https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12498510522.html
引用させていただきました
日本軍と内通していた毛沢東9、「日本に感謝している(毛沢東)」
2019-07-28 00:10:04
テーマ:近代
もっとも、日本軍と通謀し、他方でソ連(コミンテルン)を嫌っていたと思われる毛沢東の戦略が、中共内部のすべての幹部から支持されていたわけではない。就中(なかんずく)、最大のライバル王明との間では激しい権力闘争が行なわれ、最終的には一九五六年、王明は病気療養を理由にモスクワに行き、二度と戻ってこなかった。
その後、毛沢東政権下で生じた中ソ対立でも明らかなように、ソ連が毛沢東を嫌い、王明を庇っていた証拠ともいうべき、王明が一九七四年に逝去する際、妻に口述筆記させた手記がその翌年、ソ連国家政治書籍出版社から『中国共産党五十年と毛沢東の裏切り行為』として出版された。
同書は、中国では、流石に“毛沢東の裏切り行為”とは謳えないためか、『中共五十年』として翻訳出版され、一部の中共幹部だけが閲覧を許されたようである。
その中の毛沢東から王明に対する主張、反論を引用すると以下のとおり。「スターリンとディミトロフ(スターリン独裁前の繋ぎ役の書記長)は、英米仏ソが独伊日に対する反ファシズム統一戦線を組むべきだと建議している。しかし、事態の進展はこの建議が間違っていることを証明している。
やるべきは英米仏ソ連盟ではなく、独伊日ソ連盟だ。独伊日はみな貧農だ。彼らと戦って何の得があるというんだね。これに対し英米仏は富豪だ。とくに英国はどれだけ巨大な植民地を持っていると思うんだね。もし英国を討ち破ることができたら、その植民地の中から莫大な収穫を得ることができる。
私がこのように言えば、君は私を親ファシスト路線の人間だというつもりだろう。そんなことを言われても、私は怖くないんだよ。少なくとも中国は、日本人や汪精衛(兆銘)と統一戦線を組んで、蒋介石に反対しなければならないんであって、決して君が建議するところの抗日民族統一戦線なんてやるべきじゃない。
どっちみち、我々は日本人には勝てやしないんだよ。なのに、なんで日本人と戦ったりするんだい。一番いいのは日本および汪政権と組んで蒋介石を打倒することだ。
わかっているよ、君は私が民族を売り渡す親日路線を執行しようとしていると言いたいんだろ。私は怖くない。私は民族の裏切り者となることなど、少しも怖くないんだよ。わかったか!」
かくして、一九四九年十月一日、中華人民共和国が成立するが、一九五五年十一月九日には片山潜(元首相)らが訪中を要請され、十一月二十八日には毛沢東と直接の会見をすることとなった。
この一行の中には、元陸軍中将でありながら親中派だった遠藤三郎がおり、『日中十五年戦争と私 - 国賊・赤の将軍と人はいう』と題した回顧録によると、毛沢東は「あなたたち日本軍はわれわれの教師だ。我々はあなたたちに感謝しなければならない。あなたたちがこの戦争で中国国民を教育してくれて、撒かれた砂のような中国国民を団結させることができた。だから、われわれはあなたたちに感謝しなければならない」と話している。
また、「日本から中国に視察に来る人たちは、中国に好感を持っている革新的な人たちが多いが、今度は右翼の方々にも来ていただきたい。遠藤さんは軍人だからこの次は軍人を連れてきて欲しい」ともいっている。
一行が三十日に帰国する際には、日本語通訳として活躍した党中央委員・第五期全人代常務委員会副委員長にも選ばれた廖承志が、周恩来首相からの「なるべく早い機会に軍人を連れて、もう一度視察に来て欲しい」との伝言も伝えたという。
これを受け、帰国した遠藤が元軍人に呼びかけたところ応募が殺到、二百人の中から十五人に絞られた一行は一九五六年八月十二日に北京に到着、各地を視察した後の九月四日、中南海の勤政殿で毛沢東との面会が実現する。
中国共産党刊行の『廖承志と日本』によると、廖承志が一行を案内すると毛沢東はすでに待ち構えていて一人一人と握手をし、開口一番「日本の軍閥が我々中国に“進攻”してきたことに感謝します。さもなかったら我々は今まだ北京に到着していませんよ。確かに過去においてあなたたちと私たちは戦いましたが、再び中国に来て中国を見てみようという、すべての旧軍人を我々は歓迎します。あなたたちは我々の教師です」と述べたのである。
(次回に続く…)
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もっとも、日本軍と通謀し、他方でソ連(コミンテルン)を嫌っていたと思われる毛沢東の戦略が、中共内部のすべての幹部から支持されていたわけではない。就中(なかんずく)、最大のライバル王明との間では激しい権力闘争が行なわれ、最終的には一九五六年、王明は病気療養を理由にモスクワに行き、二度と戻ってこなかった。
その後、毛沢東政権下で生じた中ソ対立でも明らかなように、ソ連が毛沢東を嫌い、王明を庇っていた証拠ともいうべき、王明が一九七四年に逝去する際、妻に口述筆記させた手記がその翌年、ソ連国家政治書籍出版社から『中国共産党五十年と毛沢東の裏切り行為』として出版された。
同書は、中国では、流石に“毛沢東の裏切り行為”とは謳えないためか、『中共五十年』として翻訳出版され、一部の中共幹部だけが閲覧を許されたようである。
その中の毛沢東から王明に対する主張、反論を引用すると以下のとおり。「スターリンとディミトロフ(スターリン独裁前の繋ぎ役の書記長)は、英米仏ソが独伊日に対する反ファシズム統一戦線を組むべきだと建議している。しかし、事態の進展はこの建議が間違っていることを証明している。
やるべきは英米仏ソ連盟ではなく、独伊日ソ連盟だ。独伊日はみな貧農だ。彼らと戦って何の得があるというんだね。これに対し英米仏は富豪だ。とくに英国はどれだけ巨大な植民地を持っていると思うんだね。もし英国を討ち破ることができたら、その植民地の中から莫大な収穫を得ることができる。
私がこのように言えば、君は私を親ファシスト路線の人間だというつもりだろう。そんなことを言われても、私は怖くないんだよ。少なくとも中国は、日本人や汪精衛(兆銘)と統一戦線を組んで、蒋介石に反対しなければならないんであって、決して君が建議するところの抗日民族統一戦線なんてやるべきじゃない。
どっちみち、我々は日本人には勝てやしないんだよ。なのに、なんで日本人と戦ったりするんだい。一番いいのは日本および汪政権と組んで蒋介石を打倒することだ。
わかっているよ、君は私が民族を売り渡す親日路線を執行しようとしていると言いたいんだろ。私は怖くない。私は民族の裏切り者となることなど、少しも怖くないんだよ。わかったか!」
かくして、一九四九年十月一日、中華人民共和国が成立するが、一九五五年十一月九日には片山潜(元首相)らが訪中を要請され、十一月二十八日には毛沢東と直接の会見をすることとなった。
この一行の中には、元陸軍中将でありながら親中派だった遠藤三郎がおり、『日中十五年戦争と私 - 国賊・赤の将軍と人はいう』と題した回顧録によると、毛沢東は「あなたたち日本軍はわれわれの教師だ。我々はあなたたちに感謝しなければならない。あなたたちがこの戦争で中国国民を教育してくれて、撒かれた砂のような中国国民を団結させることができた。だから、われわれはあなたたちに感謝しなければならない」と話している。
また、「日本から中国に視察に来る人たちは、中国に好感を持っている革新的な人たちが多いが、今度は右翼の方々にも来ていただきたい。遠藤さんは軍人だからこの次は軍人を連れてきて欲しい」ともいっている。
一行が三十日に帰国する際には、日本語通訳として活躍した党中央委員・第五期全人代常務委員会副委員長にも選ばれた廖承志が、周恩来首相からの「なるべく早い機会に軍人を連れて、もう一度視察に来て欲しい」との伝言も伝えたという。
これを受け、帰国した遠藤が元軍人に呼びかけたところ応募が殺到、二百人の中から十五人に絞られた一行は一九五六年八月十二日に北京に到着、各地を視察した後の九月四日、中南海の勤政殿で毛沢東との面会が実現する。
中国共産党刊行の『廖承志と日本』によると、廖承志が一行を案内すると毛沢東はすでに待ち構えていて一人一人と握手をし、開口一番「日本の軍閥が我々中国に“進攻”してきたことに感謝します。さもなかったら我々は今まだ北京に到着していませんよ。確かに過去においてあなたたちと私たちは戦いましたが、再び中国に来て中国を見てみようという、すべての旧軍人を我々は歓迎します。あなたたちは我々の教師です」と述べたのである。
(次回に続く…)
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日本軍と内通していた毛沢東9、「日本に感謝している(毛沢東)」
2019-07-28 00:10:04
テーマ:近代
もっとも、日本軍と通謀し、他方でソ連(コミンテルン)を嫌っていたと思われる毛沢東の戦略が、中共内部のすべての幹部から支持されていたわけではない。就中(なかんずく)、最大のライバル王明との間では激しい権力闘争が行なわれ、最終的には一九五六年、王明は病気療養を理由にモスクワに行き、二度と戻ってこなかった。
その後、毛沢東政権下で生じた中ソ対立でも明らかなように、ソ連が毛沢東を嫌い、王明を庇っていた証拠ともいうべき、王明が一九七四年に逝去する際、妻に口述筆記させた手記がその翌年、ソ連国家政治書籍出版社から『中国共産党五十年と毛沢東の裏切り行為』として出版された。
同書は、中国では、流石に“毛沢東の裏切り行為”とは謳えないためか、『中共五十年』として翻訳出版され、一部の中共幹部だけが閲覧を許されたようである。
その中の毛沢東から王明に対する主張、反論を引用すると以下のとおり。「スターリンとディミトロフ(スターリン独裁前の繋ぎ役の書記長)は、英米仏ソが独伊日に対する反ファシズム統一戦線を組むべきだと建議している。しかし、事態の進展はこの建議が間違っていることを証明している。
やるべきは英米仏ソ連盟ではなく、独伊日ソ連盟だ。独伊日はみな貧農だ。彼らと戦って何の得があるというんだね。これに対し英米仏は富豪だ。とくに英国はどれだけ巨大な植民地を持っていると思うんだね。もし英国を討ち破ることができたら、その植民地の中から莫大な収穫を得ることができる。
私がこのように言えば、君は私を親ファシスト路線の人間だというつもりだろう。そんなことを言われても、私は怖くないんだよ。少なくとも中国は、日本人や汪精衛(兆銘)と統一戦線を組んで、蒋介石に反対しなければならないんであって、決して君が建議するところの抗日民族統一戦線なんてやるべきじゃない。
どっちみち、我々は日本人には勝てやしないんだよ。なのに、なんで日本人と戦ったりするんだい。一番いいのは日本および汪政権と組んで蒋介石を打倒することだ。
わかっているよ、君は私が民族を売り渡す親日路線を執行しようとしていると言いたいんだろ。私は怖くない。私は民族の裏切り者となることなど、少しも怖くないんだよ。わかったか!」
かくして、一九四九年十月一日、中華人民共和国が成立するが、一九五五年十一月九日には片山潜(元首相)らが訪中を要請され、十一月二十八日には毛沢東と直接の会見をすることとなった。
この一行の中には、元陸軍中将でありながら親中派だった遠藤三郎がおり、『日中十五年戦争と私 - 国賊・赤の将軍と人はいう』と題した回顧録によると、毛沢東は「あなたたち日本軍はわれわれの教師だ。我々はあなたたちに感謝しなければならない。あなたたちがこの戦争で中国国民を教育してくれて、撒かれた砂のような中国国民を団結させることができた。だから、われわれはあなたたちに感謝しなければならない」と話している。
また、「日本から中国に視察に来る人たちは、中国に好感を持っている革新的な人たちが多いが、今度は右翼の方々にも来ていただきたい。遠藤さんは軍人だからこの次は軍人を連れてきて欲しい」ともいっている。
一行が三十日に帰国する際には、日本語通訳として活躍した党中央委員・第五期全人代常務委員会副委員長にも選ばれた廖承志が、周恩来首相からの「なるべく早い機会に軍人を連れて、もう一度視察に来て欲しい」との伝言も伝えたという。
これを受け、帰国した遠藤が元軍人に呼びかけたところ応募が殺到、二百人の中から十五人に絞られた一行は一九五六年八月十二日に北京に到着、各地を視察した後の九月四日、中南海の勤政殿で毛沢東との面会が実現する。
中国共産党刊行の『廖承志と日本』によると、廖承志が一行を案内すると毛沢東はすでに待ち構えていて一人一人と握手をし、開口一番「日本の軍閥が我々中国に“進攻”してきたことに感謝します。さもなかったら我々は今まだ北京に到着していませんよ。確かに過去においてあなたたちと私たちは戦いましたが、再び中国に来て中国を見てみようという、すべての旧軍人を我々は歓迎します。あなたたちは我々の教師です」と述べたのである。
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落・よ、もうええ加減にせんかい!…日本軍と内通していた毛沢東9、「日本に感謝している(毛沢東)」
2019-07-28 00:10:04
テーマ:近代
もっとも、日本軍と通謀し、他方でソ連(コミンテルン)を嫌っていたと思われる毛沢東の戦略が、中共内部のすべての幹部から支持されていたわけではない。就中(なかんずく)、最大のライバル王明との間では激しい権力闘争が行なわれ、最終的には一九五六年、王明は病気療養を理由にモスクワに行き、二度と戻ってこなかった。
その後、毛沢東政権下で生じた中ソ対立でも明らかなように、ソ連が毛沢東を嫌い、王明を庇っていた証拠ともいうべき、王明が一九七四年に逝去する際、妻に口述筆記させた手記がその翌年、ソ連国家政治書籍出版社から『中国共産党五十年と毛沢東の裏切り行為』として出版された。
同書は、中国では、流石に“毛沢東の裏切り行為”とは謳えないためか、『中共五十年』として翻訳出版され、一部の中共幹部だけが閲覧を許されたようである。
その中の毛沢東から王明に対する主張、反論を引用すると以下のとおり。「スターリンとディミトロフ(スターリン独裁前の繋ぎ役の書記長)は、英米仏ソが独伊日に対する反ファシズム統一戦線を組むべきだと建議している。しかし、事態の進展はこの建議が間違っていることを証明している。
やるべきは英米仏ソ連盟ではなく、独伊日ソ連盟だ。独伊日はみな貧農だ。彼らと戦って何の得があるというんだね。これに対し英米仏は富豪だ。とくに英国はどれだけ巨大な植民地を持っていると思うんだね。もし英国を討ち破ることができたら、その植民地の中から莫大な収穫を得ることができる。
私がこのように言えば、君は私を親ファシスト路線の人間だというつもりだろう。そんなことを言われても、私は怖くないんだよ。少なくとも中国は、日本人や汪精衛(兆銘)と統一戦線を組んで、蒋介石に反対しなければならないんであって、決して君が建議するところの抗日民族統一戦線なんてやるべきじゃない。
どっちみち、我々は日本人には勝てやしないんだよ。なのに、なんで日本人と戦ったりするんだい。一番いいのは日本および汪政権と組んで蒋介石を打倒することだ。
わかっているよ、君は私が民族を売り渡す親日路線を執行しようとしていると言いたいんだろ。私は怖くない。私は民族の裏切り者となることなど、少しも怖くないんだよ。わかったか!」
かくして、一九四九年十月一日、中華人民共和国が成立するが、一九五五年十一月九日には片山潜(元首相)らが訪中を要請され、十一月二十八日には毛沢東と直接の会見をすることとなった。
この一行の中には、元陸軍中将でありながら親中派だった遠藤三郎がおり、『日中十五年戦争と私 - 国賊・赤の将軍と人はいう』と題した回顧録によると、毛沢東は「あなたたち日本軍はわれわれの教師だ。我々はあなたたちに感謝しなければならない。あなたたちがこの戦争で中国国民を教育してくれて、撒かれた砂のような中国国民を団結させることができた。だから、われわれはあなたたちに感謝しなければならない」と話している。
また、「日本から中国に視察に来る人たちは、中国に好感を持っている革新的な人たちが多いが、今度は右翼の方々にも来ていただきたい。遠藤さんは軍人だからこの次は軍人を連れてきて欲しい」ともいっている。
一行が三十日に帰国する際には、日本語通訳として活躍した党中央委員・第五期全人代常務委員会副委員長にも選ばれた廖承志が、周恩来首相からの「なるべく早い機会に軍人を連れて、もう一度視察に来て欲しい」との伝言も伝えたという。
これを受け、帰国した遠藤が元軍人に呼びかけたところ応募が殺到、二百人の中から十五人に絞られた一行は一九五六年八月十二日に北京に到着、各地を視察した後の九月四日、中南海の勤政殿で毛沢東との面会が実現する。
中国共産党刊行の『廖承志と日本』によると、廖承志が一行を案内すると毛沢東はすでに待ち構えていて一人一人と握手をし、開口一番「日本の軍閥が我々中国に“進攻”してきたことに感謝します。さもなかったら我々は今まだ北京に到着していませんよ。確かに過去においてあなたたちと私たちは戦いましたが、再び中国に来て中国を見てみようという、すべての旧軍人を我々は歓迎します。あなたたちは我々の教師です」と述べたのである。
(次回に続く…)