「伝説のSF小説の映画化!」という触れ込みで一部話題の『エンダーのゲーム』を観ました。
昔は映画に対して斜に構えていたというか、特にSFであればアラ探しをして楽しむという観方をしていた時期が長かったりします。
しかし年を経てきた今となっては、作品プロットさえ良くできていれば枝葉末節など結構どうでもよく、勝手に脳内補完をし楽しめるようになりました。
それは子供の頃の“想像力をふくらませていく”というような夢のある感じではなく、“ああ監督の言いたいこと、撮りたい画はもうちっとこうなのだろう。(だからそう思って観てみよう)”とか、“このプロットであれば、きっとさらに素晴らしいサブストーリーや深みがあったはずだろう。(だからそう思って観てみよう)”といったおとなの寛容さや前向きな諦めといった感じです。
お話はと言えば、“一人の類稀なる才能を秘めた少年が、異星人の侵略を阻止するため仲間とともに幹部養成学校に放り込まれ、さまざまな葛藤を経て成長していく話。”です。なるほど『ガンダム』やら『エヴァ』やら、日本のアニメやコミックに影響与えまくりなプロットです。さすが伝説の小説と言われるだけはあります。
ところで既にSF作品のアイデアというのは小説という形で70年代までに出尽くしたと言われています。
少年時代にハヤカワSF文庫をそこそこ読み、アニメ、コミックそして映画で二次創作物、三次創作物を浴びるように観て育った世代である我々SF映画好きが、どんな作品を観てもそうそうオリジナリティや驚きを得ることが難しいのはもはや当然の悲劇です。さらに昨今のリメイクブームはそれを加速させています。
観たような映像、たぶん大きく端折られているであろうダイジェスト感たっぷりなストーリー、おざなりな人物描写、そんな作品群たちが群れをなして襲ってきます。
さてそこで我々に必要となってくるのは何か?
前述の“おとなの寛容さ”です。
これは原作を読んでいないからこそできる芸当かもしれません。しかしそんな映画の見方をできる自分を最近は結構面白いと思っていたりします。
そういう観方ができるようになると“ちいさな幸せさがし”も上手になります。
本作での“ちいさな幸せ”は
・主人公エンダーのクレバーさと凶暴性が自身の中で葛藤する表情の演技の巧さ。
・まさに未来のゲームと言える、司令室からのコントロール場面。
・エンダーのゲーム?というオチ。
(エピローグの方は映画的にはぶった斬りでもよかたかも。)
です。って、3つかよっ!
この映画を褒めているようにはとうてい見えない文章を書いてきてしまいましたが、決してそんなことはありません。“おとなの寛容さ”さえ持てば『ガンダム』や『エヴァ』並の壮大な作品と肩を並べること請け合いです。
いや、ほんとにソコソコ面白いSFです。今の時代に生まれたのが少し残念なだけです。
・・・さあ原作読むか。
ところで<サード>という呼ばれ方はきっと<ニュータイプ>的なものなのだろうと勝手に脳内変換していたのですが全然違いました。少子化政策によって2人の子どもしか許されない時代の3人目の子が<サード>ということらしいです。そんな境遇にあるエンダーは差別やいじめに合うべくして合っていた、ということらしいです。そんな説明あったっけ?まあそれを知って少し話に深みを感じられ、ちいさな幸せが増えました。
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