山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

日本で最初にパルプ工場を開いた王子製紙気田工場

2013-01-09 19:57:11 | 歴史・文化財
 先月の18日、「王子製紙と気田(ケタ)」をテーマに遠州民俗歴史研究会が開かれた。
 地元の郷土史家木下さんの熱弁は止まらない。
 その知識と記憶の豊富さにまたまた圧倒される。
 講義の後に近くにある元王子製紙の製品倉庫を見学する。

        
 建物の前には「木材パルプ発祥の地」と刻まれた石碑が建っていた。
 明治初頭には大量の洋紙を輸入していた日本のとって、自力生産は急務だった。
 そこで、官僚だった渋沢栄一が起業した王子製紙は、従来のボロ布ではなく木材から洋紙を製造する工場として、明治22年、現浜松市春野町気田に工場を開いた。

               
 気田になったのは、適材のツガ・モミが豊富にあったこと、気田川を船で利用できること、地元からも嘆願書があったことによる。
 工場は外壁に赤レンガと木造の二重構造にして、山間地の寒暖対策を施した和洋折衷の建造物だった。
 工場が撤退した後の赤レンガは近所の塀などに今も使われていると言う。

                     
 建物の天井は格子天井なのが日本的だった。
 室内では帆船の模型が展示されていた。
 風景としてはのどかだが、山林・町の形成をめぐってうごめく利権の攻防があったという。

 王子製紙が原木を買う前に買占めがあり、その王子製紙が買った山は国・営林署が買うと言った具合だ。

      

 地元から工場労働者が生まれ、また全国からも労働者が集まり、300人の従業員が形成される。
 そのうちに、原材料のモミ・ツガがなくなり、また水害被害の多発により、大正12年工場は佐久間の中部工場とともに閉鎖。

 近代日本に貢献した工場跡は今、ひっそりとたたずんでいる。
 炭鉱街と似ているかもね。
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