goo blog サービス終了のお知らせ 

山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

加藤周一の日本文学史へのシャープな切れ味

2016-11-14 18:48:46 | 読書
 加藤周一『日本文学史序説・上』(ちくま学芸文庫、1999.4)を読んでみた。
 難解な古文や漢語を飛ばしながら「上巻」を読んだが、相変わらず加藤周一の東西にわたる知識量に圧倒される。
 文学者が書いた文学史よりも広さと深さに感心するばかり。

                           
 加藤周一が言いたいことは、序論に集約される。
 日本文学の固有の構造は、高度に洗練された奈良・平安時代に表現された「和歌・物語」のように、「独創的な哲学体系はつくりだしてはいなかった」と指摘する。
 見方を変えれば西洋の中世文化の中心は「宗教哲学」にありそこから文化が表現されたが、日本はそれが欠落している、という。

         
 要するに、西洋では「抽象的・体系的・理性的な文化」が形成されたが、日本は「具体的・非体系的・感情的な人生の特殊場面」を切り取った表現が、現代にも変わらない体質となっている、と辛辣である。
 
                             
 彼はその象徴として次のように切りこむ。
 「清少納言は、平安時代の宮廷社会をいかなる意味でも超越せず、ただその内部の瑣末な現象についてだけ語ったが、その語り口は見事であった。『枕草子』の伝統は、今日に至るまで日本文学の特徴の一つである。
 そしてこのような日本文学の特徴は、当然、日本社会の構造一般の特徴を、そのまま反映しているのである」と。

          
 それを論証するように、万葉集から元禄文化まで次々事例を上げていく。
 加えて、日本文学は都市中心に集中していること、平安時代の宮廷女性の活躍は古今東西ない事例であることとか、いっぱい示唆される内容があったが、とても書ききれない。

 なるほど、現代の「縮小ニッポン」の傾向はすでに奈良時代から始まっていたのか。

           
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする