明るいときに見えないものが暗闇では見える。

映画を消費モノにさせないための咀嚼用ブログ。自己満足風。
それと苦手な文章の練習用。

【ガタカ (1997)】 弱者

2010年09月16日 | 映画



■ 『ガタカ』予告編 (Youtube)


【ネタバレあり】


ガタカとは物語に登場し宇宙開発事業を行っているガタカ航空宇宙局のこと。同時にそのスペルである「GATTACA」はDNAの基本塩基であるGuanine(グアニン)、Adenine(アデニン)、Thymine(チミン)、Cytosine(シトシン)の頭文字の組み合わせでできている。この G/A/T/C の文字は映画のオープニングクレジットなどでも強調され、この作品の主題である「遺伝子」を連想させる。

出産前の遺伝子選別により優れた知力体力外見を持って生まれる「適正者」と、自然出産による「不適正者」に社会差別のある未来。出自を偽りながら宇宙飛行士を目指す主人公の姿から「人生は生まれ持った資質よりもその意志により道が開かれる」というある意味「努力根性モノ」的な感動作と言いたいところだが、本作はもっと深く淀んだ人の内面を映しだす。ハッピーエンドに見えながらもボクには単純にそのようには見えず、幸せとは何かということを強く考えさせられた。



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宇宙船に乗り込む感動的なラストに切ないほど涙が流れる。しかし結局彼はこの社会構造を"精神的に"受け入れて生きている以上、今後も社会的劣等感からは逃れられない。また出自を隠して生き続けることも変わらないのだろう。残念ながらこの勝利と達成は一時的なものでしかないかもしれない。



社会に対する被害者意識を持つことは、自身を「弱者であること」に居座らせることにほかならない。彼の狂おしいほどの努力は積み重ねれば積み重ねるほど自らがまさにその弱者であることをより浮かび上がらせる。そして本来純真であったはずの宇宙飛行士への想いは、反社会への復讐心や自身のその弱者への執着に変わっていく。しかしそうするしかボクには出来ないのだと焼却炉の中で体の毛を剃り続けるさまに、ああその方法では幸せにはなれないのだよ、と見ていて何度も身悶えてしまう。イーサン・ホークの病的なまでの熱演がいとおしい。


宇宙へ飛び立った時の複雑な表情からは単純な達成感や開放感よりも違ったものが見え隠れする。それは自らの闘いから足を洗うことができるという安堵か、目標を達成しても報われない思いへの気づきだろうか。それでもこの作品が単純に美しいと感じることができるのは彼の狂おしい程に一途な思いとそれを支える友情や愛情が作品全体から感じられたからだろう。


彼の行く末はどうなったのだろう。宇宙で死んじゃうのかな?清掃業者に戻って微笑むワンカットが最後にあると個人的には救われる。


非常にクールなSFでレトロな感じが雰囲気良し。サスペンスタッチなところも作品によく合っていると思う。ユマ・サーマンはあまり好みじゃないのだけど本作へのキャスティングは絶品。このあとイーサン・ホークと結婚したんだっけか?にしてもイーサン・ホークはいいなぁ、スゴくいい。あらためてアレコレ未見の作品をアサッてみよう。


噂に違わぬ傑作でした。


ところで最も驚いたのはアーネスト・ボーグナインの出演。おぃおぃこの映画そんな古かったっけと思ったのだけど本作出演時で80才、今年で御年93才とのこと。そして未だ現役でご活躍だそうです。ボクの体の一部は『ワイルドパンチ』や『ポセイドン・アドベンチャー』そして『エアウルフ』で出来ています。m(_ _)m オセワニナリマシタ。



評価:★★★★★



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【東のエデン 劇場版 I・II (2009,2010)】 

2010年09月12日 | 映画



■『東のエデン 劇場版Ⅰ・Ⅱ』予告編(Youtube)


【ネタバレありです】


ボクのメインフィールドが聖地 豊洲ユナイテッド・シネマということもありTVに小説にと追っかけてきた本作。にもかかわらず劇場版二作は結局豊洲では観られずDVDでの鑑賞となったが、TVから数えると一年半越しでやっとすべてを鑑賞することができた。


神山監督ファンには申し訳ないのだけど、まずこれエンターティメントとしては大きく失敗作なのだろうなぁと思う。本作の本来の魅力は、選ばれた12人の個性的なキャラクター達がこの謎のセレソンゲームの中で100億円とジュイスを使っていかに駆け引きし合うかにあったはず。あわせてエデンというセカイカメラを発展させたようなWeb3.0的システムを利用することで創造される新しいコミュニティにより、日本をどう導いていくかという点にも観客は期待したはずである。TV版ではそれなりに満足の行くラストを迎えたといえるが、劇場版といえば全くといっていいほどこの2点が機能していない。滝沢と物部の間にセレソンゲームは全く展開されず、ジミーすぎる密室での会話劇で終わる。しかもゲーム自体、亜東才蔵の一存で「はい終了ね」と乱暴すぎる結末を迎え、エデンシステムに至ってはなんら活躍しない始末。劇場版というのは通常、映像やら展開やらにパワーアップを期待するものだが、TVを下回るジミーさですべてが終焉を迎える。これではあちこちの酷評されている理由も分かる気がする。


ただこれ、あくまでもエンターテイメント活劇としての側面から観た場合の評価だと思う。


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一方この映画を、本作の主題である「閉塞感に覆われた日本という国の立て直し方」に対する問題提起と討論としての場、として捉えれば大変面白く拝見させてもらうことができた。

「今の日本を100億円でどうにかしてみれ」という問いかけ(命令?)に対し、真面目に最後まで取り組んだのは物部と滝沢のみ。物部は政府のリストラと内務省復活による富国強兵という分かりやすい右派思考。滝沢はと言えばもっと個人の力を信じてればなんとかなるよ、というものスゴク楽天主義な考え。一億人のエゴイスト集団を「国民」と記号化する物部に対し、個人個人を大切にしようという左派的希望的観測な滝沢。ただ今の日本にはお金を払ってサービスを享受し、声高に権利を主張する人間しかいないので、お金をもらうこと(サービスを提供する側)が楽しいと思える国にすればいいというのが滝沢の主張だった。で、その行動に答えは出ずに作品は終わるのだけど、これってとっても滝沢らしい終わり方だったと思うし、スゴく共感できる。

亜東才蔵のあのゲームの終え方は全くのブン投げにも見える。ただ最後タクシー内での平澤への告白を咀嚼し直せば納得できるのではないか。ガムシャラにがんばって日本を創り上げてきた"上がりを決め込んだ世代"の代表である彼が、どう見ても頼りなげな若い世代にこの国を任せてもよかろうと思ったのだ。もちろんソリューションも欲しかったのだと思う。しかしMr.OUTSIDEはが最後に選んだ答えはこの国の「希望」だったのだ。

おネエに向かって滝沢が言う「なんとかなんじゃない?」っていう言葉。これ自分を信じて、自分に責任を持っている人でないと言えない言葉なんだよね。皆がこの日本の将来と若い世代を信じてみようという気持ちになったこと、これが本作の本当の魅力に違いない。

。。。と、このように二つの相反する点が共存しているところに、この映画の評価が真っ二つにわかれる理由がありそう。まぁ本編で東京にミサイルぶち込んだり、裸の二万人のニートがコンテナで運ばれてきたりとハデなことやっちゃってるだけに、劇場版はあまりにもジミー。アニメであれば本来「絵」として表現されるべきことを全部キャラに語らせてみたり、ジュイスの受理した「この国の王様」さえもリセットされてしまったことには確かに異議申し立てもしたい。まぁエンターテイメントとの共存を果たしてこその名作でしょうから、結果的には失敗なのかもしれず。


ただ団塊世代からのバトンや全共闘運動の意味、お金とは何か、ニートの存在意義、この時代ITの果たす役割、自分を信じることとは、などと内面に広げれば広げるほど大変楽しめる映画だったと思う。たぶんTVで十分完結しているものの、語り切れなかった思いをそのまま滝沢にしゃべらせてしまったのだろう。これが滝沢から、というか監督からボクらのような世代へのメッセージであって『東のエデン』とはつまりはこういう作品だったのだ。



「ノブレス・オブリージュ。
 この作品からちょっとの勇気を得られたたくさんの人たちがこの国の救世主たらんことを。」



評価:★★★★☆


まあミサイル撃てちゃうぐらいだからなんでもありなんでしょうが、日本中の携帯にIPフォンアプリを強制ダウンロードって(^_^;


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【ハードキャンディ(2005)】 縮み上がり

2010年09月07日 | 映画


■『ハードキャンディ』予告編(Youtube)


【ネタバレありです】


インセプション』を観て、アリアドネ役のちっちゃいエレン・ペイジちゃん初主演作『ハードキャンディ』が観たくなった。当時、衝撃的な内容が話題だったので興味津々で鑑賞。


基本は密室の会話劇。ほとんど全編を役者二人のアップとその会話で進むという作りにもかかわらず、最後まで緊張感を持続できているのはスゴイ。

そして完全に男性向けの作品。男性でないとあの恐ろしさは疑似体験できないだろうから、残念ながら女性には面白みも衝撃度もない作品かもしれない。まあ例の去勢シーンは残念ながら予告編などの事前情報で流れちゃってはいるのだけど、二人の高い演技力が見事にあぶら汗を感じるほどの恐怖を演出している。パトリック・ウィルソンの鬼気迫る必死さは時に笑ってしまうほどであったのだけど、やはりエレン・ペイジの幼ない無邪気さと狂気の共存する表情は女優として末恐ろしいくらい。映画冒頭で誰もが抱くであろう「垢抜けない少女」というイメージだった彼女が、徐々にエロさと恐ろしさを醸しだしていく様は想像以上に魅力的だ。日本の俳優で言えばその顔も含め大竹しのぶさんに近い。そういう意味でもクセのある魅力なのでそれを全く感じない人もいるかもしれない。


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ジェフとヘイリーのキャラクターが終盤まで明確にならないため、どちらが被害者か加害者かが明確には分からず終始スリリングに話は進む。ただヘイリーの狂気すぎる復讐の仕方から、感情移入してしまうのは当然ジェフの方である。もちろん男性観客ならなおさらだろう。たとえアメリカにおける小児性犯罪者(ペドフィリア/エフェポフィリア)に対する罪が想像以上に重いものであったとしても、彼女の狂気の復讐はワザとヤリ過ぎと思わせるように作られており、それが彼女の素性と正体への興味を最後の最後まで引っ張らせる。

で、結局ジェフは犯人(の一味)であることは分かるのであるが、彼女の素性は明かされない。あえて詳細を明かさないことが想像力を刺激し作品の魅力につながるとはあるが、本作ではそれはプラスに働いていないのが残念。結局彼女は何者だったのか、ここまでレベル高く引っ張ってきたのに何も提示されず腑に落ちない。あわせてジェフが元カノに執着する理由も、最後は死ぬことができたのかさえも分からない。消化不良にもホドがある。そのため「なーんだただのショックシーン見せたかっただけ映画か」となってしまい、あれだけガチンコの演技勝負とスタイリッシュな会話の応酬に興奮していたことが最後で霞んでしまった。モッタイない。

個人的には全体として被害者の娘の復讐だということで統一しておいて、最後に実はヘイリーは誰とも関係なく、出会い系サイトで獲物を漁るドSのエクスターミネーターだということが分かるのが気分よく終われてステキ。ラストカットでヘイリーがウィンクでもしてくれれば上等。実際チンコ切ってないんだから、これぐらい爽やかでもええやろ。

まあ全体的に小気味いい演出とセンスのよい色彩、あわせて二人の役者のスタイリッシュな会話劇と最高の演技には十分な満足感あり。終わりの10分を自分好みに塗り替えて観ると楽しいかも。

ところでボクが最も怖かったのはディスポーザーです。


評価:★★☆☆☆

パトリック・ウィルソンは『ウォッチメン』のフクロウでしたか。外国人はハゲてもイケメンなのが羨ましいね。


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【ファニーゲーム (1997)】

2010年09月04日 | 映画


■『ファニーゲーム』予告編 (Youtube)

リメイクの『ファニーゲーム∪SA』でなくオリジナルの方を鑑賞。
上映当時はシネカノンにしては下衆な作品を配給しているなと思っていたのですが、DVD化はアルバトロスだったので安心w。

『わらの犬』的作品と思って鑑賞したのですが、ははぁなるほどボクは全くのハネケ監督の術中にハマったのだと思いました。

別荘へ遊びに来た家族が、見知らぬ若者二人の不条理な暴力により蹂躙されていくという作品なのですが、話には全く救いがなく、見事に観客の神経を逆撫でし不快にさせるだけの映画に仕上がっています。であれば単にクズ映画扱いになってもよさそうなものなのですが、カンヌでパルムドールにノミネートされ、各国でも話題に、ついにはハリウッドでリメイクされたという点、なるほどただのクズ映画ではないなと思いました。

通常このような物語の場合、主人公は不条理な暴力に耐えに耐え、最後はもう辛坊たまらんと犯人に復讐する、というのが映画の定石であるはずです。前出の『わらの犬』はまさにその代表で、我々観客は不本意ながらもその復讐にカタルシスを感じてしまう。つまり「暴力には暴力を」を容認し(させられ)、映画という仮想空間の中でではあるのだけどそれを娯楽化してしまっています。またその暴力を振るう側にもそれなりの理由、例えば過去に虐待にあっているなどのような、理解可能性を提示したりします。


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しかしこの映画はそれらすべてあざ笑うように振る舞います。彼らの暴力には意味がなくゲームを楽しむように進みます。その上導入部の卵のイチャモンからして全く犯人への同情心を起こさせない。デブの方の過去には同情すべき何かがあるようですが、それも本当か嘘かはっきりせずどうでもいいかのようにオマケとして付け足してあります。また犯人はカメラ目線で話しかけます。「どっちに賭ける?」「まだ劇場映画としては尺が短いよね?」などと観客をイラつかせ煽るのです。そしてついには"リモコン"という映画としての完全なる反則技までをも使って、観客が映画に望むカタルシスを奪い去ります。ほ~ら君たちの思うようにはならないよ、と。

「暴力映画とそれを楽しむ観客」という構図に対し真っ向から疑問を投げかけ(というか茶化し)、完膚なきまでに観客をたたきのめす。それこそがこの映画の評価される理由なのかと思います。『わらの犬』のペキンパーが観たらどう思うでしょうねw。

ところで監督が同じというリメイク『ファニーゲームUSA』ですが、予告編を見る限り、カット割りからなにから完全にコピーして作っているように見えます。そのため見比べる必要はなさげですが、奥さんがナオミ・ワッツだというだけで観たい自分がここにいますw。ただこんな類の映画ですから、有名俳優を使っているだけで不利と思いますし、全編に東欧映画のイヤ~な感じの流れるオリジナルの方がより本作の趣旨を表現できているだろうと思います。

映画を語る上でこの実験的な映画は一度見ておくべき作品かと思います。ただ二度とは見たくはないでしょうね。


評価:なし

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こんな映画をノミネートするカンヌにより一層信用ならなさを確信w。