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50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

中世の祭り―プロヴァン②

2007-06-29 00:31:55 | フランス
プロヴァンの中世の祭りには、主催者だけでなく、多くの一般の人たちが参加しています。パリからも、すでに中世の衣装で電車に乗り込み、駆けつけた人たちも多くいました。参加することに意義がある。それだけに、面白い格好も見られました。

まずは、中世は中世でも、なぜか日本趣味の反映された中世から。

どうです、着物に日傘、扇子ももっているんですよ。片や、鎧兜に身を固め。子どもたちは、忍びのような格好ですが、多くの人から「プチ・サムライ」という声がかかっていました。

帯もきりりと締めて・・・

剣道着に菅笠。でも、ビックリする人は少なく、中世を模した街並みに自然と溶け込んでいました。

これだけいるとさぞや日本がテーマのお祭りのようだったのではと思われるかもしれないですが、中世の格好をした人があまりに多く、「日本」だけが特別目立ったわけではありません。

そして、日本趣味以外にも、これは面白い、という場面が多くありました。


プロヴァンの中世人たちは、もうすでに携帯が手放せないようです。

この中世の紳士は、買い物しながらも、携帯でおしゃべり。


この中世人の背中には、デイパックが。

こちらの日本風中世人は、大きなバッグを片手に、飄々と歩いていきました。


若い中世人には、アイスクリームが大人気。

こちらのグループが飲んでいるのは、ビニールのコップに入ったビール。プロヴァンでは中世からビールに人気があった!?

中世の衣装を着ていますが、売っているのは綿菓子。懐かしいお菓子ですが、中世? 固いこと言わず、楽しむのが一番。

実に多くの人たちが中世の格好を楽しんでいました。見るよりも、参加するほうが面白そうです。しかも、お祭りエリアに入るには入場料8ユーロが必要ですが、中世の格好をしていれば参加者扱いで無料。興味のある方は来年ぜひ、中世の仮装で参加してみませんか。和服だけでもOKみたいですよ。

このプロヴァンの中世祭り、衣装だけでなく、当時の人々の暮らしぶりも紹介しています。中世の暮らし、どのようだったのでしょう。明日のお楽しみに。

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中世の祭り―プロヴァン①

2007-06-28 00:20:07 | フランス
フランスの中世、というと、どのようなイメージを持ちますか。騎士、停滞、あるいは宗教色の濃い暮らし・・・ヨーロッパ中世の実態は、従来、一般的に思われていたのとはかなり異なるのでは、という説も出ているようですが、では、自国の中世に対してフランス人はどのようなイメージを持っているのでしょうか。

昨年8月に「収穫祭」で訪れたプロヴァン(Provins:パリから南東へ、電車で約1時間半)で6月23・24日に「中世の祭り」(Les Medievales en Provins)というイベントが行われました。



11~13世紀の歴史を本格的に今に伝える町として、2002年、シラク前大統領臨席の下、ユネスコの「世界遺産」に登録されたプロヴァン。この町で、その中世の面影を再現する、言ってみればメーンイベントとして年に一度行なわれるのが「中世の祭り」です。

(Hotel de Ville入り口に掲示された世界遺産登録のパネル)

主催者に当たるプロヴァンの町の人たちが、自分なら中世をこうイメージするという出で立ちで、景観地区を朝から逍遥。そして、もっとも熱気に包まれるのが24日午後のパレード。どのような格好か、さあ、ご覧ください。


やはり、騎士、あるいは十字軍といったイメージが強いようです。

陽射しがでると暑いくらいの天気でした。甲冑姿は、暑がりのフランス人にとっては、きっと相当な暑さだったでしょうね。


庶民姿の一団です。

確かに、昔というイメージはありますね。しかも背景にある家々が、まさにぴったり。


中世でも音楽が暮らしに潤いを与えてくれていたようです。

こんな勇ましいバンドもいたのかも知れないですね。


異形の人たちが多かったのでしょうか。

それとも、異形への恐怖がこうしたイメージを育んだのでしょうか。


いかがでしたか。皆さんのイメージどおりでしたか。一口に中世といっても、そのイメージはさまざま。見ていて飽きないお祭りです。開発に乗り遅れたのを逆手にとっての、「中世」をキーワードとした街づくり。この日のプロヴァンの町に押し寄せた多くの観光客が、その成功を物語っています。

まだまだ多くの中世があります。明日ご紹介するのは、このフランス中世の祭りに、日本が登場!


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ヴェルサイユ・・・緑と花々。

2007-06-25 02:50:30 | フランス
6月のヴェルサイユ。その庭園や周囲の森では、木々の緑が美しく、その中で多くの種類の花々が咲き誇っています。



噴水と音楽のショーを見に行ったついでに撮ってきた写真なのですが、この季節の爽やかの風情をご覧いただければと思います。でも、ネタ切れによるアイデアではありません、念のため・・・。言わずもがなのことを書いてしまいました。反省。では、ご覧ください。







ヴェルサイユ宮殿の周囲には、森を思わせる景色と牧場までが広がっています。




マリー・アントワネットの領地では、グラン・トリアノンの庭をはじめ、愛の神殿などで、きれいな花々が咲き誇り、木々の緑がいまにも滴りそうでした。








晴れると暑いくらいになるのですが、曇って小雨が降ってくると急に涼しくなり、時には肌寒いくらいになります。一日に四季がある、といわれるロンドンほどではないにしろ、パリ周辺も、変化のはげしい天候が続いています。そんな中、晴れ間からのぞく青空に、木々の緑と花々が美しく輝いています。

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ヴェルサイユ・・・水と音楽。

2007-06-24 02:01:09 | フランス
毎週末、ヴェルサイユ宮殿の庭園で、水と音楽のショー(Grandes Eaux Musicales)が行なわれています。


(ご存知、ヴェルサイユ宮殿の正面です)

しかし、ここはフランス、エンターテイメントに徹するアメリカとは異なり、音楽に合わせて噴水の水が出たり止まったり、吹き上がる水が高くなったり、低くなったり、ということはありません。ショーの時間内だけ、噴水が出続け、音楽がBGMとして所々に設置されたスピーカーから流れてくる。ただそれだけなのですが、がっかりする反面、気ぜわしさがなく、ゆっくりと庭園を散歩しながら噴水や木々の緑、花々を見ながら歩けるので、これはこれでそれなりにいい演出になっているような気もしてきます。ちょっと、フランス応援が過ぎてしまっているかもしれませんが・・・。

前置きが長くなってしまいました。ヴェルサイユに関しては説明の必要もないと思いますので、噴水の写真を続けてご紹介しましょう。



















いかがでしたか。昔は噴水も頻繁に出ていたような気がするのですが、今は決まった時間(1日3回)しか出ず、しかも見るのは有料。これもヴェルサイユ宮殿の大掛かりな改修費用を捻出する方策なのでしょうか。修復中だった「鏡の間」もようやく作業が終わり、27日から一般公開されるそうです。

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ジャンヌ巡礼の旅~ルーアン―③

2007-04-21 01:34:22 | フランス
ノルマンディの古都にして中心地、ルーアン、今の人口は約10万人。繁華街にはデパートのプランタンもありますし、主だった金融機関、通信関連企業、食品・ファッションのブランド・ショップなどが軒を並べています。その中心街のシンボルが、時計塔。

このアーチ型の門は16世紀に作られたものだそうですが、時計自体は14世紀の作とか。遥かな時の流れを刻んできたようです。なお、この門には登ることができます(月曜休館)。

この門の下からノートル・ダム大聖堂へ向かっての道は歩行者専用道路になっています。ウィンドーを覗きながら散歩を楽しむにはもってこい。ちょっとわき道に入ると多くのカフェもあり、疲れたら一休み。そのカフェの料金(コーヒー一杯)は1.8ユーロで、2.2~2.8ユーロのパリよりはちょっぴり安め。でも、マクドナルドのビッグマックセットは、逆にパリの5.5~5.9ユーロが6ユーロと少し高くなっています。その街の物価だけでなく、競合状態や売上高などにもよるのでしょうけれど。

中心街、いわゆる旧市街には、今でも多くの木骨組みの建物が残っています。

その外観は残したままで内部を改造したり、1階をショップに改造したりして、上手に使っているようです。伝統と新しさの融合は、いかにもフランスらしいですね。

木骨組みの建物と教会・・・これは、いかにもルーアンらしい風景です。

木骨組みの家々が続いている細い道・・・まるで中世に迷い込んでしまったような感じさえします。

そして、もうひとつ、ルーアンらしいものと言えば、八重桜。公園にはもちろん、街路樹としても多くのところで花を咲かせていました。

木骨組みの家とさくら。アップにすると・・・

たぶん八重桜なのではないかと思うのですが・・・。

花といえば、もうひとつ・・・

藤ですね。ルーアンまでの車窓からも、この花を多くの場所で見ることができました。

そして、日本的、というかアジア的なものと言えば・・・

漢字で「指圧」と書かれています。木骨組みの建物で指圧を受ける。ルーアンの思い出になるかもしれないですね。私は遠慮しましたが・・・。

ルーアン出身の文化人と言えば、『ボヴァリー夫人』などで有名な作家のフロベールと17世紀の三大劇作家の一人、コルネイユ。『ル・シッド』などで有名なコルネイユがこの街で生まれたのは1608年。その生家がジャンヌ・ダルク教会のすぐそばに建っています。

黄色のバナーが建物や周囲の雰囲気にそぐわない気もしますが、一応場所を明示しています(夏は水曜から日曜までの午後、それ以外の季節は週末の午後のみ開館)。なお、コルネイユには思わぬところで対面することが出来ます。

ジャンヌ・ダルク博物館に彼の蝋人形も展示されています。

ジャンヌ・ダルクの終焉の街、今に残る木骨組みの家々、多くの歴史ある教会、そして河口近くのゆったりしたセーヌの流れ・・・見所はそれなりに多いのですが、何となくしっくりこない・・・どうしてなのだろうと思っていたのですが、帰りの列車に乗るためにルーアン駅に着いて、はたと気付きました。もちろん門を閉ざした教会が多く拒否された印象があるのも事実ですが、駅の脇にある、小さな、小さな広場、そこにある緑の木々を見て気づきました。街に緑の街路樹が非常に少ないことが原因だったようです。そのため、落ち着いたきれいな街という印象がなく、どこか埃っぽい印象がしてしまう。残念です。私だけの印象かもしれませんが。ようやく最後に見つけた緑の街路樹、駅のすぐ横にある小さな一角がルーアンの印象を救ってくれました。

この木々のお陰で、ルーアンの旅も、それほど悪いものではなかったと思えています。

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ジャンヌ巡礼の旅~ルーアン―②

2007-04-20 00:09:21 | フランス
ルーアンの街は「街そのものが美術館」とも言われているようですが、少なくとも街中に教会があるのは確かです。その中でも、最も有名なのが、ノートル・ダム大聖堂。

モネによって描かれた連作のモデルとしても有名ですね。創建が1063年と言いますから、950年近い歴史があります。何度も改修・改築されてきたそうですが、その伝統は今にも引き継がれていて、行った日はファサードの修理中。残念ながら中に入ることは出来ませんでした。

写真の下のほうにネットが張られているのがご覧になれるかと思います。夏の観光シーズン前までには工事を終える予定だそうです。

ノートル・ダム大聖堂の裏手(東側)にあるのが、サン・マクルー教会。15世紀に建てられたフランボワイヤン・ゴシックの傑作のひとつとか。

木の扉に彫られた彫刻でも有名なのですが、かなり傷んでいます。

傷んでいるのは、木製の部分だけでなく、こうした石の彫刻部分にもかなりの傷みが見られます。

修復は行なっているのでしょうか。あるいは放置しているのでしょうか。

このサン・マクルー教会も中には入れませんでした。こちらは修復作業のせいではなく、きちんとした理由がパネル表示されていました。2005年10月に放火されてしまった! 常に教会すべてを監視することは出来ないので、公式行事以外は門を閉ざす、ということだそうです。一般には内部を公開していないようですね。

このサン・マクルー教会の中庭と言われる場所がすぐこれまた裏手にあります。

入り口にはおしゃれな表示が出ていますが、それもそのはず、中庭を取り囲む建物が今ではルーアン美術学校になっています。しかし、その建物自体は、昔のまま・・・

しかも、中庭をぐるっと取り囲む建物の柱という柱にはある彫り物が・・・

そう、どくろの彫り物です。疫病(多分ペスト?)による死者を埋葬した中世の共同墓地の名残だとか。とても静かな中庭なのですが、かえって薄気味悪くなってきました。

ルーアン市庁舎脇にはゴシック様式のサン・トゥアン教会が建っています。裏手が公園になっており、そこからの眺めは、さすがゴシック、美しいですね。


また、その公園から木の間に透けて見えるのが、サン・ヴィヴィアン教会。ロマネスクのような雰囲気を醸し出しています。

個人的にはルーアンで最も気に入った教会建築です。

セーヌの河口近くに開けた古都・ルーアン。その歴史は多くの教会に見ることができます。

しかし、伝統なのか街の特徴なのかどうか、多くの教会が一般には門を閉ざしていました。一見お断りと言われているようで、とても残念でした。

明日は、古都・ルーアンの今の街並みをご紹介します。

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ジャンヌ巡礼の旅~ルーアン―①

2007-04-19 02:10:40 | フランス
パリから北西へ約150km、急行で1時間10~30分のところにある街・ルーアン。セーヌ河口に開けた街で、ローマ時代からの歴史があり、かつてはノルマンディ公国の首都として栄えました。

しかし今、この街を有名にしているのは、ジャンヌ・ダルク。彼女の終焉の地です。火刑に処されたのが、1431年5月30日の朝。


彼女が異端として処刑された旧市場跡には、ジャンヌ・ダルク教会が建っています。海をイメージした斬新な外観、と言われていますが、正直な感想は、変なデザイン。すみません。

内部は明るくとても開放的なイメージです。これはこれでいいのですが、宗教的厳かさが感じられないのが、ちょっと残念。

16世紀に作られ、今はなきサン・ヴァンサン教会にあったというステンドグラスが、ここでその美しさを今に伝えています。これはきれいです。

教会の入り口脇には、ジャンヌの像が立っています。百年戦争の間の人生だっただけに、平和を神に祈っているのでしょうか。そして、祖国愛、人類愛を祈願しているのでしょうか。

その像の前には、彼女が処刑された場所が特定されており(奥のパネル)、その当時のものといわれる土地が残されています(手前)。その土に触れることも出来、彼女の人生、フランスへの想いがいっそう身近に感じられます。

19歳で火刑に処された「オルレアンの乙女」の足跡をたどるのであれば、教会のすぐ前にあるジャンヌ・ダルク博物館へ。入り口はお土産屋さんなのですが、入場料を払って地下に降りていくと、当時の資料や、彼女の人生をたどる蝋人形が展示されています。

彼女は読み書きができなかったそうですが、署名だけは出来た。彼女のその直筆が残っています(写真の上部、濃い茶色の部分の右下にあるサインです)。“Jehanne”と当時の書き方でこうサインされています。本来はJehanne Darc、それがいつの間にかJeanne d'Arcと書かれるようになっています。天にかかる「アーチのジャンヌ」のほうが美しく、彼女にふさわしいという思いから変わってしまったのでしょうか。

このような甲冑姿でフランス軍を鼓舞したようです。彼女は、身長162cm、体重40kgだったと言われています。

後のシャルル7世との最初の邂逅、取り巻きに紛れ込んだ将来のフランス王を彼女が見事に見出した逸話は有名ですね。

当時のルーアンの街並みを再現する模型ですが、市場にこしらえられた処刑の場。

このような罪人の服で火刑に処せられたようです。何しろ異端と認定されたわけですから、二度とこの世に戻れないようにと火刑に処せられたうえ、その遺灰はセーヌ河に流されてしまったそうです。

ルーアンの街のメイン道路はもちろんrue Jeanne d'Arc(ジャンヌ・ダルク通り)。国鉄の駅からセーヌへ向けてまっすぐ下っている道ですが、この道がセーヌを跨ぐところにかかっている橋の名もPont Jeanne d'Arc(ジャンヌ・ダルク橋)。

路面電車(トラム)も走る立派な橋ですが、このあたりからジャンヌの遺灰はセーヌに流されたのかもしれないですね。なお、シャルル7世やジャンヌの家族らの尽力で、彼女の処刑裁判は1456年に破棄され、その後ずいぶん時間は経ちましたが1920年には聖人に列せられています。

明日は、ルーアンの教会やその関連施設などをご紹介します。

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アミアンへの小さな旅―③

2007-02-09 01:32:09 | フランス
アミアンの街は第一次、第二次、ふたつの大戦でほぼ全域を破壊されてしまったそうです。従って、歴史的建造物は、かろうじて戦災を免れた大聖堂などごく少数をのぞいて、今に見ることはできません。

大聖堂にしても危なかったようで、1918年に破壊から救ってくれたアメリカ軍・オーストラリア軍への謝意を捧げるプレートが聖堂内に何枚か掲示されています。

戦後の復興、それはどこの国でもどこの街でも大変だったことでしょう。アミアンがその際選択したのは、赤レンガによる街づくりだったようです。

市内いたる所にこのような赤レンガの建物が並んでいます。フランスらしくないですね。オランダ、あるいはイギルスの雰囲気に近いような気がします。それだけアミアンがフランス北部にあり、ベルギー・オランダや、海峡を挟んでイギリスと風土的に近い関係にあるということかもしれません。

こういった公園にしてもいわゆるフランス庭園の幾何学模様にはなっていません。何となく肩の力の抜けた、やさしい表情をしています。

ピカルディ地方最大の都市だけあって、中心街にはラ・ファイエットなどのデパートやブティック、そしてマクドナルド、都市銀行などが軒を並べており、歩行者専用道路もきれいに整備されています。また、大聖堂の少し北にあるサン・ルー地区では、小さな運河を活用した街づくりが行われています。

カフェ、レストランなどが並んだ、いわばウォーター・フロント。運河の中に立つ像がTシャツを着ているのが愛嬌です。

同じ運河沿いでも、こちらは一見、日本の蔵の街。細い水の流れと柳の木がそのような雰囲気を醸し出しているのかもしれませんね。建物はちょっとカラフルでサンフランシスコ風です。

このサンルー地区で見つけた面白いものが、下の看板。

武道教室の案内看板です。空手と居合い。「武道スポーツ80・本部道場」と書かれています。どんな小さい街にも日本武術の教室がある、と言われていますから、人口13万人のアミアンにあるのは当然なのでしょう。マンガやアニメを見ながら武術の稽古をしているのかもしれません。


大聖堂、ジュール・ヴェルヌの家、そして赤レンガの街並み・・・フランスらしさとフランスらしからぬところとを併せ持つアミアン、なかなか素敵な街でした。

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アミアンへの小さな旅―②

2007-02-08 01:17:21 | フランス

アミアンのノートル・ダム大聖堂(Cathedrale Notre Dame d’Amiens)です。ゴチック様式のカテドラルですから、外観はほかの街のノートル・ダム寺院とさほど変わりません。しかし、詳細に見ていくと、いくつかの特徴が浮かび上がってきます。

上の写真は西側のファサードですが、中央に一列に並んだ22体の像。これらはフランス歴代の王たちだそうです。どれが誰なのかは全く分かりませんが、言われてみるとそれなりに威厳があるようにも見えます。

また、同じくファサードで見つけたのが、下の像。

聖職者たちを下から支えている人物ですが、ほかの像は笑ったり楽しそうにしているのですが、これはいかにも苦しそう、嫌そうです。なんとなく『蜘蛛の糸』のカンダタを思い出してしまいました。でも、苦役としてこのような位置で人ひとりを支え続けているのなら、このような表情になるのが却って普通のようにも思えます。楽しそうなのが却って変。苦役なのかどうか、そこからまずは調べないといけないのですが・・・他の寺院にもこのような表情の像があるのか、注意して見ていこうと思います。


そして、内部。この大聖堂を最も有名にし、世界遺産にまでしているのが、この高さです。身廊の高さは42.3メートル。現存しているゴチック様式の聖堂としてはフランスで最も高く、その対比から横幅が少し狭く見えるとはいえ、その空間容積も約20万立方メートルでフランス最大だそうです。


華麗さの点では他の寺院と比較して突出したものではありませんが、ステンド・グラスも美しく輝いています。


そして、その高さに次いで印象に残るのが、サン・ジャン・バチストを描いた像の多さです。

フランス語ではサン・ジャン・バチスト(Saint Jaean-Baptiste)ですが、一般には洗礼者ヨハネ。イエスにも洗礼を授けた古代ユダヤの宗教家・預言者。舞踏の報償としてサロメが領主にヨハネの首を求め、そのため首を刎ねられた話は、オスカー・ワイルドの小説や、多くの絵画でも有名ですね。でも、サロメならヨハネの首を皿の上に乗せて持っているはずなのですが、この大聖堂にある像や絵画では、女性は刎ねられた首を手で直接持っている。

ということは、ここにある作品の女性はサロメではなくて、アッシリア軍司令官の首を刎ねユダヤの街を救ったというユディトになってしまうのですが、そうすると、ヨハネとの関係は・・・

制作者の誤解か、あるいは何らかの意図があるのか、はたまた例外なのか、調べてみたいと思います。


大聖堂東側の公園から見たところです。ファサードの平面な印象と比べ、凹凸があり変化に富んでいて、見ていて飽きません。パリのノートル・ダムにしてもやはり裏からの変化のある眺めが好きなのですが、どうも平坦な道を好きになれないへそ曲がりな性格が反映しているようです。

明日は、アミアンの街の表情をご紹介しましょう。

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アミアンへの小さな旅―①

2007-02-07 02:58:36 | フランス
パリからほぼ真北へ約100Km。急行電車で1時間10分ほどのところにある街、アミアン。ピカルディ地方の中心都市で、人口は、136,000人。この街を有名にしているのは、ユネスコの世界遺産に登録されているアミアンのノートル・ダム大聖堂(Cathedrale Notre Dame d’Amiens)です。この街を紹介するなら当然ここから始めるべきなのでしょうが、いたって私的な関わりからご紹介することを許していただこうと思います。


この建物で思い出の扉が開きます。ジュール・ヴェルヌの家(Maison de Jules Verne)。『八十日間世界一周』や『海底二万里』、『月世界旅行』でおなじみの作家。SFの開祖とか、SFの父とか言われています。しかし、私にとってはなんといっても、『十五少年漂流記』。小学3年頃から卒業まで、何回も読み返しました。何度読んだかわからないくらいです。無人島での人生を本気で考えたものです。その著者ジュール・ヴェルヌが晩年(1882~1900)を過ごした家が、今一般に公開されています。塔の上に取り付けられた宇宙儀のようなものがシンボルになっています。生まれたのが1828年ですから54歳のときからの18年を過ごしたことになります(日本の多くの資料が亡くなる1908年までとしていますが、この資料館のパネルによれば1900年までのようです)。

(2行目に作家が1882年から1900年までここで暮らした、と書かれています)

4階建てですが、執筆に使った部屋は3階の南西の角、この建物で最も小さな部屋です。想像力は世界中へ、海底へ、月へとその翼を大きく広げましたが、そのイマジネーションは6畳くらいの小さな部屋で紡がれたようです。執筆に使った道具はもちろんですが、客間や食堂など、多くの部屋の調度類もなるべく当時を偲ばせるよう保存されています。

そして、いろいろな説明も掲示されています。その中で目に留まったのが、法律の勉強にパリへ出てきたジュール・ヴェルヌを文学へと誘ったのがデュマだった、という説明でした。デュマの勧めで芝居を書き、それがヒット。そこから文学の道へ進むことになったとか。このデュマが、また私にとって思い出の本の生みの親なのです。『三銃士』と『巌窟王』。この2作も夢中で読んだものです。ダルタニアン、アトス、アラミス、ポルトス、そしてモンテ・クリスト伯・・・これら3作にユーゴーの『ああ無情』とゲーテの『君よ知るや南の国』を加えた5作が小学生時代の愛読書でした。デュマとジュール・ヴェルヌに接点があったとは、ここジュール・ヴェルヌの家で初めて知りました。思わぬ発見です。

すぐ近くの公園には、ジュール・ヴェルヌの像が建っています。今でも子供たちに愛読されているのでしょう、このような像になっています。

ナント出身のジュール・ヴェルヌがここアミアンに居を定めたのは、どうもパリの喧騒があわないのと、奥さんがここの出身だったからのようです。レジオン・ドヌール勲章をもらうほどの著名人。アミアンでは市会議員などとしても活躍したそうです。

では、アミアン出身の作家は? ヴェルヌの家で聞いたところ、一人いました。コデルロス・ドゥ・ラクロ(Choderlos de Laclos)、『危険な関係』の著者です。映画をご覧になった方も多いと思います。実は大学のときの仏文講読で1年がかりで原書で読んだのが、この『危険な関係』(Les Liaisons Dangereuses)でした。それなりの分析をしなくてはならず、クラスで発表する前2日ほどは徹夜したのを思い出します。


パンフレットや新聞の別刷りなど、それなりの資料も揃っています。
Maison de Jules Verne
2 rue Charles-Dubois, 80000 Amiens
www.amiens.com/julesverne

おもわぬ思い出の旅となってしまいました。明日は、この街の至宝、ノートル・ダム大聖堂をご紹介します。

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