2012.7.4
放射能物質は、放射線を出し続けリサイクルにも乗れず、行き場がない。結局人間の生活を脅かす。
だからこの原発の目的が何か。
核の抑止力という目的にして人類全体の生活、LIFEに危機をもたらす方向にあるのは間違いない。
アメリカも本音は同じだと思う。
ただし、この面の計算が、力の前に甘くなって誤差を生んでいる。
だから、アメリカが誤ちを認めるときはすでに遅い。まだ猶予があると思っているが、この問題を力のベールに包んでおこうとしている。それが世界戦略の一環だと思っている。
世界平和のやり方は使う材料によってこうまで人類の安全、世界平和からは程遠くなるものか。
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放射能物質という目に見えないものと戦う。
放射能の核分裂の熱で蒸気を起こしてタービンを回し電気を起こす。
この方法、技術があまりに原始的過ぎるのだ。
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放射能物質の取り扱いもわからない人類が、自然界の放射能物質と同等に考えることが大きな誤りだ。セシウムなどは人類が原子力発電の名の下に生み出した人為的な核反応の副産物で、カルシウムや、カリウムと同位元素のため、人間の体が栄養物質と勘違いして取り込んでしまう。そこが長年遺伝的に人間の体が覚えてきた自然界の放射能と大きく違う点なのだ。だから体に取り込んだセシウムなどは、体の中で放射線を出し続け、ある時点で人間の体のほうが耐え切れなくなって別の物資、ガン化して、かなり激しい変化を遂げる。今まで、映像などで何度もみてきた。浴びた量や体質など個人差こそあれ、時間の経過とともにその方向に向かっていることは間違いないと思う。遺伝子レベルの変異が起きてくるため、次世代の人間に与えるダメージは計り知れない。未来のことだから、楽観視している部分があるが、人間は楽観したがるものだ。いやなことは考えないようにしたい。
だから、危機を目にしたときはすでに遅い。わずかな人類の望みが絶たれるなんて考えもおよびはしない。
(人間の体は短期間でセシウムなどが有害物質だということを覚えられない。地球上の生物が何億年もかけて危険を遺伝子レベルで認識して防衛できるように覚えてきたものとは違うからだ。)
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とりあえず、原子力発電以外の利用方法、熱でタービンを回す、あの原始的な利用方法は縮小していかなくてはならない。その間に、別の放射能物質の利用方法があるか、人工的放射能物質をどうしたら、生命にとって巨大に危険なエネルギーのままから方向転換させることができるか
目に見えないエネルギーなら、まず素粒子の研究を加速的に進める必要が重要で、体を通過してしまう、宇宙のダークマターとプラスマイナスの原子構造の物質界の接点の研究もきわめて重要で、この面の研究こそが、放射線を出す、人工的放射能物質の取り扱いを進める鍵になる。今の人類はまだこのレベルの袂にもついていない。原子爆弾で被害にあった日本だからこそ、世界に目覚めさせる、方向性や、新たな対応の模索を先導しうる背景を持っていることにもっと気つかなくてはいけない。
―――――――――――――アインシュタインの涙と苦悩―――――>2012.10.6
【偉人のお話】アインシュタインと日本 - Yahoo!知恵袋
科学者の墓
この知らせを受けた時、大の親日家のアインシュタインは、「Oh, weh ! (おお、なんということだ!)」 という悲痛な声をあげ、そのまま絶句してしまったそうです。
原爆の理論的な裏付けとなったのが、特殊相対性理論であったことをご存知の方も多いと思いますが、彼はまた、数名の科学者とともに、時のアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトに、原爆製造を促す意見書を提出していたのです。
ユダヤ人である彼は、ナチス・ドイツが原爆の開発をスタートしたことに危惧を覚えました。
そして、その抑止力をアメリカに期待したのですが、ドイツ降伏後も連合国と戦い続けていた日本に、まさか原爆が落とされることになろうとは…。
アインシュタインの親日家ぶりは、あまりにも有名で、1922年、講演のため1ヵ月あまり日本に滞在した彼は、次のような文章を残しています。
「この数週間、私は日本を科学的国家として尊敬するばかりではなく、人間的見地からも愛すべきに至った。 私が1カ月に余る日本滞在中、特に感じた点は、地球上に、日本国民のような謙譲で篤実な国民が存在していたことを自覚したことだ。 世界各地を歴訪した私にとって、このような純真な心持ちのよい国民に出会ったことはない。また、私の接触した日本の建築絵画その他の芸術や自然については、山水草木がことごとく美しく細かく日本家屋の構造も自然に適い、一種独特の価値がある。 私はこの点については、日本国民がむしろ欧州に感染をしないことを希望する。 西洋と出会う以前に日本人が本来持っていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしいものだ。」
アインシュタインが、愛してやまなかった日本…
その日本に、原爆が投下された。
しかも、そのきっかけをつくったのは自分だった…。
彼は、生涯、その苦悩から解放されることはなかったのです
後年、彼は次のような言葉を残しています。
「私は生涯において一つの重大な過ちをしました。
それは、ルーズベルト大統領に原子爆弾を作るように勧告した時です。」
「もし私がヒロシマとナガサキのことを予見していたら、1905年に発見した公式(特殊相対性理論)を破棄していただろう。」
その後、彼は 「核兵器廃絶と戦争廃止」 を最期まで訴え、平和運動を推進していくことになります。
その平和運動に共感し、真剣に取り組む科学者が、一人、また一人と増えていきました。
その中に、日本人の若き科学者・湯川秀樹の姿もありました。
原爆投下そして敗戦から3年、湯川が初めて米国を訪れた時、わざわざ彼を訪ねてきたのが、70歳になろうかというアインシュタインでした。
アインシュタインは湯川に駆け寄ると、彼の両手を握り締めて、激しく泣き出しました。
そして、何度もこう繰り返したといいます。
「原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまった…許して下さい」。
世界最高の科学者が肩を震わせて涙に暮れている。
若輩者の自分に対して、何度も何度も詫びながら…。
“人間” アインシュタインの良心に触れた彼は、「学者は研究室の中が世界の全てになりがちだが、世界の平和なくして学問はない」 という考えに至り、以後、積極的に平和運動に飛び込んでいくのです。
アインシュタインとの対面から一年…
1949年、42歳になった湯川秀樹は、日本人初のノーベル賞受賞に輝きました
敗戦からまだ4年、自信を失ったまま傷の癒えていない日本人に、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞という明るいニュースは、大いなる希望と勇気を与えました。
彼は、ノーベル賞の賞金の一部を奨学金制度設立に用い、後進の育成に務めました。
そして、アインシュタインの遺志を生涯の使命として受け継ぎ、1981年に74歳で亡くなるまで、反戦と核兵器廃絶を訴え続けたのです。
国立京都国際会館の入口には、湯川秀樹による碑文があります。
『世界は一つ』。