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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

團十郎の敵は祖父の團十郎だった

2025-06-06 22:14:39 | アート・文化

 市川團十郎どおしのにらみ合いが見事に表現されている役者絵に出会った。

それは、曾我十郎・五郎の兄弟が、鎌倉時代の建久4年(1193)、源頼朝が催した富士山麓での御家人との巻狩り(今でいう軍事演習)で、父の仇である工藤祐経(スケツネ)を討った仇討ちの作品である。それ以降、歌舞伎や文学の世界で一大ブームを起こした「曾我物」。

 演目としては、「寿(コトブキ)曽我の対面」、通称「曽我の対面」と言われ、巻狩りの総指揮官に任命された工藤祐経の祝賀に曽我兄弟が対面するというシーンだ。江戸歌舞伎では、非業の死を遂げた曽我兄弟の登場する作品を鎮魂をかねて毎年正月に上演している。

 

 五代目團十郎(1741-1806)は、役者絵の円形の「駒絵」にある工藤祐経役。江戸歌舞伎の開花期の担い手として、荒事・実悪・女形など多様な演技ができそのおおらかな芸風に人気があった。また、俳諧・狂歌などにも造詣があり文化人とのつきあいもあった。

 七代目團十郎(1791~1859)は、曽我五郎役。江戸歌舞伎の絶頂期の中枢に位置し、庶民文化の爛熟期でもあった文化・文政期に活躍。四谷怪談の伊右衛門のような「色悪」役のような強烈な男気で話題をさらい、市川家を「荒事の本家」にまつり上げた。しかし、二人の妻と愛人3人との家庭内もめごとや豪邸での華麗な暮らしぶりに対して、天保の改革のあおりを受けて江戸追放となったことでも有名。人気絶頂から奈落に落ちた波乱万丈の生涯だった。

 

 1855年(安政2年)に出されたこの役者絵のバックには、地味な色合いの牡丹の花が五郎・七代目の華麗さを引き締めている。甲府盆地をのぞむ市川三郷町には、市川團十郎家発祥の地があり、歌舞伎文化公園がある。そこには團十郎家の紋(替紋)の牡丹にちなんで、ぼたん園があるだけにこの絵はじじつじょう團十郎宣伝のポスターともなっている。

 曽我十郎と五郎と特定できる着物の模様がある。それは、二人が富士山麓の巻狩に乗じて陣屋へ討入った際に着ていたのが、千鳥(十郎)と蝶(五郎)のデザインで、曽我兄弟といえば千鳥と蝶の模様を描くことが一般化している。したがって、五郎の七代目團十郎の衣装はやはり派手やかなアゲハ蝶模様である。

 

 また、五代目團十郎の衣装には、工藤祐経の「庵に木瓜(イオリモッコウ)」の家紋がしかと表現されている。それは藤原南家の流れを汲む由緒正しい武将の家紋である。祐経は、兄弟の敵であり悪を象徴する黒の着付けをしているものの、兄弟を思いやる「白塗り」の顔の心の広い人物にしている。

 いっぽう、五郎の七代目團十郎は白塗りの目元に「荒事」の赤の隈取りをしていることで、怒りで目元が血走る表情となっているところも対照的でもある。そしてその前衛的な「若衆髷」も見ものだ。

  

 豊国の充実した役者絵は一流の彫師「彫竹」の協力。版元は「イせ芳」だが、「伊勢芳」との違いはわからなかった。改め印も従来の印と微妙に違うのも面白いし、卯年七月(安政2年、1855年)の印から発行年が類推される。当時の無名の「イせ芳」は「蔦重」をしのぐ作品を発行していたのかもいれない。

 また、田中聡(太田記念美術館)氏によれば豊国の描く役者たちは時代の最先端の写実的でスタイリッシュであり、歌舞伎ファンたちが「こうあってほしい」姿を描くものだった。江戸庶民は、アバンギャルドで先鋭的な写楽よりも、豊国の方を支持した。歌川派は江戸の浮世絵界の主流へと成長し、ナゾの絵師として登場し、ナゾのまま消えていった写楽とは対照的な存在だった、という。

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