明るいときに見えないものが暗闇では見える。

映画を消費モノにさせないための咀嚼用ブログ。自己満足風。
それと苦手な文章の練習用。

【ディア・ドクター】 細い目の奥に見えるもの

2009年09月28日 | 映画
多くの映画ファンと同様ボクも西川監督の前作『ゆれる』に衝撃を受けたクチだ。だからなのか本作『ディア・ドクター』にはちょっと不満というか違和感がある。なんだろう、端的に言えば話が分かり易すぎるのだ。別に難解なドラマを観たいワケではない。ただあらゆる場面でヒリヒリするほどエッジを効かせ、まさに"ゆれる"感情を描いていた前作に対し、本作は伊野をはじめ登場人物たちの気持ちの表れが簡単すぎるなぁと感じたのだ。この感覚以前にも感じた。そうそう『おくりびと』に同じだ。

例えば冒頭のご臨終シーン。心臓マッサージを試みようとする伊野先生に対し、皆の目配せやアクションが大げさで分かり易すぎる。例えば急病患者を助けるシーン。大半の人には迫真の演技に見えるシーンかもしれないが、なんか感情表現がストレートすぎるのだ。世界興行を見据えて、外国人向けにちょっと分かり易い演出にしたのかなぁと勘ぐってしまったりもする。

と批判から入ってしまったがそれも西川監督に対する期待が高いが故のこと、ご勘弁願いたい。しかし観賞直後はこのような感覚でいたが、少し考え直してみてやはりボクの見方に問題があるのだろうと思われた。前回『ゆれる』はドロドロとした人のネガティブな内面を見つめることで性悪説を描いた映画で、この『ディア・ドクター』はやっぱり人って愛すべき存在だなぁという性善説を描いた映画。つまり全く反対のアプローチの映画だと思う。そのためボクの期待したような微妙な感情、つまり人の負の部分を見え隠れさせることで"ゆれる"演出を狙った前作とは違い、本作では全体的に「ワシって小心者でいい人やねん(鶴瓶師匠風に)」をストレートに描く結果となったのだろう。ただもうちょっと「ワシって本当は意外と悪人やねん(鶴瓶師匠風に)」という部分が見え隠れする演出を強めてみてもよかったのではと思われた。その方が西川節が出たのにね。

ところで作品を思い返していて「あうっ」と気づくところがあった。まだ映画冒頭の研修医と伊野が始めて顔合わせするシーン。彼は笑いながらこう言っていた「僕、免許ないのよ」。映画の中では"車の免許がない"という意味で使われているこのシーン、ああそうか、伊野はもうこの時点で告白したくてしょうがなかったのだ。3年もの間、偽医者を演じ人も自分もダマし続けていたことに既に疲労困憊し一杯一杯だったのだ。柔和な笑みの奥、細すぎて見えない鶴瓶師匠の目の奥にはその時何が映っていたのだろう。いつまでもこんな状態が続くわけがないという焦りか、人々をだまし続けることへの良心の呵責か、それとも神のように崇められていることから来るひと時の恍惚か。この1シーンの意味を考えただけで、全編モヤっとしていたものがなんだかパッと晴れた気がした。

この作品、伊野の行動には賛否評論だろう。偽医者という行動事態、絶対許せない人。心情的には許せる人。あれはあれでありなんじゃないかと思う人。『ゆれる』は映画の中でぶつかり合う兄弟の感情のゆれを観客が疑似体験する映画だったのに対し、本作はストーリーや心理描写自体を分かりやすくすることで、そこから浮かびあがってくる「何が善で何が悪か」という問いに対し観客自身の心がゆれるのである。

なんだかしたり顔で観てツマンナイかも、、と能書き垂れていた自分が恥ずかしくなった。ボクのように『ゆれる』が好評価だった人は気をつけて観るべし。全く別の映画として新たな気持ちで見て欲しい。やはり西川監督はタダ者ではないと思う。応援してまっせ。


評価:★★★★☆


しかぁし現実の鶴瓶師匠に何か腹黒いものを感じてしまっているボクは、伊野心情を無駄に勘ぐってしまったところもあり、ちょっと残念だったかもなぁ。作品のキャスティングミスというか映画を観る側のボクの適正の問題か?


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【サブウェイ123 激突】 牛乳でかい

2009年09月13日 | 映画



地下鉄ハイジャックものと聞いて、数年前の某湾岸署の踊るサンタマリア映画を思い出した。あれは東京メトロ東西線(を架空の路線に置き換えたもの)が事件の中心で、自分の家のすぐ近くが舞台であるという希少な特典があったため妙に楽しみながら観ることができた。

本作は「サブウェイ・パニック(1975)」のリメイクとのこと。オリジナルは名作の誉れ高く何度かTVやWOWOWで放映されたと記憶しているが、幼少のみぎりに観たような観ないような、と全然覚えていない(^_^;。なんにせよ男臭そうな骨太サスペンスをジョン・トラボルタとデンゼル・ワシントンでってんだから期待しないワケにはいかない。個人的には今年一番を狙うぐらいのつもりで観に行ったのが、期待値が高すぎたのかそれが間違いだったらしい(涙。そこそこ楽しめる作品ではあったが、見終わった後に釈然としない点が多い。

大きく分けて2つ気に入らない点がある。
一つは全体的な話のアラやツメの甘さ。二つ目は登場人物の関係性の希薄さだ。

本作は1974年の作品のリメイクのため、たぶんオリジナルにはなかった新テクノロジーを新たに取り込むことで現代版への脱皮を図っているのだろう。携帯電話、インターネット、ビデオチャットに動画サイトなどだ。しかしせっかく冒頭から頻繁に登場するビデオチャットも犯人の一人を特定しただけで、すっかりこれが問題解決の糸口だと思っていたのに肩透かし。インターネットもライダーが某サイトを閲覧するために利用しているだけで、話の中では結局あまり有効活用されたようには見えない。1000万円も車で運ばずに、FRBが承認した時点で近くの銀行口座に振り込んでそこから出せばいいのにと思ってしまう。オリジナルストーリーを壊さない配慮なのだろうが、時代背景に対するテクノロジーの利用がオマケにしかなってないように感じるのは気のせいか。また最新の銃器を装備し、精鋭として鍛えられているはずのSWATもまさかとは思うあの体たらく。また犯人達の最終的な逃走計画も甘すぎて何考えてんの?って感じ。ガーバーがいなくてもつかまるでしょあんなの。逃げ場所は限られるし、普通今時お金にも発信機とかつけるぐらいのテクノロジー使うだろうし絶対逃げ切れんと思われ。

また、登場人物の個人個人は非常にキャラも際立っているのであるが、お互い同士のからみが非常に少なくドラマチックさが無い。ネゴシエーターとガーバーのタッグによる絶妙な交渉や、同僚の彼のピンポイントアシスト的な場面などあれば話に深みが出た。またライダーの正体は結局市長が気づくのであるが、各人との会話から導き出されたものというよかは、全くの思いつきっぽい。まあ一番不満なのは、本来クレバーに描かれるべきはずのライダーがなぜあんなに残虐でエキセントリックなのか納得できてないことと(身分を偽るための演技というにはムリがある)、実はお互いが罪を背負っているというガーバーとの関係がほとんどシンクロしないに等しいこと。最後の直接対決の意味の無さに釈然としなかった人も多いだろう。それともボクの読み取り不足だろうか。

逆に楽しめた点は映像表現。オープニングから冒頭にかけてのハイジャックシーンはサスペンスもののつかみとしてはこれ以上なく秀逸。トニー・スコットのスタイリッシュな映像とともにハイジャック犯が手際よく乗員乗客を制圧していく様には、これから起こるであろう深刻な事態に対し否がおうにも期待値が高まる。

また本作の一番の見せ場はガーバーの告白シーン。ライダーとの丁々発止の交渉の中、ガーバーが人質の命を助けるために自らの秘密を吐露する場面は異常な緊張感があった。ガーバーは自らの正義を問われ葛藤し、そして無理矢理心をこじ開けられ苦渋の決断をする。二人のベテランの演技をまざまさと魅せつけられる印象的なシーンだ。できればこのような頭脳交渉戦のまま映画の最後まで引っ張って欲しかったものである。

全体的には平均点以上であるのに、なんとなく消化不良感の大きい作品。大好きな二人が出ているのに残念。

ガーバーは結局普通の市民に戻り牛乳を買って地下鉄で家路につく。個人的には彼が市長にアレを言われた時点で後ろを向いて「ペロッ」と舌を出し、ライダーのマネーゲーム結果もなんやか手に入れているみたいな、ひねったラストが観たかった気もする。

またトラボルタもこの手の悪役に見飽きた感が出てきたので、トラボルタとワシントンを逆のキャスティングにしてみては?という案もあり。



評価:★★☆☆☆


牛乳を「大きいの/小さいの」と訳していたがセリフでは「gallon/half gallon」。大きい体の人たちは牛乳もガロンで買うのだなぁとツマラナイとことに関心。(1 gallon = 3.785411784 ℓ(米))

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【ノウイング】 毛量少し多め

2009年09月10日 | 映画
【ネタバレあり】

『月の輝く夜に(1987)』を観て以来なぜがニコラス・ケイジが気になる。あの濃ゆい顔、目を見開いて深刻な顔をするワンパターンな演技、作品によって増減する髪の毛など毎回楽しみにしている自分がいる。その後、ニコラス映画は何本かを見逃したのみでほとんど観ていると思うので、軽く20年は濃い顔とお付き合い続けてるワケだ。(と思って調べてみたら、ええっ『グラインドハウス(2007)』に出てたの!って気づいてビックリ(@_@)。)

それはさておき、そのニコラスの最新作『ノウイング』。めずらしく劇場での予告編以外は予備知識なく拝見。派手な飛行機墜落シーンがウリらしいのと、エメリッヒの『2012』の予告編と一緒に見たため、すっかり普通のディザスタームービーに違いないと思いこんでいた。ところが残念なことに観始めて早々スットコ映画である事に気づいてしまうw。これは我らが迷作『フォーガットン』やシャマラン作品に通じる雰囲気あり!世間的にどうあれ負け映画好きな個人的にはアタリの部類だw。本作を一言で言えば、一昔前の旧約聖書系な映画を今風のアセンションで味付けしたもの。今時大金集めてこんな映画作ること事態がアホらしくて好き。

序盤、数字の羅列に関する謎解きは非常にスリリング。ネット検索で謎を紐解いていく様はかなり好み。タイムカプセル、ささやく声、なぞの石、思わせぶりな伏線の張り方も常套手段ではあるが期待値を高める。黒づくめの男たちが出てきた時点でちょっと雲行きが怪しくなり、オチも読め始めてしまうがテンポもよく一気に魅せる。太陽フレアがどうこうといった類の話しもエハン・デラヴィのサイン本を持っている私的にはかなりのツボw。全般的にはかなり好印象だと言えよう。

しかし飛行機が落ちてからの後半、謎の男達が全面に出てきてからはしっかり失速w。せっかくの数字の謎解きも説得力薄くヒネリも弱い。少女の母親も頭悪すぎて全く感情移入できず。さらに空から飛んでくるアレも既視感アリアリでいよいよB級SFに。合わせて最後にこれでもかと示される選民思想もイカしてる。最近のハリウッドであれば有色人種への配慮がなされ(すぎ)ていてしかるべきものだが、白人のツガイのみ(アダムとイブなのだろう)が助けられ、あとの人たちはみんなさようなら。2人の後ろに飛んでいるロケットが世界中で別の人種も助けたのだとも言いたげに見えるのだが、ノアの箱舟だとすればあれは動物達だしな。今時の世界市場向けの娯楽SF大作であのラストとはなかなか見上げたものだ。がっつり笑えるくらい宗教色が濃いのに、大胆な解釈が神への冒涜になりそうで心配。ドコに対するアピール映画なのか微妙に不明だ。

とはいえ客寄せの添え物とも言えるディザスターシーンは近年まれに見る出来。1テイクで見せる旅客機墜落現場での地獄絵図や、地下鉄突っ込みシーンでの人がモノのように大量にすっ飛ばされていく様など、CG職人が丹精込めてチマチマ作った悪趣味映像には脱帽する。スロー再生で今一度確認したいぐらいだ。


今年の正月に観たキアヌの『地球が静止する日』やシャマランの『サイン』と比較してみると面白いかも。

評価:★★☆☆☆

正直胸を張ってまでのオススメしかねるが、ニコラスの髪量が気になる方はどうぞ。

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