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50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

歴史の街、コンピエーニュ―⑤

2006-09-12 00:45:20 | フランス

コンピエーニュの街中を流れるオワーズ川。セーヌの支流のひとつです。


オワーズ川のそばにある公園です。左に見えるのは、城壁(les ramparts)の跡。いたるところに城壁跡があり、また宮殿の周りには堀の一部も残っています。さすが王や皇帝が滞在していた宮殿。警護はしっかりしていたようです。


当時、警護を担当していた人といえば、騎士。この騎士の鎧・甲冑、売り物です(年代ものではなく、新品のようですが)。2,500ユーロ程度(約375,000円)の定価を半値でバーゲンだそうです。正価は黒字で、バーゲン価格は赤字で書かれていました。赤札。商人は、洋の東西を問わず、同じようなことを考えるものですね。


こちらのプレートには、祖国フランスを守るため第一次・第二次の両大戦で尊い命を捧げたコンピエーニュの人たちの名が刻まれています。サン・ジャック教会(Eglise Saint-Jacques)の脇にありますが、今でも献花が絶えません。なお、1918年11月11日に第一次世界大戦の休戦条約が調印されたのは、ここコンピエーニュの森においてだったそうです。


石畳の道に石造りの建物。ヨーロッパの伝統を実感させてくれる街並みです。人口5万ほどの街ですが、中心街を見るかぎりマクドなどのファーストフードの店もなく、スーパーすら少ない・・・伝統的な暮らしぶりがうかがえます。


木骨組みの家も残っており、15世紀まで遡ることのできる古いものもありますが、数はそれほど多くありません。石造りの家が多いですね。この地方は、石材に恵まれているのでしょう。

パリから直通電車で40分~1時間。歴史のある素敵な町なのですが、日本人観光客は多くないようで、日本語のパンフレットはどこにもありませんでした。フランスではもちろん、ヨーロッパの他の国でも人気のある街のようですが、それ以外の地域ではまだ知名度がないのかもしれません。パリからの日帰り観光地として、今なら穴場かもしれません。

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歴史の街、コンピエーニュ―④

2006-09-11 00:23:29 | フランス
コンピエーニュで忘れてはならないのが、下の建物です。


コンピエーニュの市役所(Hotel de ville)です。後期ゴシック様式(gothique flamboyant)の至宝といわれるこの建物は、1498年に建設を始め1530年に完成。この建物をたいへん気に入ったナポレオン3世の勧めで19世紀後半に改修が行われ、今日に至っているそうです。

実に魅力的な建物で、すぐ脇のカフェから眺めていても、まったく飽きませんでした。


47mの塔の上部には3体の人形(かつて敵であったイングランド・スペイン領フランドル・ドイツを象徴)が設置され(小さくて見難いかもしれませんが、写真中央、下寄りです)、1303年に鋳造されたという由緒ある鐘を15分毎に打ち、時を刻んでいます。敵だったお前らはいつまでもそうやって街のために働け、ということなのでしょう。

すぐ脇にある市役所・別棟にあるのが、歴史フィギュア美術館(Musee de la Figurine historique)です。


ナポレオン1世の時代から第二次大戦まで、さまざまな戦闘の場面や軍隊の行進の模様を精巧な小さいフィギュア(数センチから15センチ程のもの)で紹介しています。



最近作られた作品も多いのですが、中には下の写真の5体のように18世紀のものもあり、大切に展示されています。でも、まだあまり知られていないのか、入場者は少なかったですね。


明日は、コンピエーニュ・シリーズの最終回、街並みをご紹介します。

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歴史の街、コンピエーニュ―③

2006-09-10 01:40:20 | フランス
コンピエーニュに息づくもう一つの歴史、それは、ジャンヌ・ダルクです。1430年、彼女はこのコンピエーニュの街で、フィリップ善良王のブルターニュ軍に捕らえられてしまったのです。ブルターニュといえば、フランス。しかし今はフランスでも、当時はフランス王に付く地域とイングランド王側に付く地域とに分かれていたそうです。


写真は、サン・ジャック教会(Eglise Saint-Jacques)。1198年に時の法王イノセント3世に建設の許可を求めたことがその起源という歴史ある教会です。ジャンヌ・ダルクは捕まる日の朝、つまり、1430年5月23日の朝、この教会で祈りを捧げたそうです。フランスの完全勝利を祈ったのでしょうか。その祈りも虚しく、捕らえられた彼女はブルターニュ軍からイングランド軍に引き渡され、ルーアンで監禁の身に。そして翌年、火刑に処されてしまったのはご存知の通り。


教会内部です。外部はかなり黒ずんでおり、「時」の過酷さを感じさせますが、内部は実に堂々とした立派なつくりです。


ここのステンドグラスはどれも大変具象的な図柄です。

ジャンヌ・ダルクが捕らえられた街、という経緯があるせいか、コンピエーニュには彼女に因んだものがたくさんあります。


市役所前広場に建つジャンヌ像です。1430年以来、親愛なるコンピエーニュの友人たちとともにある、といった内容のメッセージが刻まれています。


別名ジャンヌ・ダルク塔といわれる12世紀に建てられた城の主塔跡です。


どうしてジャンヌ・ダルクの塔という別名があるかというと、捕捉500年にあたる1930年に彼女を悼むプレートがカナダのケベック州から贈られ、この塔に取り付けられたことから、この別名が生まれたそうです。彼女はコンピエーニュの城壁の下で捕らえられたが、この街を愛してやまなかった、とプレートは語っています。


ジャンヌ・ダルク通りという名の路まであります。市役所広場のちょっと先です。

今もジャンヌ・ダルクと共にある街、コンピエーニュ。いたるところで彼女を偲ぶことができます。

コンピエーニュの歴史、明日も続きます。

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歴史の街、コンピエーニュ―②

2006-09-09 00:23:35 | フランス
コンピエーニュ宮殿の庭園は、ナポレオン1世によって、大幅に変更されました。なるべく自然に近く、自然のままに見えるように・・・


目玉はこの4.5kmもの長~い緑の絨毯(les Beaux-Monts:美しい丘)です。ナポレオン1世の2番目の妻、マリー・ルイズの故郷、オーストリア・ウィーンのシェーンブルン宮殿の庭からヒントを得たと言われています。この緑の道は、散歩する人を森の中へと導いていきます。でも、ちょっと長すぎますね、芝の上でゆっくり寛ぐ人が多かったです。


庭から見た、コンピエーニュ宮殿です。テラスの前からまっすぐ、一直線に緑の絨毯が続いています。


宮殿の庭側は彫刻や花々に囲まれています。これらの彫刻のいくつかは、チュイルリー宮殿やルーブル宮殿から持ってきたものだそうです。


でも、やはりこの庭の主役は、緑の芝とそれを取り囲む木々。幾何学的に非常に整然と形作られたフランス式庭園よりは、この程度の自然に近い庭のほうがほっとするものがあり、ゆっくりと落ち着いて散歩ができます。私には合っているようです。

今に息づくコンピエーニュの歴史は、この宮殿だけではありません。明日はもう一つの歴史、有名な歴史の意外と知られていない一コマをご紹介します。

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歴史の街、コンピエーニュ―①

2006-09-08 04:25:23 | フランス
パリから北北東へ80kmのところにあるコンピエーニュ(Compiegne)。ご存知ですか? 私はこちらに来てからガイドブックではじめてその存在を知ったのですが、行ってみると、日本のガイドブックには載っていないような事柄も含め、長い歴史が多くの場所にちりばめられていました。シリーズでご紹介します。

コンピエーニュといえば、まずは何といっても宮殿。

正面入り口側から見たところです。石畳の前庭といい、全体の造作といい、ヴェルサイユ宮殿をこじんまりと質素にしたような印象が若干しますね。。

コンピエーニュは、周囲を狩猟に適した森に囲まれているため、君主制の当初からしばしば王や皇帝が居城を構えていました。現存する宮殿は、シャルル5世によって建てられた砦を基に、ルイ15世の命で1751年から改修を始め、ルイ16世の治世に一応の完成を見たのですが、時遅し、自分の好みを最大限発揮した部屋作りを進めていたマリー・アントワネットは一度も住むことなく、断頭台へ。

フランス革命時に荒れ果ててしまったこの宮殿を、1809年からナポレオン1世が修復し、ナポレオン3世の治世、つまり第2帝政になると、皇帝の秋の宮殿としてもっとも華やかな時代を迎えるのでした。

こうした長い歴史を反映してか、いくつかの様式が並存する建物になっています。家具にしても、18世紀のもの、ナポレオン1世の頃のもの、ナポレオン3世時代のもの、そして20世紀に修理されたものなど、いろいろな時代のものが展示されています。


皇帝の寝室です。赤と金といういかにもナポレオン1世好みの配色ですね。でも、この寝室、ゲストなどに見せるためのもので、言ってみればショールーム。秘密の出入り口の先に本当のプライベート空間があります。


高い天井を見上げると、ナポレオンのイニシャル“N”が見事に浮き出ていました。


ゲストや臣下との食事を楽しむダイニングルームです。普通なら手前中央に皇帝は座を占めるのでしょうが、ナポレオン3世はその隣、写真の右手前の席を好んだそうです。


図書室です。膨大な量の書籍ですね。実は、この書棚の右1列が、秘密の扉。本も本物そっくりに描かれたもので、このドアから裏側のプライベート空間へと行くことができます。


ボールルームです。ナポレオン3世が秋の宮殿として使用した頃には、夜毎華麗な舞踏会が開かれたことでしょう。でも、華麗さの点では、残念ながらヴェルサイユのシャンデリアには負けてしまいますね。


美しい宮殿の中で面白いものを一つ見つけました。壁の下のほうにある丸い穴、何だと思いますか。セントラルヒーティングの噴出口だそうです。天井が高いので、寒い季節はどうしても暖房が必要。昔は薪で、その後炭になり、今では電気でまかなっているそうです。

こうしたコンピエーニュ宮殿の内部見学は、ガイド付きだったのですが、そのガイドさん(30歳くらいのフランス人男性)、日本に2度行ったことがあるそうで、東京から西へ奄美諸島まで行ったことがあるとか。片言の日本語をしゃべります。また一緒に回ったのはイギリスからのカップルだったのですが、なんと女性は日本人。思わぬところで「日本」が存在感を示してしまいました。

コンピエーニュ宮殿の、もう一つの「売り」は、その見事な庭。これは、明日のお楽しみに。

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「中世の街」の収穫祭―④

2006-09-01 00:55:58 | フランス
世界遺産に登録されているプロヴァンの旧市街。実際、どのような街並みなのでしょうか。


木骨組みの家が多く目に付きます。


窓辺には必ず花を飾っています。(でも、よく見ると、あちこちが歪んでいます。)


旧市街地の周囲にはところどころに城壁(le rempart)が残っています。


そこから見た、旧市街地のメイン道路です。


街を見下ろすといえば、ここ、セザール塔(Tour Cesar)です。12世紀に建設された見張りの塔で、街のシンボルになっているそうです。塔の上からは、旧市街から周辺まで、よく見渡せます。


セザール塔から見た市街地です。右手前に見えるのはサン・キリアス教会の尖塔です。


木骨組みだけでなく、もちろん石造りの家も多くあります。こうした雰囲気のある街を維持し、住み続けるのはきっと大変なことなのだと思います。


石を積み重ねただけに見える家ですが、今でも人が住んでいるようで、電気の配線が見えます。ほかにも、屋根がゆがんだ家や、壁の一部が崩れかけている家などもありますが、「中世の街」の表情を保つために、必死に修理しながら住み続けているのだと思います。


旧市街の中心、シャテル広場(Place de Chatel)では、伝統衣装を着た市民のダンスが披露されていました。パレードのフィナーレのようです。

開発から取り残されたがゆえに保持できた古い街並み。それを逆手にとって、「中世の街」として観光の目玉にしたプロヴァン。いまや世界遺産に登録され、祭りやイベントには多くの観光客が訪れています。フランス語だけでなく英語・中国語・日本語もずいぶん聞こえてきました。

「遅れ」を逆手に取った発想がこの成功の基なのでしょうが、忘れていけないのが市民の参加。市民の協力なくしてはこのような街づくりはできないのではないでしょうか。プロヴァン、中世の市場街。市民総意の街づくりがうまくいっている好例だと思います。いつまでも、懐かしい街並みと、楽しい祭りを続けてほしいものです。

「中世の街」の収穫祭―③

2006-08-31 01:42:44 | フランス
プロヴァンの収穫祭、今年のテーマは、「昨日の仕事、今日の職人」(Metiers d'hier, artisans d'aujourd'hui !)。中世以来、今に伝わる職人の技をいろいろと紹介しています。


(鍛冶)
鉄は熱いうちに打て。その通り、「ふいご」で起こす火のそばで、蹄鉄などを作っていました。赤く熱した鉄をうつトントン、カンカンという音が、なぜかとても懐かしく響いていました。


(木工)
釘を使わずに、いかに木工製品をつくるか。見事なものです。太鼓腹の大人が座ってもびくともしない椅子を次々と作っていました。


(組みひも)
細い糸をより合わせて太い糸にし、更にそれをよってロープにする。そうしてできたロープは、大きな石を吊り下げても切れる心配なし。しかも、ロープを作る道具も手作りの昔ながらのものでした。

職人の手仕事、たいしたものです。お祭りで見せるためとはいえ、若い人たちも手伝っていました。こうして貴重な技がきちんと伝承されていくのでしょう。見習いたいものです。

また、収穫祭、つまりお祭りですから、多くの露店も出ています。そう、寅さんの世界です。ありました、ありました、あの懐かしい露店が。


射的です。これは、下から吹き上げる風に翻弄されて微妙に動く風船を撃つものですが、3発中何発命中させたかによって景品がもらえます。日本では、右から左に動いていく標的を撃ったような記憶があるのですが、ちょっと違いますね。見ていると、子供はなかなか当たらず、写真のお母さんにように、自ら銃を構えてしまう大人もいました。


昔の日本なら金魚すくいかヨーヨーすくい。こちらでは風呂に浮かべる人形すくいです。これは意外に簡単そうで、みんないくつももらっていました。


そして、これ。何だと思いますか。そう、あれです。

綿菓子。フランス語では、“barbe a papa”(パパのお髭)といいますが、日本のと同じですね。綿菓子はてっきり日本のものかと思っていました。日本が輸入したのか、日本もフランスもどこかから輸入したものなのか、極東と極西で同じものがあるんですね。ビックリです。

今に伝わる職人の技と懐かしい露店。ノスタルジックな雰囲気いっぱいの「中世の街」の収穫祭です。

明日はシリーズの最終回(しつこい!)、プロヴァンの街並みを紹介します。

「中世の街」の収穫祭―②

2006-08-30 01:27:35 | フランス
プロヴァンは、「中世の街」をうたい文句に観光にかなり力を入れており、「収穫祭」や6月に行われる「中世祭り」を始め、1年中さまざまなお祭り・イベントを行っています。

そのせいでしょうか、住民たちの演技・演奏もなかなかどうして立派なものです。多くの観光客の前でも臆することなく堂々としています。


民族衣装もとっても様になっています。


音楽を演奏するにも、伝統の衣装です。


自転車に乗るにも、昔の衣装でがんばっています。でも、さすがに中世ではなく、戦前といったところでしょうか。


ワイン樽を牽いたり、収穫した野菜を積んだ荷車を牽いたり、昔の暮らしぶりを再現してくれています。


子供たちも負けてはいません。小さなトラクター風カートにまたがり、遅れないようにとがんばっていました。


お揃いの衣装でうれしそうに、恥ずかしそうに行進に加わっている子供たちもいます。


ジャズバンドがパレードをいっそう賑やかなものにしています。もちろん演奏するのは、ニューオーリンズ・ジャズ。Nouvelle-Orleans、かつてのフランス領ですものね。


山車の上で、昔の消防の様子を再現してくれる消防隊員たち。でも、沿道に向けて本当に放水するので、困ったものです。でも、これもお祭りのご愛嬌。水をかけられたほうも、ニコニコです。


7月14日のパリ祭のときもそうだったのですが、消防隊はとても人気があります。今回も消防隊員のバンドはひときわ大きな歓声で迎えられていました。

ほとんど市民総出ではないか思われる、収穫祭のパレード。午後3時から6時まで、旧市街地を、愛嬌を振りまきながら、あるいは真面目に、ゆっくりと練り歩いていました。(明日に続く)

「中世の街」の収穫祭―①

2006-08-29 00:24:45 | フランス
パリから南東へおよそ90kmのところにあるプロヴァン(Provinas)。パリ・東駅から電車で1時間20分です。

この街で8月27日に収穫祭(Fete de la Moisson)が行われました。

この街は中世のころ交通の要所として栄え、大きな市が立っていたそうで、その名残を残す街並みをしっかり保存しているところから、その旧市街地が「中世の市場街、プロヴァン」(Provins, ville de foire medievale)として2001年に世界遺産登録されています。


中世の街・プロヴァンで行われる収穫祭、今年で36回目です。この収穫祭が特に注目されているのは、畑など農耕地の近くで行われる他の地域の収穫祭とは異なり、約15,000の人口をもつこの都市の市街地で行われているからだそうです。この日も、クルマで、電車で多くの観光客が押し寄せて来ました。

プロヴァンの収穫祭、まずは、目玉の小麦パレードからご紹介しましょう。

収穫祭ですから、当然先頭には収穫した小麦を山積みにした馬車が登場します。


その後には、トラクターに引かれた山車が次々と続きます。


旧市街の細い道を列を作ってゆっくり進んでいきます。


いずれの山車も収穫祭のシンボル・小麦で覆われています。


張りぼての牛まで小麦の穂を咥えています。


山車の上では昔の暮らしが再現されています。


もちろん収穫を祝うダンスも山車の上で行われています。(写真手前はカフェです。)

何台も続く山車のあとには、昔の服装をした人たちが、歩いたり自転車に乗ったりして続きます。楽団も行進していきます。これは、明日のお楽しみに。

シャルトルへ・・・③

2006-08-22 01:22:09 | フランス
シャルトルの街をくねくねと右へ左へと曲がりながら歩いていると、ふとどこにいるのか分からなくなってしまうことがあります。そんなときは、周囲を見渡せば、すぐ大体の場所が分かります。

そう、ほとんどどこからでも、大聖堂が見えます。その位置関係から、現在地点が分かるわけです。歩き回るには便利です。


いろいろな角度から大聖堂を見ることができるのも、面白いですね。

この街には、大聖堂以外にも、いくつか教会があります。例えば、サンピエール教会。

かなり古そうで、一部修復作業中でした。しかし、内部はそれなりに立派で、ステンドグラス、そして小さいながらもパイプオルガンもありました。

また、下の写真は懺悔室。いくつかありましたが、大聖堂にもたくさんありました。そんなに懺悔する人が多かったのでしょうか。


大聖堂の街、シャルトル。篤信家も多かったのでしょう、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路になっていたようで、大聖堂のすぐ前には、下のようなプレートがありました。

パリを出発し、一路南西へ。ここまでおよそ80km。そして、ここから巡礼の目的地まで1625km。はるかな、はるかな旅です。


シャルトルの駅です。今では、80kmの距離が電車で1時間、そして1625kmも飛行機なら2~3時間でしょうか。便利になった反動か、巡礼の旅に憧れたりもしますが、なかなかその第一歩が踏み出せそうにありません。