慶喜

心意気
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「高千穂峡」「白杵の山峡」「笠沙の御前」「縄文⇒弥生」

2024年06月18日 | 歴史
🌸高天原は高千穂峡2

古事記で語られる「霊異ぶる嶺」
 ☆邇邇芸命が天降った場所、『古事記』のいう「高千穂のくじふる嶺」 
 *霧島火山群のなかにそびえ立つ高千穂峰と
 *臼杵の高千穂峡の二説に分かれている
 ☆しかし「古事記」の内容からすると
 *明らかに稲作の渡来と伝播から、かなり後に生まれた説話である
 ☆山の幸と、鹿児島湾の海の幸の両方に恵まれたこのあたり一帯
 *縄文人にとってまことに暮しやすい風土であったろう
 ☆高千穂の嶺に降臨した天孫邇邇芸命そこから眺めた地形を語る
 *霧島山の中腹から、鹿児島湾と周囲を見下ろした眺めに近い
 *高千穂峰の山頂から見ると邇邇芸命の詔にぴったり符合する景色だ

 ☆筆者は、邇邇芸命先ず霧島の高千穂峰に天降り
 *やがて白杵の山峡の高千穂に遷ったのに相違ないと想定する

白杵の山峡は、「笠沙の御前」というアンテナ地
 ☆高天原から天降った邇邇芸命、地上で最初に経験する劇
 *笠沙の御前における、国津神の女木花之佐久夜毘売との出会い
 *ここはどうしても薩摩でなければならない
 *しかし、邇邇芸命は「笠沙の御前」の地名を挙げた
 ☆「笠沙の御前」は、対馬海峡を通って
 *朝鮮ら度って来る外つ国の人と物、情報と文化等に
 *素早く集中して接することができる南九州の最先端
 *いわば海外に向けられたアンテナにあたる場所
 ☆北九州の宗像は、胸に鱗形の入墨をした海部の子孫
 *『魏志倭人伝』の、 つぎの記載がある
 *成人も子供も、身分の上下に関係ないとある
 ☆「笠沙の御前」が、これら中国の史書と
 *神代篇に「海幸彦」と「山幸彦」の対立の劇をふくむ
 *『古事記』との接点にあたる場所のようにもおもわれる

天孫邇邇芸命の子どもたち
 ☆長子火照命は海幸彦(漁師)末子火遠理命は山幸彦(猟師)で暮らす
 *双方とも田も耕しており、両者の対立と抗争、山幸彦の勝利となる
 ☆この劇の背景には、縄文から弥生への
 *時代の変化も隠されていたのでは
 *何千年にもわたって栄えた縄文文化は
 *稲作の渡来によって、過去の遺物となって行く
 ☆陸路より水路の交通が主であったころの古代人
 *後世の人間より遥かに積極的に、舟で航行した
 ☆想定される航路を辿って、日向灘の沿岸沿いに北上すると
 *舟は河口部の延岡に達し、五ヶ瀬川の流れを辿って行けば
 *その先にもうひとつの「天孫降臨」の伝説の地
 *高千穂峡が現われる
                       (敬称略)
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⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳出典、『「古事記」の真実』








「高千穂峡」「白杵の山峡」「笠沙の御前」「縄文⇒弥生」
(ネットより画像引用)

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