for the best performance

関心事 原発、放射能、化学物質の蔓延、大気と水と土地、外国人流入、宇宙、

日本軍と内通していた毛沢東9、「日本に感謝している(毛沢東)」

2021-11-14 19:09:41 | Weblog
https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12498510522.html

引用させていただきました


日本軍と内通していた毛沢東9、「日本に感謝している(毛沢東)」
2019-07-28 00:10:04

テーマ:近代




もっとも、日本軍と通謀し、他方でソ連(コミンテルン)を嫌っていたと思われる毛沢東の戦略が、中共内部のすべての幹部から支持されていたわけではない。就中(なかんずく)、最大のライバル王明との間では激しい権力闘争が行なわれ、最終的には一九五六年、王明は病気療養を理由にモスクワに行き、二度と戻ってこなかった。



その後、毛沢東政権下で生じた中ソ対立でも明らかなように、ソ連が毛沢東を嫌い、王明を庇っていた証拠ともいうべき、王明が一九七四年に逝去する際、妻に口述筆記させた手記がその翌年、ソ連国家政治書籍出版社から『中国共産党五十年と毛沢東の裏切り行為』として出版された。



同書は、中国では、流石に“毛沢東の裏切り行為”とは謳えないためか、『中共五十年』として翻訳出版され、一部の中共幹部だけが閲覧を許されたようである。



その中の毛沢東から王明に対する主張、反論を引用すると以下のとおり。「スターリンとディミトロフ(スターリン独裁前の繋ぎ役の書記長)は、英米仏ソが独伊日に対する反ファシズム統一戦線を組むべきだと建議している。しかし、事態の進展はこの建議が間違っていることを証明している。



やるべきは英米仏ソ連盟ではなく、独伊日ソ連盟だ。独伊日はみな貧農だ。彼らと戦って何の得があるというんだね。これに対し英米仏は富豪だ。とくに英国はどれだけ巨大な植民地を持っていると思うんだね。もし英国を討ち破ることができたら、その植民地の中から莫大な収穫を得ることができる。



私がこのように言えば、君は私を親ファシスト路線の人間だというつもりだろう。そんなことを言われても、私は怖くないんだよ。少なくとも中国は、日本人や汪精衛(兆銘)と統一戦線を組んで、蒋介石に反対しなければならないんであって、決して君が建議するところの抗日民族統一戦線なんてやるべきじゃない。



どっちみち、我々は日本人には勝てやしないんだよ。なのに、なんで日本人と戦ったりするんだい。一番いいのは日本および汪政権と組んで蒋介石を打倒することだ。



わかっているよ、君は私が民族を売り渡す親日路線を執行しようとしていると言いたいんだろ。私は怖くない。私は民族の裏切り者となることなど、少しも怖くないんだよ。わかったか!」





かくして、一九四九年十月一日、中華人民共和国が成立するが、一九五五年十一月九日には片山潜(元首相)らが訪中を要請され、十一月二十八日には毛沢東と直接の会見をすることとなった。



この一行の中には、元陸軍中将でありながら親中派だった遠藤三郎がおり、『日中十五年戦争と私 - 国賊・赤の将軍と人はいう』と題した回顧録によると、毛沢東は「あなたたち日本軍はわれわれの教師だ。我々はあなたたちに感謝しなければならない。あなたたちがこの戦争で中国国民を教育してくれて、撒かれた砂のような中国国民を団結させることができた。だから、われわれはあなたたちに感謝しなければならない」と話している。



また、「日本から中国に視察に来る人たちは、中国に好感を持っている革新的な人たちが多いが、今度は右翼の方々にも来ていただきたい。遠藤さんは軍人だからこの次は軍人を連れてきて欲しい」ともいっている。



一行が三十日に帰国する際には、日本語通訳として活躍した党中央委員・第五期全人代常務委員会副委員長にも選ばれた廖承志が、周恩来首相からの「なるべく早い機会に軍人を連れて、もう一度視察に来て欲しい」との伝言も伝えたという。







これを受け、帰国した遠藤が元軍人に呼びかけたところ応募が殺到、二百人の中から十五人に絞られた一行は一九五六年八月十二日に北京に到着、各地を視察した後の九月四日、中南海の勤政殿で毛沢東との面会が実現する。



中国共産党刊行の『廖承志と日本』によると、廖承志が一行を案内すると毛沢東はすでに待ち構えていて一人一人と握手をし、開口一番「日本の軍閥が我々中国に“進攻”してきたことに感謝します。さもなかったら我々は今まだ北京に到着していませんよ。確かに過去においてあなたたちと私たちは戦いましたが、再び中国に来て中国を見てみようという、すべての旧軍人を我々は歓迎します。あなたたちは我々の教師です」と述べたのである。



(次回に続く…)

AD



リブログする

いいね!した人一覧

ツイート

日本軍と内通していた毛沢東10…毛沢東には存在しなかった南京大虐殺

日本軍と内通していた毛沢東8…毛沢東(中共)の戦略と日本、ソ連、ドイツの関係
同じテーマ 「近代」 の記事
日本軍と内通していた毛沢東(全文)

2019-07-30
日本軍と内通していた毛沢東10…毛沢東には存在しなかった南京大虐殺

2019-07-29
12
日本軍と内通していた毛沢東8…毛沢東(中共)の戦略と日本、ソ連、ドイツの関係

2019-07-27
9
もっと見る
画像つき記事
落・よ、もうええ加減にせんかい!…日本軍と内通していた毛沢東9、「日本に感謝している(毛沢東)」
2019-07-28 00:10:04

テーマ:近代




もっとも、日本軍と通謀し、他方でソ連(コミンテルン)を嫌っていたと思われる毛沢東の戦略が、中共内部のすべての幹部から支持されていたわけではない。就中(なかんずく)、最大のライバル王明との間では激しい権力闘争が行なわれ、最終的には一九五六年、王明は病気療養を理由にモスクワに行き、二度と戻ってこなかった。



その後、毛沢東政権下で生じた中ソ対立でも明らかなように、ソ連が毛沢東を嫌い、王明を庇っていた証拠ともいうべき、王明が一九七四年に逝去する際、妻に口述筆記させた手記がその翌年、ソ連国家政治書籍出版社から『中国共産党五十年と毛沢東の裏切り行為』として出版された。



同書は、中国では、流石に“毛沢東の裏切り行為”とは謳えないためか、『中共五十年』として翻訳出版され、一部の中共幹部だけが閲覧を許されたようである。



その中の毛沢東から王明に対する主張、反論を引用すると以下のとおり。「スターリンとディミトロフ(スターリン独裁前の繋ぎ役の書記長)は、英米仏ソが独伊日に対する反ファシズム統一戦線を組むべきだと建議している。しかし、事態の進展はこの建議が間違っていることを証明している。



やるべきは英米仏ソ連盟ではなく、独伊日ソ連盟だ。独伊日はみな貧農だ。彼らと戦って何の得があるというんだね。これに対し英米仏は富豪だ。とくに英国はどれだけ巨大な植民地を持っていると思うんだね。もし英国を討ち破ることができたら、その植民地の中から莫大な収穫を得ることができる。



私がこのように言えば、君は私を親ファシスト路線の人間だというつもりだろう。そんなことを言われても、私は怖くないんだよ。少なくとも中国は、日本人や汪精衛(兆銘)と統一戦線を組んで、蒋介石に反対しなければならないんであって、決して君が建議するところの抗日民族統一戦線なんてやるべきじゃない。



どっちみち、我々は日本人には勝てやしないんだよ。なのに、なんで日本人と戦ったりするんだい。一番いいのは日本および汪政権と組んで蒋介石を打倒することだ。



わかっているよ、君は私が民族を売り渡す親日路線を執行しようとしていると言いたいんだろ。私は怖くない。私は民族の裏切り者となることなど、少しも怖くないんだよ。わかったか!」





かくして、一九四九年十月一日、中華人民共和国が成立するが、一九五五年十一月九日には片山潜(元首相)らが訪中を要請され、十一月二十八日には毛沢東と直接の会見をすることとなった。



この一行の中には、元陸軍中将でありながら親中派だった遠藤三郎がおり、『日中十五年戦争と私 - 国賊・赤の将軍と人はいう』と題した回顧録によると、毛沢東は「あなたたち日本軍はわれわれの教師だ。我々はあなたたちに感謝しなければならない。あなたたちがこの戦争で中国国民を教育してくれて、撒かれた砂のような中国国民を団結させることができた。だから、われわれはあなたたちに感謝しなければならない」と話している。



また、「日本から中国に視察に来る人たちは、中国に好感を持っている革新的な人たちが多いが、今度は右翼の方々にも来ていただきたい。遠藤さんは軍人だからこの次は軍人を連れてきて欲しい」ともいっている。



一行が三十日に帰国する際には、日本語通訳として活躍した党中央委員・第五期全人代常務委員会副委員長にも選ばれた廖承志が、周恩来首相からの「なるべく早い機会に軍人を連れて、もう一度視察に来て欲しい」との伝言も伝えたという。







これを受け、帰国した遠藤が元軍人に呼びかけたところ応募が殺到、二百人の中から十五人に絞られた一行は一九五六年八月十二日に北京に到着、各地を視察した後の九月四日、中南海の勤政殿で毛沢東との面会が実現する。



中国共産党刊行の『廖承志と日本』によると、廖承志が一行を案内すると毛沢東はすでに待ち構えていて一人一人と握手をし、開口一番「日本の軍閥が我々中国に“進攻”してきたことに感謝します。さもなかったら我々は今まだ北京に到着していませんよ。確かに過去においてあなたたちと私たちは戦いましたが、再び中国に来て中国を見てみようという、すべての旧軍人を我々は歓迎します。あなたたちは我々の教師です」と述べたのである。



(次回に続く…)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本五十六 フィラデルフィア

2021-11-14 17:38:29 | Weblog
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1e/H78628_Isoroku_Yamamoto.jpg
彼は多くの悪徳の人だった
自然なリスクテイカーである山本は、自由な時間にカードサメのようなものでした。彼は偶然のゲーム、特にポーカーを楽しみ、海軍でのキャリアが破綻した場合、モンテカルロで喜んでカジノを開くとよく言いました。4人の既婚の父親であるにもかかわらず、山本は芸者の女の子のためのソフトスポットを持っていました。実際、彼は妻の玲子の迷惑に大いに、特に河合千代子という名前の人と一緒に時間を過ごすことを好んだ。彼は死ぬまで秘密ではない試みを続けた。

https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12242075568.html
https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=263757

山本生存説を裏付けるかのように、戦後、山本は米国フィラデルフィアで生涯を過ごしたと京都皇統から仄聞しています。

生き残った将軍たちのスイスの秘密口座に大金が振り込まれていたことを、終戦後しばらく経ってから知った昭和天皇は茫然自失、「朕は裏切られていたのか!」と慟哭したとも。

https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=263757
https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=263757






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

他国の利益のために 日本国民を情報操作  ああ無情

2021-11-14 17:11:34 | Weblog
http://ici05876.blog.fc2.com/blog-entry-27.html



今も変わらず

国民とは

公共が出す情報とは

http://ici05876.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
http://ici05876.blog.fc2.com/blog-entry-26.html

引用させていただきました
http://ici05876.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
http://ici05876.blog.fc2.com/blog-entry-26.html
引用させていただきました


真の戦犯1…瀬島龍三
2016/06/25 00:30
①既に別稿で示したように、先の大戦で日本を敗戦に導いた敵方の内通者の多くは、山本五十六、米内光政、井上成美らの英米派が多くを占めた海軍が中心でした。では陸軍には全くいなかったかというとそうではありません

②終戦後、戦犯指定から逃れるため蒋介石の下に隠れ、昭和23年5月に中国人として帰国してきた元大本営陸軍部作戦課戦力班長の辻政信は、2005年に公開されたCIA文書によると、蒋介石のエージェントであったことが明らかにされています。

③ここでは辻に関しての詳細はとても述べられませんが、片倉衷少将の証言によると、亜細亜諸国の反日感情を煽り、日本軍や日本人全体への誤解の元となる様な命令を出し実行していたようです。辻は戦後、参議院議員1期、衆議院議員4期を勤めた後ラオスに赴き、忽然と姿を消しました。

④さて、陸軍で辻政信以上に問題なのが元大本営作戦課作戦班長補佐で、後に連合艦隊参謀も兼任していた瀬島龍三です。瀬島は終戦直前の昭和20年7月に突然、満州へ転任、関東軍参謀となった結果、シベリアに11年抑留されました。

⑤帰国後の瀬島は伊藤忠商事に入り、最終的には会長に登りつめます。伊藤忠商事といえば近年、同じく会長だった丹羽宇一郎が中国大使につき、中国寄りの発言を繰り返す等の売国奴で悪名をはせました。そのためか、中国経済崩壊の中でも莫大な利益を上げたことは衆目の知るところです。 

⑥瀬島は、その伊藤忠商事会長の他に中曽根康弘のブレーンもつとめ、原発の導入、普及等にも関わった他、ロッキード事件でも価格つり上げの片棒を担いだとされています。が、なぜか田中角栄以上の賄賂を受け取った中曽根共々、その罪を問われることはありませんでした。

⑦また、昭和62年に発覚した「東芝機械ココム違反事件」にも関わっており、スクリュー加工用の高性能機械や数値制御装置等を不正に輸出し、ソ連の原子力潜水艦のスクリュー音を激減させ、米軍を脅威にさらしたと、元内閣調査室長の佐々淳行氏が証言しています。

⑧さらに、警察庁時代の佐々氏の上司だった後藤田正晴(田中内閣の官房長官で反日売国奴)も、「瀬島がソ連のエエージェントであることは、知らない方がおかしいんで、みんな知ってるよ」と語っています。

⑨このように、ソ連との関係が取りざたされた瀬島龍三の、大東亜戦争における最大の裏切りには二つのことがあります。一つは、昭和19年10月に行なわれたフィリピン・レイテ決戦での作戦立案における情報隠蔽でした。

⑩当時の日米両軍の戦力を比較すると、米軍が戦艦が12隻に対し日本が9隻、重巡洋艦が12隻対15隻、航空戦力は米軍が空母17隻と艦載機約1500機に対し、日本はマリアナ沖海戦で主力空母を失ったため空母4隻で艦載機は200機程度でした。

⑪が、日本側は、フィリピン、台湾、南九州に約1000機の基地航空隊を保持しており、大本営もこれらを有効に活用すれば逆転も夢ではないと考えていました。そのため米軍は、これら航空基地に全機動部隊をあげて激しい空爆をかけ日本側も総力を挙げ反撃に出ます。これが"幻の台湾沖航空戦"です。

⑫が、"幻"といわれる所以は、実際の米軍の損害は重巡2隻が大破しただけにもかかわらず、撃沈した空母19隻、戦艦4隻、その他22隻と発表されたからです。一方の日本側は大半の航空機を失い、基地戦力が大幅に低下してしまいました。

⑬この結果、大幅な戦力の減少を強いられた日本軍は、苦肉の策として「神風攻撃」を考案、実行します。ちなみに「神風攻撃」というと、大西瀧治郎海軍中将の発案といわれていますがこれは誤解です。実際は山本五十六の側近で、真珠湾攻撃やミッドウエイ作戦を立案した黒島亀人が立案、推進しました。

⑭情に厚い大西中将は当初、部下を捨て石にするような「神風攻撃」には強く異を唱えました。一方、連合艦隊主任参謀だった黒島は、この他にも"特攻魚雷"回天や、"特攻ボート"震洋、"特攻ロケット"桜花なども立案しており、山本、米内とならんで"海軍の愚将"といわれています。

⑮一方、台湾沖航空戦の戦果に疑問を感じた大本営陸軍部の情報参謀だった堀栄三少佐(戦後は自衛隊陸将補)は、現地入りしてパイロット一人一人に聞き取り調査を実施。その結果、海軍の戦果報告が"妄想"といって良い程に過大であることを突き止め、大本営作戦課に報告。

⑯が、報告を受けた瀬島はこの情報を握り潰して黙殺。フィリピンでの決戦は、米軍が苦手とする山岳戦を中心にしたルソン島で行なうべしとする山下奉文大将の主張を遮り、「すでに台湾沖航空戦で米軍機動部隊は壊滅した」として平原の多いレイテ島に決定されました。

⑰加えて、戦艦大和などで編成された海軍・栗田艦隊も、小沢艦隊の囮作戦が奏功してハルゼー機動部隊の引きつけに成功したにも拘らず、レイテ湾突入を目前に反転、逃走してしまいました。その結果、日本軍は米軍の凄まじい空爆と艦砲にさらされ8万4千人の犠牲を出して壊滅したのです。

⑱もう一つの瀬島が犯した裏切りは、1945年2月のヤルタ会談で密約された「ソ連の対日参戦情報」を巡るものです。この情報をつかんだのは、日本で最高のスパイといわれたストックホルム駐在武官の小野寺信陸軍少将でした。

⑲この情報を下に、満州での対ソ戦の準備をし、また居留民の避難などの対策を打っていれば、20万人以上といわれる日本人犠牲者を出さずに済んだのです。が、大本営でこの情報を受けた瀬島はまたもや握りつぶし、黙殺します。

⑳ちなみに、瀬島は元首相で終戦工作をしていた岡田啓介海軍大将の親戚でもありました。が、岡田と並んで反東條派の米内光政などはこの時期、「重巡洋艦利根と駆逐艦25隻の代わりに石油と航空機をソ連から譲り受け、終戦工作も依頼する」などの間抜けた提案をしていました。

㉑また、瀬島は終戦直前の7月に急遽、関東軍参謀として満州に転属、ソ連との停戦交渉に当たります。が、「全国抑留者補償協議会会長」の斉藤六郎氏によると、瀬島は停戦の条件として、あの6万人もの犠牲者を出した日本軍捕虜等約60万人のシベリアでの強制労働を許したとしています。

㉒さらに、瀬島のシベリア抑留11年間のうちの3年間は所在不明とされています。が、松本清張が明らかにした駐日ソ連大使ラストボロフの亡命事件に際して表に出た文書や証言によると、瀬島は、ドイツと日本の軍人をソ連のスパイとして養成する「第7006捕虜収容所」にいたとしています。



真の戦犯2…「原爆投下は天佑」米内光政

①米内光政(海軍大臣・大将)も、戦後、対米戦争に反対した平和主義者(英米派)としてもてはやされました。が、日米開戦前の日中戦争では、上海事変で海軍陸戦隊を送り込んで、戦線の"泥沼化"のきっかけを作ります。

②また、陸軍は中国の首都南京を占領した後、蒋介石側と交渉を進め和平案に合意していましたが、米内はこれに猛反発し廃案にしてしまったのです。

③もしこの時、日中の和平が実現していれば、大きな財政負担になっていた支那派遣軍の撤兵が実現したばかりか、米国も対日戦の大義を失い、日米戦争も回避された可能性があります。米内は日中戦争を拡大し、ひいては対米戦争を引き起こした張本人の一人であるといえます。

④開戦後の米内は、引き続き海軍大臣として山本らの不可解な作戦に異を唱えることなく支援します。山本の側近・黒島亀人が言い出した「神風攻撃」などの無謀な作戦にも賛成します。その一方で、近衛文麿、幣原喜重郎、吉田茂ら"反陸軍派(英米派)"の「東条内閣倒閣運動」にも関わります。

⑤ちなみに、反軍(陸軍)派の吉田茂らが、英米に重要国家機密を漏らしたとされる「ヨハンセン事件」とならび、日本の敗北に決定的な影響を及ぼしたスパイ事件に「ゾルゲ事件」があります。

⑥朝日新聞の記者だった尾崎秀実は、近衛文麿の顧問として西園寺公望(フリーメイソン?元老)の孫の西園寺公一を通じて知り得た「日本軍(関東軍)はシベリア方面に北進する意思がない」との重要情報をソ連のスパイ・ゾルゲに漏らしました。

⑦この結果、ドイツ軍の侵攻で大混乱していたスターリンは、ソ満国境に張り付けていた大軍を対独戦に投入し独ソ戦、ひいては大戦の勝利を確実のものにします。なお尾崎は死刑になりますが、西園寺は執行猶予、近衛は不問、ゾルゲはなぜか秘密裏にソ連に帰されるという不可解な処分が行なわれました。

⑧不問にされた近衛らとともに米内は引き続き東条内閣倒閣に動きます。英米派といわれた米内や山本、井上(成美)らの海軍軍人(条約派)と近衛、吉田、幣原らの政治家、外務大臣、官僚らの背後には、フランス留学でマルクス主義学者から学んだ元老の西園寺公望がいました。

⑨そのためか、米内らが進めた終戦工作は、打倒陸軍による「日本の民主化」という名の"國體破壊工作"でした。これを裏付けるかのように、終戦後、阿南惟幾大将(終戦時の陸軍大臣)の側近で義弟の竹下正彦陸軍中佐の「機密作戦日誌」によると、

⑩阿南陸相の話として、「昭和天皇は、『日本民族を絶滅させないためにも、もはや終戦せねばならぬが、国体護持が必ずしも絶対条件ではない』と天皇制の廃絶まで覚悟されたご様子だった。が、この発言は、動揺していた昭和天皇に米内が入れ知恵し感化したとしか思えない」と記されています。

⑪米内らが、日本國體の破壊を目していたと思われるもう一つの証は、昭和20年の最高戦争指導会議の席において、1932年テーゼで「日本共産党の任務は天皇制の打倒」とした国際コミンテルンの総本山・ソ連に、「天皇制の廃絶」も覚悟の上、和平工作を依頼すべきとの提案をしていたことです。

⑫ちなみに、この提案には近衛の側近でコミュニストの酒井鍋次が起案した「小笠原と沖縄、さらに日本人捕虜による労働力の提供」まで加えられます。が、既に、2月のヤルタ会談で「ソ連の対日参戦」が密約されたとの情報が、ストックホルム駐在武官の小野寺信陸軍少将からもたらされていました。

⑬さらに、ソ連の対日参戦と広島、長崎への原爆投下の理由となったとされる、鈴木貫太郎首相の7月28日の記者会見での「ポツダム宣言受諾要求黙殺」発言があります。

⑭この発言の直後、側近の高田惣吉少将が米内に、「なぜ総理にあんなことを言わせたのですか」と質したとき、米内は「声明は先に出した方に弱みがある。チャーチルは没落するし、米国は孤立に陥りつつある。政府は黙殺でいく。焦る必要はない」と答えています。

⑮その結果が、ソ連参戦と原爆投下という悪夢になった訳ですが、これを知った8月12日の米内の極めつけは、「ソ連参戦と原爆投下は"天佑"だ」発言でした。近衛も娘婿の細川護貞に、「陸軍を抑えるには天佑かもしれない」と発言しています。

⑯これらの発言を耳にし、米内の"正体"を悟った阿南陸相は、側近の竹下中佐に「米内を斬れ」と言って14日に自決します。その後、コミンテルンに利用されていたことを悟った近衛と、他の最高戦争指導会議のメンバーだった杉山参謀総長も自決、広田弘毅は戦犯処刑されましたが米内は不問のままでした。

なお、広島への原爆投下に関して、「大本営の一部は事前に知っていたのではないか?」という説があります。支那南部にあった第五航空情報連隊本部に情報将校として勤務していた黒木勇治氏(岡山市在住)によると、連隊では常時ロンドンのBBCを中継したニューデリー放送を傍受しており、

昭和20年8月3日午前八時の放送は、「米軍は来る8月6日、原子爆弾第1号を広島に投下することを決定した模様です」という内容で、8月4日午前9時にも同様の放送があったと証言しています(「原爆投下は予告されていた!」黒木勇治)」。

また、本土決戦のため西日本に展開する部隊の司令部だった広島の第二総軍司令部にいた井本熊男高級参謀(「昭和史の天皇」読売新聞社)によると、8月6日の原爆投下直後の司令部の様子として、「ドアから廊下へはじき飛ばされた橋本参謀と大屋参謀は、建物の外に出て防空壕に避難しようとしたが、

参謀室にまだ人がいたことに気づいて引き返し、二人で歩きながら直撃弾をうけたにしては爆痕がないがこれはいったい何だろうと私(橋本参謀)が言ったら大屋君が、『そういえば妙な新兵器の海外放送を聞いたがそれかもしれん』と語った」と。

当時、畑俊六元帥(無傷で生存)の諜報主任将校だった大屋角造中佐は、広島城に近い旧浅野侯の別邸に二世の女性を二十人ほど集めて、マリアナ方面から発せられる米軍の無線を傍受し、情報を大本営参謀本部第二部長の有末精三中将に伝え、有末中将は同部に所属する皇弟・三笠官崇仁中佐に伝えていたということです。

そんな中、「当時、私たち(井本参謀ら)が気にしていたのは、本土決戦方針の陰で政府や軍の一部が終戦工作をやっているらしいということだった」と証言。実際、有末は「第二総軍の使命は原爆投下で終わり、これから日本は和平交渉に入る」と、まだ陸軍全体が本土決戦に向かって準備中に語っています(「終戦秘史 有末機関長の手記」)。

ところで、広島が第一の原爆投下候補地になったのは、以上のように本土決戦の際、西日本に展開する部隊の中枢となる第二総軍司令部が置かれていたからです。が、二番目の候補地として当初は小倉が予定されていたが、九日の気象条件が悪化したため長崎に変更になったというのが巷間伝えられている話です。

が、「大東亜戦争の目的」の章でも見たように、ローマカトリックが反共戦争をしていたドイツと日本を支援していたことから、その報復に日本におけるカトリックの聖地である長崎が狙われたという説、真珠湾攻撃の際使われた酸素魚雷など、日本軍が使用した魚雷の八十%を生産していた三菱製鋼の工場があったからという説があります。

ただ、爆心地の三菱製鋼の工場の真ん中には"人間の盾"としての捕虜収容所があり、当時、千人の連合軍捕虜が収容されていたが、なぜか事前に大半は退避していて犠牲者は八人に限られ、それもイギリス人、オーストラリア人などで、多数を占めていたアメリカ人がいなかったということです。

ちなみに、以前、テレビの終戦特集番組で、昭和20年8月6日、大本営は原爆を搭載したB29の無線傍受に成功したが、なぜか黙殺したと放映しました。番組では高性能戦闘機"紫電改"の元パイロットが、「その連絡を受けていたら撃墜できたし、体当たりしてでも阻止した」と涙ながらに証言していました。

参照;「米内光政と山本五十六は愚将だった(三村 文男)」


GHQ(占領米軍)による自虐史観の刷り込み

GHQ(占領米軍)による自虐史観の刷り込み
2016/06/24 02:48
①戦後の我が国の歴史学会は極端なまでの"自虐史観"に走り、日本人の歴史観を極度に歪んだものにしてきました。この背景について、落合莞爾氏の見解(「天皇と黄金ファンド」)を引用し説明します。

1、欠史八代不在説がまかり通った史学会の背景

②戦後日本の史学会が、記紀に記述がない第二代綏靖から第九代開化までの「欠史八代」は存在していないとか、神武天皇は実在していないとか、日本人や天皇家のルーツは朝鮮半島にあり、朝鮮半島から文化を学んだなどという説がまかり通った背景には、

③ 1)占領米軍が、原爆投下や東京裁判の開廷など、自らの戦争犯罪を正当化するため「日本性悪史観」を日本政府に認めさせた事

2)敗戦日本の保守政体が、占領米軍に迎合するために、「戦前否定史観」による歴史教育を推進した事

④ 3)国際共産主義の指導と政治的支援を受けた革新派学者が浸透を図った「マルクス史観」が「戦前否定史観」と合流した事

4)学校教育の現場を支配下に置いた日教組が、間接的に占領米軍の指示を受けて、過去の日本を先験的に悪とする「自虐史観」を学童、生徒に刷り込んだ事、などがあります

⑤特に4)は世間に全く知られていませんが、大戦の終盤で日本と連合国を天秤にかけたソ連の外交術策にまんまと嵌った米国が、ソ連との秘密協定により、北海道と東北の占領を望むソ連を諦めさせる代わりに、思想、報道、教育などの文化面に置ける日本社会の共産主義化を許した事から発したものです。

⑥アメリカ軍の占領とそれに続く保守政体の下で、日本社会党と支持母体の日教組、官公労などの労働者団体、および朝日新聞、NHK、岩波書店など言論機関は、世界的基準に照らせばそれ自体立派な共産主義勢力なのに、なぜか漠然と革新勢力とみなされて公然と活動を許されたばかりか、

⑦間接的な公的支援さえ受けてきたのは、今思うとまことに不可解な現象ですが、その原因は、実にここにあるのです。だからこそ、「政治、経済は親米保守」なのに「文化、教育は隠れ共産主義」という奇怪な二本立ての社会構造、ずなわち「日本の戦後体制」が我が国にできたのです。

⑧更に言えば、この体制が日本国民によって是正されぬまま平成時代に至った原因は、以下の三点です。

1)米国が日本を思想的に弱化させるため、日本社会に敗戦思想を強要したこと。具体的には「「政治、経済は親米保守」なのに「文化、教育は親共産主義」という二本立て構造を押し付けた事

⑨ 2)米国が日本を収奪する貿易利権構造を造り、永久化した事。具体的には、輸出代金の一部を米国債で強制的に受け取らされ、自由に処分できない事

3)米ソ二極構造を前提として、占領憲法で日本を非武装化した事。具体的には、日本を軍事的対米従属に追い込んだ事

2、吉田清治、家長三郎、朝日新聞の罪

⑩以上の背景の下、戦後史学会は皇国史観からマルクス史観に転向しました。例えば教科書編纂に携わった家長三郎は、日本共産党の末端分子・吉田清治が、営内接客婦(従軍慰安婦)の済州島での強制連行を虚証した著書「私の戦争犯罪…朝鮮人強制連行」の記事を

⑪自著「戦争責任(岩波書店)」に転載し、「太平洋戦争(岩波書店)」でも引用しています。虚証が明らかになった後、幾つかのメディアによる熱心な調査でも、ついに正体が不明に終わったとされる吉田清治が、実は日本共産党に関係していたことが判明しています。

⑫一般人でも荒唐無稽に感じる吉田著書の内容を、無批判に受け入れて自著に転載した家長は、もはやとうてい史家といえる立場にはなく、マルクス史観を喧伝するだけのアジテイターだったのです。

⑬今日、吉田証言と悪意に基づきこれを世界に発信した朝日新聞の卑劣な行動が批判の矢面に立たされていますが、家長の場合には公金を食らいながら売国活動 を行ってきただけに、朝日新聞と同罪どころかもっと始末が悪いのに、家長を批判していたのが秦郁彦だけとは誠に情けない体たらくの史学会です

3、占領米軍による「竹内文書」などの神社古文書の強奪

⑭一方、占領米軍、そしてその奥の院の一部勢力は、世界史の秘密に関わる重要な情報が、日本各地の神社に「古文書」として残されている事を知っていて、世界史の秘密を独占するために行なったのが「竹内文書」などの神社古文書の強奪でした

⑮占領米軍が、刀剣など隠匿武器の摘発を名目に全国の神社に立ち入り、おびただしい古文書を押収して米国に持ち帰ったのは、やがて敗戦ショックから覚めたときに始まる日本人の歴史研究を妨害する目的のもとに行なわれたとみるしかありません。

⑯これは連合国指導層に潜んでいた「真の世界史」を知る者が、「真の世界史」が日本から世界に発信される事態を畏れたためと聞きます。「真の世界史」とは「旧約聖書」の真偽、つまり、「世界で一番古い国は日本」であることだったのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする