山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

実在したアーティスト「浜野矩隋」の人情噺

2024-06-22 23:44:07 | アート・文化

 相変わらず、五代目圓楽の人情噺に感動する。落語は、浜野矩隋(ノリユキ)という江戸時代中期に実在した装剣金工家<元文元年(1736年)- 天明7年(1769年)>の苦渋に満ちた物語である。彫刻の名人だった父親が亡くなった後、腕の劣る息子矩随が母親の「自分は犠牲になっても子どもを前面に押したて、その意気込みが子どもを発奮させる」という人情噺だ。  講談や落語家によっては、母親はのどを掻き切って子どもの自立を遂げようとする筋立てで、圓楽も母親の自害も導入したことがあったようだが、今回聞いた公演では当世事情を考慮してか、未遂に終わらせている。

  

 先日、NHKで柳家蝠丸(フクマル)がこの「浜野矩隋」を演じていた。物語は圓楽の流れに基本は沿っていて、わかりやすく歯切れも良い。ただし、最後のオチが表面的になっていたり、母親の迫力と臨場感に蝠丸の優しさが禍して物足りない。

 また、いつも注目していた志ん朝のユーチューブを聞いたが、やはり、テンポの良さと話術の勢いの魅力はあるが、父の志ん生の間の取り方や味には及ばない。

  

  矩隋(ノリユキ)を暖かく支援していた骨董屋・若狭屋甚兵衛は、なかなか技術が向上しない矩隋に向かって、「おためごかしの言い手はあれど、まこと実意の人はなし」という言葉を引用して、支援をストップするという。つまり、うわべはいかにも人のためを思っているような顔つきの「お為顔」や言葉・行為がありながら、本音は自分のことや利益・都合しか考えていないという意味で、矩隋の作品にはアーティストとしての精髄がこもっていないと指摘する。古典落語は知らない言葉や江戸世界を教えてくれる。

  

 スポンサーからも母親からも突き放された矩隋は、自分も死のうかと思い詰めるが一念発起して母親への形見となるような観音様を夜を徹して彫り上げる。それを母親に見せ、若狭屋に持っていく。それでやっと一流の実力を証明していき江戸で評判となる。

 笑いを取ることより人情噺を真摯に伝えるこの「浜野矩隋」は、6代目圓楽・志ん生・一之輔らもこれを挑戦しているが、苦戦しているように思われる。そんななか、五代目圓楽の「浜野矩隋」の話芸は群を抜いている。

  

 最後のオチは、五代目圓楽らしく、江戸の儒学者・坂静山(バンセイザン)の言葉、「怠らで行かば千里の果ても見ん 牛の歩みのよし遅くとも」を引用して、「怠けずに歩みつづければ、必ずや千里のように遠くまでも到達するであろう。たとえ牛のように歩みが遅くても」と、矩隋の生きざまをまとめる。

 そして、「寛政の年度に親子二代にわたって名人と言われた、浜野の一席でございます。」 の名調子で大団円。

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