多くの映画ファンと同様ボクも西川監督の前作『ゆれる』に衝撃を受けたクチだ。だからなのか本作『ディア・ドクター』にはちょっと不満というか違和感がある。なんだろう、端的に言えば話が分かり易すぎるのだ。別に難解なドラマを観たいワケではない。ただあらゆる場面でヒリヒリするほどエッジを効かせ、まさに"ゆれる"感情を描いていた前作に対し、本作は伊野をはじめ登場人物たちの気持ちの表れが簡単すぎるなぁと感じたのだ。この感覚以前にも感じた。そうそう『おくりびと』に同じだ。
例えば冒頭のご臨終シーン。心臓マッサージを試みようとする伊野先生に対し、皆の目配せやアクションが大げさで分かり易すぎる。例えば急病患者を助けるシーン。大半の人には迫真の演技に見えるシーンかもしれないが、なんか感情表現がストレートすぎるのだ。世界興行を見据えて、外国人向けにちょっと分かり易い演出にしたのかなぁと勘ぐってしまったりもする。
と批判から入ってしまったがそれも西川監督に対する期待が高いが故のこと、ご勘弁願いたい。しかし観賞直後はこのような感覚でいたが、少し考え直してみてやはりボクの見方に問題があるのだろうと思われた。前回『ゆれる』はドロドロとした人のネガティブな内面を見つめることで性悪説を描いた映画で、この『ディア・ドクター』はやっぱり人って愛すべき存在だなぁという性善説を描いた映画。つまり全く反対のアプローチの映画だと思う。そのためボクの期待したような微妙な感情、つまり人の負の部分を見え隠れさせることで"ゆれる"演出を狙った前作とは違い、本作では全体的に「ワシって小心者でいい人やねん(鶴瓶師匠風に)」をストレートに描く結果となったのだろう。ただもうちょっと「ワシって本当は意外と悪人やねん(鶴瓶師匠風に)」という部分が見え隠れする演出を強めてみてもよかったのではと思われた。その方が西川節が出たのにね。
ところで作品を思い返していて「あうっ」と気づくところがあった。まだ映画冒頭の研修医と伊野が始めて顔合わせするシーン。彼は笑いながらこう言っていた「僕、免許ないのよ」。映画の中では"車の免許がない"という意味で使われているこのシーン、ああそうか、伊野はもうこの時点で告白したくてしょうがなかったのだ。3年もの間、偽医者を演じ人も自分もダマし続けていたことに既に疲労困憊し一杯一杯だったのだ。柔和な笑みの奥、細すぎて見えない鶴瓶師匠の目の奥にはその時何が映っていたのだろう。いつまでもこんな状態が続くわけがないという焦りか、人々をだまし続けることへの良心の呵責か、それとも神のように崇められていることから来るひと時の恍惚か。この1シーンの意味を考えただけで、全編モヤっとしていたものがなんだかパッと晴れた気がした。
この作品、伊野の行動には賛否評論だろう。偽医者という行動事態、絶対許せない人。心情的には許せる人。あれはあれでありなんじゃないかと思う人。『ゆれる』は映画の中でぶつかり合う兄弟の感情のゆれを観客が疑似体験する映画だったのに対し、本作はストーリーや心理描写自体を分かりやすくすることで、そこから浮かびあがってくる「何が善で何が悪か」という問いに対し観客自身の心がゆれるのである。
なんだかしたり顔で観てツマンナイかも、、と能書き垂れていた自分が恥ずかしくなった。ボクのように『ゆれる』が好評価だった人は気をつけて観るべし。全く別の映画として新たな気持ちで見て欲しい。やはり西川監督はタダ者ではないと思う。応援してまっせ。
評価:★★★★☆
しかぁし現実の鶴瓶師匠に何か腹黒いものを感じてしまっているボクは、伊野心情を無駄に勘ぐってしまったところもあり、ちょっと残念だったかもなぁ。作品のキャスティングミスというか映画を観る側のボクの適正の問題か?
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例えば冒頭のご臨終シーン。心臓マッサージを試みようとする伊野先生に対し、皆の目配せやアクションが大げさで分かり易すぎる。例えば急病患者を助けるシーン。大半の人には迫真の演技に見えるシーンかもしれないが、なんか感情表現がストレートすぎるのだ。世界興行を見据えて、外国人向けにちょっと分かり易い演出にしたのかなぁと勘ぐってしまったりもする。
と批判から入ってしまったがそれも西川監督に対する期待が高いが故のこと、ご勘弁願いたい。しかし観賞直後はこのような感覚でいたが、少し考え直してみてやはりボクの見方に問題があるのだろうと思われた。前回『ゆれる』はドロドロとした人のネガティブな内面を見つめることで性悪説を描いた映画で、この『ディア・ドクター』はやっぱり人って愛すべき存在だなぁという性善説を描いた映画。つまり全く反対のアプローチの映画だと思う。そのためボクの期待したような微妙な感情、つまり人の負の部分を見え隠れさせることで"ゆれる"演出を狙った前作とは違い、本作では全体的に「ワシって小心者でいい人やねん(鶴瓶師匠風に)」をストレートに描く結果となったのだろう。ただもうちょっと「ワシって本当は意外と悪人やねん(鶴瓶師匠風に)」という部分が見え隠れする演出を強めてみてもよかったのではと思われた。その方が西川節が出たのにね。
ところで作品を思い返していて「あうっ」と気づくところがあった。まだ映画冒頭の研修医と伊野が始めて顔合わせするシーン。彼は笑いながらこう言っていた「僕、免許ないのよ」。映画の中では"車の免許がない"という意味で使われているこのシーン、ああそうか、伊野はもうこの時点で告白したくてしょうがなかったのだ。3年もの間、偽医者を演じ人も自分もダマし続けていたことに既に疲労困憊し一杯一杯だったのだ。柔和な笑みの奥、細すぎて見えない鶴瓶師匠の目の奥にはその時何が映っていたのだろう。いつまでもこんな状態が続くわけがないという焦りか、人々をだまし続けることへの良心の呵責か、それとも神のように崇められていることから来るひと時の恍惚か。この1シーンの意味を考えただけで、全編モヤっとしていたものがなんだかパッと晴れた気がした。
この作品、伊野の行動には賛否評論だろう。偽医者という行動事態、絶対許せない人。心情的には許せる人。あれはあれでありなんじゃないかと思う人。『ゆれる』は映画の中でぶつかり合う兄弟の感情のゆれを観客が疑似体験する映画だったのに対し、本作はストーリーや心理描写自体を分かりやすくすることで、そこから浮かびあがってくる「何が善で何が悪か」という問いに対し観客自身の心がゆれるのである。
なんだかしたり顔で観てツマンナイかも、、と能書き垂れていた自分が恥ずかしくなった。ボクのように『ゆれる』が好評価だった人は気をつけて観るべし。全く別の映画として新たな気持ちで見て欲しい。やはり西川監督はタダ者ではないと思う。応援してまっせ。
評価:★★★★☆
しかぁし現実の鶴瓶師匠に何か腹黒いものを感じてしまっているボクは、伊野心情を無駄に勘ぐってしまったところもあり、ちょっと残念だったかもなぁ。作品のキャスティングミスというか映画を観る側のボクの適正の問題か?
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