亡命中にフィデル・カストロと出会い、キューバの反独裁闘争に参加することを決意。指揮官の一人として長いゲリラ戦に従軍し、キューバ革命を成功に導いた。
革命成立後、新キューバ政権下で国立銀行総裁や工業大臣を務めるが、国際的な革命闘争に参加するため、1965年にキューバを離れる。その後、コンゴ、ボリビアでゲリラ軍に参加。最後は、ボリビアで政府軍に捕らえられ、1967年10月9日に処刑された。
31歳当時のゲバラ。髭面に葉巻、そしてベレー帽が特徴的なスタイル。死後、ゲバラの生き様と思想は、世界各地の若者や革命を目指す者たちに熱狂的に指示され、現在でもその人気は衰えていない。
▼チェ・ゲバラの言葉
私のことを冒険家というのなら、たしかにそうだ。しかし、私は違うタイプの冒険家だ。自分の真理を証明するためなら、命も賭ける冒険家だ
ジョン・レノンには「世界で一番格好良い男」、カストロには「道徳の巨人」、「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評された。
酒は飲まない。タバコを吸う。女を好きにならない位なら、男を辞める。だからと言って、あるいはどんな理由であっても、革命家としての任務を全う出来ないのなら、僕は革命家を辞める。
出典チェ・ゲバラ
冷戦体制が崩壊し、アメリカの後ろ盾を失った独裁者が南アメリカ諸国の多くから去った今日でも、ゲバラは南アメリカ諸国を始めとした第三世界では絶大な人気を誇るカリスマである。
http://money321.blog122.fc2.com/blog-entry-40.html
「世界で一番格好良い男」 ジョン・レノン
「20世紀で最も完璧な人間」 ジャン=ポール・サルトル
「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」 フランスの作家レジス・ドブレ
「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」 カストロ
崇高な行動
ゲバラが国立銀行総裁になって最初にしたことは、自分の給料を半分以下にカットする。工業相になってからは自ら建設現場で働いたり、工場のラインに立って作業をし、サトウキビの収穫期には農園で汗を流し、労働者と一緒に働いた。一過性のパフォーマンスでもなく、いつもやってる普通のこと。
仕事場には誰よりも早くきて、帰りは誰よりも遅く、労働者に交じって食事をするゲ。国民の間で人気は高まっていった。
国民全員が文字を読めるよう教育を無償化すると共に、政府軍が使っていた全ての兵舎を学校に変え、文盲一掃運動に取り組んだ。続けて医療の無料化を実現した後、少数の大地主が独占していた土地を国有化、米国資本が牛耳っていた企業の国営化などをすすめ旧勢力の激しい抵抗を受けつつも独自の国家作りに挑戦した。
国民全員の家賃を半額にするなど、過激な政策をどんどん実行していった。
権力を手放す 見てるか~エセサヨク民主党~
1965年、37歳になった彼はキューバにおける自分の役目は終わったと判断し、貧困と搾取に苦しむ新たな国へ、再び一人のゲリラとして向かったんだ。国家の要人という地位を捨て、再び過酷なゲリラ生活に帰っていった。
ゲバラはアフリカで戦い、続いて南米ボリビアへと転戦した。
「最も重要なことは権力を握ることではなく、握った後に何をするかを明らかにすることだ」ゲバラ
12vs2万に勝利 キューバ革命
圧政のキューバを解放しようと上陸したときにはたった12人。政府軍は2万
しかしゲリラ活動をはじめ、戦闘が終わったら敵も治療し、TVにもでて、ラジオを開設。
民衆の支持を得て、メンバーを増やし、なんとキューバ政府を倒し、革命を成功させた。
ブルジョワ的と言われてもやめられないのが、いい葉巻と美味しい飲み物だ」
と言っています。酒は飲めなかったようです。
日本にきたことがあります。大阪から広島に行き、原爆資料館をたずねて、核兵器に対して否定的な考えを持つに至ったようです
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5938196.html
革命を起こした人」になりますが、一番
しっくりする表現は「アメリカに正々堂々ケンカを売った男」として認識してます。
穏健派の最右翼である
ウルティアが大統領を辞任すると、国内は一気に共産主義化していきます。
カストロも覚悟を決めチェに政治的なポジションを与えます。
彼は外交に手腕を発揮します。アメリカの植民地化が顕著なアフリカやアジア
諸国を回り、声高にアメリカを批判します。革命家から圧倒的な人気を誇って
いたチェの外交にアメリカは強硬な姿勢をとります。キューバの最大の輸出品
であるサトウキビをアメリカが買わなくなりました。それに対し、キューバは
国内にあるアメリカの資産をすべて没収。更にチェはソ連や中国などの社会
主義諸国を訪問し、サトウキビ輸入や無利子による借款などの約束を取付けま
した。これに焦ったアメリカは、ついに武力行使にでます。といっても、アメ
リカ自らが戦争をしかけるではなく、キューバを追われた旧独裁政権者などを
多額の資産で援助し、キューバ国内でテロ活動をさせます。それに対してキュー
バはついにソ連と組んで核ミサイルを入手します。世界中に核戦争の危機が危
ぶまれた瞬間です。いわゆる「キューバ危機」。結局は、直接電話交渉により
最悪の状態は免れましたが、キューバへの経済政策は続いています。
その後もチェは、国連の席でアメリカの中南米支配を糾弾し第三世界の国々から
拍手喝采を浴びました。さらに彼の批判はアメリカに留まらず、支配者になり
つつあるソ連までに及びます。ソ連はキューバの最大の支援国であって、ソ連の
支援なくしてキューバは成り立ちません。これに困惑したキューバ政府はチェを
煙たがります。これにより、チェはカストロに対して有名な「訣別の手紙」を出
して、自分を必要としてくれている革命国に向かい旅立ちます。
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日本各地を視察した後、27日に日本を発ってインドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴスラビア、ガーナ、モロッコを歴訪して9月8日にハバナへ戻った。翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中である。
政治家ゲバラ[編集]
革命達成の1ヶ月後、旧バティスタ派の人々に対する裁判が行われ、およそ600人が処刑された。ゲバラは処刑の責任者を務め、さらに政治犯収容所の建設を指揮した。この時迅速に処刑を決断したのは、「グアテマラ革命の失敗は、軍内部にアルベンスへの裏切りがあったため」と後に語っている。6月には通商大使として独立したばかりのアジア、アフリカ、東欧などを歴訪し、各地で熱狂的に迎えられた。帰国後、農業改革機構工業部長および国立銀行総裁に就任。農地改革と企業の国有化を進めた。
1960年8月6日、カストロがアメリカの資本から成る石油関連産業を接収、国有化すると、これに対してアイゼンハワー大統領はキューバへの経済封鎖を行った。翌1961年4月にはジョン・F・ケネディ大統領がキューバ侵攻作戦を認可したため、プラヤ・ヒロン侵攻事件が勃発し、アメリカに支援された傭兵軍がPBSUCCESS作戦後軍事独裁政権が続いていたグアテマラからキューバに侵攻したが、ゲバラはカストロと共に侵攻軍を破った。この事件の後、5月1日にカストロはキューバ革命の社会主義革命化を宣言した。
ゲバラは各国に外遊を行い、8月にウルグアイのプンタ・デル・エステで開催された米州機構の総会では、ブラジルのジャニオ・クアドロス大統領から南十字星勲章を授与された。帰国後同年10月に、工業相に就任した。経済封鎖による資源不足、さらに社会福祉事業の無料化により経済が徐々に逼迫していく中、「生産効率の低下は人々の献身的労働によって補える」とし、自らも休日はサトウキビの刈り入れや工場でのライン作業の労働、道路を作るための土運び、建物のレンガ積み等、積極的にボランティアに参加した。しかしこうした行動も経済を好転させるには至らず、理想主義的なゲバラは徐々にキューバ首脳陣の中で孤立を深めていった。
1964年12月11日、国連総会にキューバ主席として出席。演説の中でこう述べた。
我らの人民は声を上げた、“もう十分だ”と。
この偉大な人民の行進は、真の独立を勝ち取るまで続く。
あまりにも多くの血が流されたからだ。
代表の皆さん、これは、アメリカ大陸における新たな姿勢だ。
我らの人民が日々上げている、叫び声に凝縮されている。
また全世界の民衆に支持を呼びかける叫びだ。特にソ連が率いる社会主義陣営の支持を。
その叫びとは、こうだ――“祖国か、死か!”— 1964年12月11日、国連総会にて
1965年1月、各国との通商交渉のために外遊を行う。2月27日に独立の過程によりキューバの盟友だったアルジェリアのアルジェで行われた「第二回アジア・アフリカ経済会議」において、ベン・ベラ大統領と共に起草した[8]演説を行い、当時、キューバの最も主要な貿易相手国だったソビエト連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難し、論争を巻き起こした。3月に帰国後、キューバ政府は「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」旨の通告をソ連から受ける