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慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

化野念仏寺(聖地とあの世の奇怪な関係)

2021年02月02日 | 聖地
🌸遺体が捨てられる場所だった

⛳埋葬方法の移り変わり
 ☆現在日本全国の火葬の割合は、99%超え
 *海外諸国と比べると火葬の比率高い
 ☆火葬の歴史が 一般化したのは明治時代以降
 *明治時代の終わりまで、火葬は1部の権力者や富裕層のみ
 *一般庶民は土葬や遺棄葬
 *その為、化野念仏寺ように死者の供養寺院が建てられた

⛳風葬地を供養する寺
 ☆平安京周辺の山麓や平野に、三つの葬送地があった
 *その一つが、現在の京都市右京区にある「化野」
 *化野念仏寺は、この地に葬られた人々を弔うために建立された
 ☆遺棄された死体は、野生動物の恰好の餌となった
 ☆疫病や飢饉が起これば。平安京の道端は、死体があふれる状況
 *化野の惨状は世の儚さより、「化野の露」といわれた
 ☆化野念仏寺の周辺
 *供養に使った石仏が出土する
 *化野が、巨大な埋葬地であった事実を物語っている

戦後に始まった千灯供養
 ☆平安時代の終わり頃には風葬は減る
 *石塔を墓石替わりにした土葬が増える
 *葬送の地であつた化野念仏でも石搭は増えた
 ☆「千灯供養」は、石塔に蠟燭を灯して死者を供養する
 *千灯供養の始まりは戦後、無縁仏の冥福と転生を願う儀式
 ☆石塔群と十三重の塔に「西院の河原」という呼び名もある
 ☆石塔付近、心霊スポットのように語られることもある
 ☆しかし、この寺に呪いや怨霊に関する伝承は一切ない
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
⛳出典、「本当は怖い日本の聖地」




化野念仏寺(聖地とあの世の奇怪な関係)
「本当は怖い日本の聖地」記事より画像引用)
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「ムカサリ絵馬」の慣習(19)(聖地のあの世の奇怪な関係)

2021年02月01日 | 聖地
🌸あの世で幸せを祈った死後婚

⛳死後の結婚を表す絵馬
 ☆山形県天童市の若松寺、縁結びのお寺として有名
 *境内の「絵馬堂」に死後の結婚(冥婚)を表す「ムカサリ絵馬」がある

 ☆「ムカサリ絵馬」は、江戸時代から明治時代の間に始まつた風習
 *海外にも死後婚の風習はある
 *日本の場合、未婚の死者を供養する意味合いが強い
 *遺族が「せめてあの世で結婚できますように」と本納されている
 ☆死者の冥福を祈る風習としてされたムカサリ絵馬
 *本納時には、死者本人の名前や享年も記す
 *死者の結婚相手として、実在の人物は書いてはいけない
 *生きている人の名前を書くと、その人まで冥府に引きずり込む
 ☆東北の人々にとり、死者は弔いの対象であるが
 *生者を死の世界へと引きずり込む、恐ろしい存在だったのかも


人形による冥婚供養
 ☆冥婚による供養は、つがる市の弘法寺でも行われている
 *弘法寺は「西の高野山」と呼ばれている青森の修験道場
 *山伏が熱湯や炎で身を清める「火性三味祈祷」が有名
 ☆弘法寺には「人形堂」という御堂がある
 *内部には花嫁・花婿を模した人形が安置されている
 *弘法寺では絵馬ではなく、人形を使って死者を供養する
 *ムカリ綸馬と同じく結婚相手は、架空の人物である
 ☆人形婚はイタコなどの民間霊能者が勧めて広がった

津軽地方では子どもを亡くした親
 ☆我が子に見立てて地蔵を奉納する風習、おそろしいタブーもあるが
 *ムカサリ絵馬も人形婚も、身内の死後の幸福を願って始まった
 *生前は異性に縁がなくとも、あの世では幸せな結婚生活をしてほしい
 ☆これらの風習には、遺族の切なる願いが込められている
                       (敬称略)
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賽の河原の水子供養18(聖地に残る怖い信仰)

2021年01月29日 | 聖地
🌸賽の河原の水子供養18(聖地に残る怖い信仰)

この世とあの世の境にある賽の河原
 ☆仏教では、現世と此岸とあの世である彼岸の境目
 *三途の川があり、その三途の川の手前にある河原が「賽の河原」
 *賽の河原では、親よりも先に亡くなった子ども達の「石積みの苦」
 ☆現世に残してきた父母の供養のために
 *一つ積んで父のため、二つ積んで、母のためと唱えながら石積みをする
 *何度石を積み上げても、地獄の鬼がやってきて崩す
 *子どもたちはまた石を積み、それを鬼が崩す
 *救いの手を差し伸べるのが地蔵菩薩
 *地蔵菩薩、死んだ子どもを供養する意味合いあり尊ばれた

賽の河原に関する伝説か残るの佐渡島
 ☆願集落の近くに洞穴があり、その中に賽の河原はある
 *子どもを抱えた大きな地蔵が中心に位置している
 *両側には小さな石地蔵が無数に並ぶ
 *賽の河原には、死んだ子を忘れられない親たちが石を積んだ跡がある
 *洞穴の奥には「血の池」と呼ばれるくぼみもある
 ☆物静かで神聖な雰囲気からか、不思議な伝承が残っている
 *石積は、いたずらで崩されても翌朝にはもと通りになっている
 *亡くなった子どもの霊が、夜中に積み直しているのだろうか?

信仰の島・佐渡島
 ☆佐渡島の賽の河原では「賽の河原祭り」が行われる
 *飢えと渇きに苦しんでいる水子・餓鬼を供養する慰霊祭
 ☆賽の河原と呼ばれる場所
 *佐渡島、青森の恐山、鳥取の米子など、日本に数か所ある
 ☆佐渡島は京の都から遠く離れている
 *古くは流刑地として皇族や僧侶が流される場所
 ☆鎌倉時代の承久の乱で、順徳上皇などが流された
 *室町時代にも能楽を完成させた世阿弥が流された
 *江戸時代にも島流しの地に指定されていた
 ☆佐渡島には数々の信仰が伝わってきた
 *特に地蔵信仰が篤いことで知られている
 *中でも有名なのが、「梨の木地蔵」という地蔵堂
 *心願が成就すれば、小さな「みがわり地蔵」を納めるのが習わし
 ☆死んだ子どもがあの世で安らかで合ってほしい
 *悲痛な「祈り」が、佐渡島には集まっている
                       (敬称略)
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四国遍路の掟の数々17(聖地に残る怖い信仰)

2021年01月25日 | 聖地
🌸四国遍路の掟の数々17(聖地に残る怖い信仰)

 ☆神霊や死者の世界とのつながりが深い八十八ヶ所巡り
 ☆実行するときは、神仏への敬意を忘れずに

⛳空海ゆかりの巡礼法の歴史
 ☆「遍路」とは、弘法大師空海ゆかりの霊場八十八ヶ所を順に巡る旅
 ☆四国遍路の最初は、海岸部の霊場を巡礼する「辺路修行」だった
 ☆一般化したのは江戸時代で、巡礼者の構成が大きく変化した
 *修行目的の僧侶や旅行者もいた以外に
 *メインは貧困者、病気や心身の障害者、郷里を追われた人々中心
 ☆四国遍路には「お接待」の風習があった
 *それが、追放者たちが巡礼者となった理由
 *社会的弱者たちが、お接待を頼りに遍路へとやってきた
 ☆誰でも施しを受けられるほど、現実は甘くなかった
 *僧侶や健康な巡礼者ならばまともに扱われた
 *社会的弱者は、病の伝染を恐れた人々によつて疎まれた
 ☆明治時代、警察が「遍路狩り」と称して巡礼者を弾圧した
 ☆生活目的の巡礼がなくなったのは1960年代から
 *社会保障が充実してきたため
 ☆平成時代
 *「八十八ヶ所を逆に回ると死の世界につながる」といわれた
 *映画、四国を舞台としたホラー映画『死国』の影響
 *子どもを亡くした母親が八十八ヶ所を逆回りする
 *「逆打ち」をして、我が子を蘇らせようとする内容

⛳あの世とつながる巡礼法
 ☆逆打ちは、実在する巡礼法
 *順打ちの3倍ものご利益を得られるという巡礼法
 ☆江戸時代、衛門三郎という男の逸話
 *ある日、男の屋敷に僧侶が訪ねてきた
 *三郎はその貧相な姿を見て僧侶を叩き出した
 *三郎は子どもを次々に亡くすという不幸に見舞われた
 *僧侶の正体は空海で、三郎は空海を無下に扱った罰を受けた
 ☆三郎は空海への乱暴を心から後悔した
 *空海に会って謝罪するため、八十八ヶ所巡りを始めた
 *遍路を何回も回っても、空海との再会は叶わない
 *20回目の遍路で逆回りをして追いつこうとした
 *三郎は、疲労からきた病で倒れてしまう
 *その死に際で、三郎の前に現れたのが空海だった
 ☆三郎は罪を許され、息を引き取ったと伝えられている
                       (敬称略)
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出羽三山(5)(聖地とあの世の奇怪な関係)

2021年01月24日 | 聖地
🌸出羽三山(5)(聖地とあの世の奇怪な関係)

⛳皇族が開いた霊山
 ☆古代の山岳地は死者を葬る埋葬地
 *庶民が気軽に訪れる場所ではなかった
 *死霊信仰の地となった山形県「出羽三山」
 ☆山々は崇峻天皇の息子・蜂子皇子により開かれた
 *権力闘争に敗れて東北へと落ち延びた蜂子皇子
 *八咫烏の啓示を受けて羽黒山に籠ったことにルーツを持つ
 *皇子は、出羽三山を修行として聞いた
 ☆現在でも修験道の信仰は残っており、それが死霊への信仰

⛳死者があの世へ昇る山
 ☆死霊信仰とは、山をあの世に見立てた祖霊信仰にある
 *蜂子皇子の修行場だと伝わる羽黒山の阿久谷(あくや)
 *古代において葬場だったので、神聖視されている
 *山頂にある鏡池も、神霊の化身としてあがめられてきた
 ☆明治時代以前に月山に祀られていた月山大権現
 *阿弥陀如来の化身だと信じられた
 *山頂を極楽浄土に見立てた信仰もあった
 *祖霊は羽黒山に留まったのちに月山に昇って成仏すると説かれる
 *日本古来の信仰と仏教が融合した、神仏習合の一例

⛳大量の卒塔婆を安置する祭殿

 ☆羽黒山の三神合祭殿には、「霊祭殿」という社殿がある
 *社殿脇に、地蔵菩薩像と死者鎮魂を祈った風車、無数の卒塔婆
 *卒塔婆の大半は親族知人の供養を願ったもの
 *又悪霊供養で立てられた卒塔婆も数多くある
 ☆山形県にも「ミコ(イタコ)」の民間霊媒師がいた
 *東北地方では霊媒師が各地をめぐり、霊視や降霊を行ってきた
 *供養するために、ミコが羽黒山に卒塔婆を持ち込んだ
 *出羽三山が非業の死を遂げた者たちを浄化する手段として
 *民間の霊媒師たちに尊ばれていた可能性がある
 ☆死者の魂がこの山に集まるという出羽三山の信仰
 *今も生きている証である
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六道珍皇寺(4)(聖地とあの世の奇怪な関係)

2021年01月23日 | 聖地
🌸六道珍皇寺(4)(聖地とあの世の奇怪な関係)

 ☆六道珍皇寺地獄につながる井戸がある

罪人が落ちる世界
 ☆仏教の地獄は、スケールが大きい
 *地獄は、八熱地獄と八寒地獄に分けられる
 *最下層の地獄は、約80万平方キロもの広さを有する
 *堕ちた者は最低でも約1,7兆年の刑期を負う
 *時間も空間も途方もなくスケールの大きい世界観である
 ☆京都市東山区にある六道珍皇寺は、地獄とのつながりが深い
 *寺には地獄の入り口があるという伝承が残っている

地獄へと通じる井戸
 ☆六道とは、生物が死後に転生する六つの世界のこと
 *天道(神が住む)、人道(人が住む)、修羅道(戦いの場)
 *畜生道(動物に転生する)、餓鬼道、地獄道(罪人が落ちる)
 ☆「輪廻転生」とは、六道の世界を永遠に生まれ変わり続けること
 ☆六道珍皇寺はこの六道への分かれ道との伝承がある
 *本堂裏にある井戸は、生きたまま地獄へ行けるという
 *平安時代初期の官僚、小野篁がこの井戸を使用したと伝わる
 ☆小野篁は、「閻魔大王の死者の裁判」に部下として立ち会う
 *裁判が終わると、別の井戸を使って現世へ戻った
 ☆今でも寺では小野を祀る

⛳不可思議な鐘と幽霊伝説
 ☆六道珍皇寺では、先祖を迎えるための「六道参り」が行われる
 *「迎え鐘」の音が響くと先祖の霊が戻ってくるといわれる
 ☆鐘に死にまつわる不思議な伝承が残っている
 *鐘は唐まで音が届くと言われた
 *唐まで届くなら、冥土にも届くはず
 *死者を呼び戻す迎え鐘になった 
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立山(3)(聖地とあの世の奇怪な関係)

2021年01月21日 | 聖地
🌸立山(3)(聖地とあの世の奇怪な関係)

 ☆立山の地に広がった生き地獄の様相に迫る

地獄信仰の山々
 ☆立山とは、「神仏が立ち現れる山」という意味
 *江戸時代に、阿弥陀如来が宿る地として立山を描いる
 *『万葉集』にも立山に関する歌が載っている
 ☆立山が信仰を集めた理由は、この地が地獄のような環境だったから

⛳立山に現れた生き地獄
 ☆立山には、現在でも火山性のガスと水蒸気が噴き出す危険区域がある
 ☆近代以前の火山活動は現在より激しく
 *血の池地獄のような赤色の池まであった、硫黄と熱湯に彩られた様子
 ☆「立山信仰(地獄信仰)」
 *前近代の人々には、まさに地獄のイメージだった
 *罪人の魂は立山の地獄に堕ちると囁かれ、恐怖の対象となった
 *山に参拝すれば死後の救済が約束される信仰も形成された
 ☆平安時代貴族層の間で、立山=地獄という価値観が広がっていた
 ☆書物や絵による布教で、立山信仰が全国に浸透した

⛳女人禁制のなごり
 ☆女性は、明治時代になり女人禁制だった
 *女性禁制で江戸時代に生まれた祭礼が今も残っている
 *秋の彼岸に実施される「布橋灌頂会」
 ☆立山の地から広がった信仰
 *地獄の苦しみや恐怖心だけではない
 *極楽浄土への思いもまた、この地から全国へと流布した
 *女性の参拝は許されなかったので布橋灌頂会の様に生まれた祭礼もある
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恐山(2)(聖地とあの世の奇怪な関係)

2021年01月19日 | 聖地
🌸恐山(2)(聖地とあの世の奇怪な関係)

 ☆霊の世界に最も近い、恐山の厳しい環境

恐山は、あの世が具現化した山
 ☆恐山は「日本三大霊場(比叡山、高野山)」の一つ
 *恐山は人が生活するには非常に厳しい環境
 *火山性のガスが漂う不毛の大地に生物の姿はない
 *その様相から「百三十六の地獄」とも称される
 ☆奥地に広がる美しい湖畔は、極楽浜とも呼ばれている

⛳恐山と死の世界
 ☆「死ねば恐山さいく」といわれた
 *恐山は死の山として畏れられていた
 ☆山門の先の河川部は「三途の川」と呼ばれている
 *橋を通ることで、死者の山たる恐山に登山者は入っていく
 *現世から死の世界へ赴く死者の姿の再現である
 ☆三途の川の先には「賽の河原」という岩場がある
 *幼子を亡くした親たちが、その供養に訪れた場所
 ☆恐山は、死者の供養地として特別な意味を持っている

⛳オカルトブームで生まれたイタコ文化
 ☆恐山は、死者の魂を体に降ろす「イタコ」が有名
 *イタコは、農耕や運勢に関する吉凶を占う巫女の一種
 *東北周辺の土着信仰に根差した存在である
 *イタコは、「恐山大祭」と「恐山秋詣り」の年2回山に登る
 ☆恐山が心霊スポットとして人気を集めた理由
 *地獄信仰などの恐ろしい面が誇張されマスコミに報じられたから
 ☆最盛期には40人を超えるイタコ
 *高齢化にともない、イタコはその数を年々減らす
 *現在では、十数人ほどしか残っていない
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出雲大社(1)(聖地とあの世の奇妙な関係)

2021年01月17日 | 聖地
🌸出雲大社(1)(聖地とあの世の関係)

地上と地続きだった死の世界
 ☆出雲大社は大国主命を祀つている
 *天皇家の神、天照大神が天上の国、高天原の支配者
 *大国主は地上の国・葦原中津国の統治者
 ☆『古事記』によれば
 *大国主は国を明け渡せという天上の神々の要求をのんだ
 *地上の支配権を譲ったが見返りが出雲入社
 ☆大国主は、死後の世界の支配者として力を持ち続ける

死の世界を統治する神
 ☆出雲の地には、ヤマト王権に匹敵する一大勢力が存在していた
 *大国主は、古代出雲の支配者だった
.  *出雲王朝はヤマト王権の傘下に入ったが強大な力を有していた
 ☆神話では、地上の統治権を天上の神々に譲つた後、表舞台から姿を消す
 *しかし大国主命は、あの世の世界の支配者となる
 ☆政治と祭祀が重要な国家事業だった古代
 *あの世の管理者は、相当な力を持つことを意味する
 ☆大国主を祀る出雲大社
 *あの世に近い場所として特別視され、独自の祭祀を実行しいた

あの世の支配者が起こすたたり
 ☆出雲大社は縁結びのご利益があることでも有名
 *大国主が幽冥界の支配者であることが影響している
 *幽冥界は、死者の世界であると同時に神の領域
 *縁故や運命のような、人知では計り知れない事象も司る
 ☆八百万の神々が年に一度出雲大社に集まるという伝承
 *出雲が、縁結びなどの神事を話し合うのに適している場所だから
 ☆垂仁天皇の長男口がきけなかった
 *天皇は夢に現れた大国主命いわれた
 *息子が喋れないのは,自分が呪っているからだ
 *なんとかしてほしければ、神殿を天皇の宮殿のように造り替えろ
 ☆天皇がこれに従って神社を造営したところ、息子の口は治った

大国主と同一神、大物主のたたりは、さらに恐ろしい
 ☆子孫に自分を祀らせるために、疫病で日本人の半分を殺す
 *翌年も凶作や戦乱を起こし人々を苦しめた
 ☆大物主の「モノ」は怪異への恐れを表す
 *邪悪な存在を意味する、鬼との関連性も指摘されている
 ☆疫病や凶作などは、人間の力で簡単に抑えることのできない
 *人知の及ばない自然現象だ
 *自然への恐れが、大国主や大物主の存在に反映されている
 ☆幽冥の力がたたりとならないよう
 *出雲大社に参拝するときは神への敬意を忘れてはならない
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聖地に残る怖い信仰(11)(宗像大社沖ノ島)

2021年01月16日 | 聖地
🌸聖地に残る怖い信仰(11)(宗像大社沖ノ島)

神と神との誓約で生まれた祭神
 ☆玄界灘の海上に沖ノ島は位置する
 ☆神が宿る地で、日本有数の聖地島全体が神域
 ☆一般人の立ち入りは、現在では一切禁止
 ☆神職は、交代制で上陸する
 *人の出入りが途絶えた、絶海の孤島である
 *島が宗像大社の境内なので、神職の常駐が許されている
 ☆宗像大社とは
 *辺津宮、大島の中津宮、沖ノ島の沖津宮の3宮で構成される
 *「宗像三神」と呼ばれ三柱の女神が主祭神

黒田藩を襲った怪異現象
 ☆沖ノ島の掟(島を管理する神職も厳守している)
 *島のすべては神の所有物で、小枝1本さえも持ち出せない
 *島で見聞きしたことは口外できない事など
 ☆掟を破ったものには、不幸が襲うという
 ☆貝原益軒の記した書籍によると
 *キリシタン大名の長政は、日本古来の信仰を軽視した
 *九州の大名・黒田長政が島から織機を持ち帰る
 ☆長政の行動が不穏な出来事を引き起こす
 *織機は毎夜ひとりでに振動し、城中の家臣は怯えた
 *領内が、雷雨に襲われるなどの異変が多発
 *長政は織機を沖ノ島に返却した
 ☆沖ノ島への畏れが見て取れる

⛳古代海運の要所だった
 ☆沖ノ島が厳しく隔離された要因
 *23カ所の祭祀場跡と、約8万点もの奉納品が発見された
 *ほとんどが大陸・半島由来の品々である
 *歴史的価値が非常に高く、数万点の出土品は国宝に指定された
 *沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれる
 ☆沖ノ島は、大陸交流の中継地
 *沖ノ島はは、ヤマト王権や九州の最族から重視されていた
 *祭祀場は、航海の安全祈願のために機能していた
 ☆沖ノ島は、4世紀から9世紀の約500年間
 *海上交通の要衝として重視された
 *それが、沖ノ島が聖地となったのでは
 ☆沖ノ島、世界遺産登録されたとき
 *宗像大社は改めて人の出入りを禁上した
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聖地に残る怖い信仰(10)(沖縄の斎場御嶽)

2021年01月15日 | 聖地
🌸聖地に残る怖い信仰(10)(沖縄の斎場御嶽)

 ☆男子の立ち入りを厳しく制限
 ☆沖縄の斎場御嶽

⛳自然そのままの聖地
 ☆日本の聖地以前は、女性の立ち入りを禁じる女人禁制が多数
 ☆沖縄の「斎場御嶽」は、男性の侵入を禁上していた聖地
 ☆沖縄の聖地では、社殿や祭壇を一切置かない
 ☆現在に残る史跡からは、かっての自然信仰を窺い知れる
 ☆数ある御嶽の中で、斎場御嶽は特に神聖視されてきた

⛳男子禁制の掟
 ☆斎場御嶽は沖縄の創造神アマミキヨがつくった
 *アマミキヨは、天界を治める天帝に国づくりを命じられた
 *沖縄に降り立つと九つの聖地、七つの森を創造する
 ☆斎場御嶽は、六つの拝所で構成されている
 ☆かっては、女性しか立ち入りを許されなかった
 *琉球王国の神官が全員女性だったから
 *御嶽などでの神事は、「ノロ」と呼ばれる女性神官が行う
 *トップは王家の女性しか就くことを許されなかった
 *こうした慣習から男子禁制の掟ができたのでは

⛳斎場御嶽は、琉球王国の聖地になる前は民間信仰の聖地
 ☆久高島という古来の聖地を拝める立地
 *琉球王国に注目され神話に取り込まれた
 *神話の再編過程で、民間信仰が弾圧された可能性がある
 ☆琉球王国は国家祭祀に向かない信仰に厳しく弾圧した
 *民間霊能者のユタを弾圧していた
 ☆世界遺産登録の際に
 *民間信仰の歴史は無視され、「琉球王国の聖地」とされた
                   (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
⛳出典、『本当は怖い日本の聖地』




聖地に残る怖い信仰(10)(沖縄の斎場御嶽)
『本当は怖い日本の聖地』記事より画像引用)
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聖地に残る怖い信仰(9)(「神居古潭」・「カムイシュ島」)

2021年01月13日 | 聖地
🌸 聖地に残る怖い信仰(9)(「神居古潭」・「カムイシュ島」)

 ☆神々の戦いから生まれた
 *「神の住まう地」神居古潭(カムイコタン)
 ☆戦乱で生まれた伝説の島(カムイシュ島)

神と人が共存する信仰
 ☆アイヌ民族は、あらゆる物質・現象に魂が宿ると考えていた
 *対象は動植物・自然現象人間が作る道具も含まれている
 ☆アイヌは、万物に宿る人知を超えた存在を「カムイ」と呼ぶ
 *カムイは役目を果たすために人の世界へと現れる
 *役目を果たすと元の世界に帰還する

⛳善神と悪神の戦い、神の古戦場「神居古潭」
 ☆カムイには、良い神もいれば、悪い神もいる
 *良いカムイ、悪いカムイ戦うこともある
 ☆「神居古潭」は、カムイ同士の戦いによって生まれた聖地
 *神居古潭は悪神の支配地だった
 *悪神は人間が川を渡ることを快く思わなかった
 *巨石を投げ込んでは人々に危害を加えていた
 *山神が大岩を取り除くと悪神は激怒
 *悪神と山神に戦い悪神は圧倒され、川の上流へと逃走した
 *戦いは善の山神の勝利し、戦場は聖地神居古潭としてあがめられる
 ☆神居古潭は、川の流れが速い
 *船での通行には少なくない危険をともなう

戦乱で生まれた伝説の島(カムイシュ島)
 ☆「神居古潭」以外にアイヌの伝説が残る聖地はある
 ☆摩周湖の「カムイシュ島」が聖地である
 *熊祭りの日のある夜、湖付近の村々で戦争が起きた
 *湖に孫とはぐれた老婆が迷い込み孫を探し回ったが見つからない
 *今も摩周湖で待って再会を待ちわびている
 ☆摩周湖に浮かぶカムイシュ島
 *その老婆のなりの果てと言われている
 *冬の湖で霧や吹雪も老婆の涙と言われている
                   (敬称略)
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⛳出典、『本当は怖い日本の聖地』




 聖地に残る怖い信仰(9)(「神居古潭」・「カムイシュ島」)
『本当は怖い日本の聖地』記事より画像引用)
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聖地に残る怖い信仰(8)(対馬「オソロシドコロ」)

2021年01月12日 | 聖地
🌸対馬「オソロシドコロ」の地

 ☆対馬の太陽信仰の地
 ☆転ぶと祟りで命を落とす

⛳太陽の聖人を崇拝する信仰
 ☆対馬の「オソロシドコロ」も不可侵のルールを貫いた禁足地
 ☆対馬では、日本本土とは異なる文化や風習が育まれた
 ☆オソロシドコロは、島独自の信仰「天道(太陽)信仰」の聖地
 ☆対馬では太陽の力で誕生した天童法師を神聖視していた
 (日本の朝廷も太陽神の天照大神を最高神として崇めた)
 ☆天童法師、幼い頃から超常的な力を見せた
 *日本の太陽信仰も影響し、天道信仰が生まれた

転んだだけで祟られる土地
 ☆オソロシドコロは天童法師・母親の墓
 *以前は、人の立ち入りが禁じられていた地
 ☆犯してはいけないタブーが2
 *「聖地付近では絶対に転んではいけない」
 *「墓を直視してはいけない」
 ☆タブーを侵した者は、命を落とす
 *しかし転んだとき助かる方法がある

⛳現在では、薄まる不可侵の掟
 ☆立ち入りが拒まれた理由は、オソロシドコロが死者の埋葬地だった
 ☆高位の人間を葬送する儀式を目撃されないよう立ち入り制限にした
 *その名残で不可侵の聖域となった
 ☆現在では一般人も入ることが可能
 ☆オソロシドコロにある多久頭魂神社の参拝ルール
 *石塔に背を向けてはならない
 *転んではいけない
 ☆特別な信仰を守り続けている
                    (敬称略)
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対馬「オソロシドコロ」の地
(『本当は怖い日本の聖地』記事より画像引用)
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聖地に残る怖い信仰(7)(安井金毘羅宮)

2021年01月11日 | 聖地
🌸 聖地に残る怖い信仰(7)(安井金毘羅宮)

 ☆安井金昆羅宮の主祭神、日本最強の怨霊・崇徳天皇
 ☆安井金昆羅宮が、縁切りの地として有名になった理由
 *「縁切り縁結び碑」と呼ばれる石がある

安井金昆羅宮は、人と人との縁を切る場所
 ☆日本人は古来、神が他者との縁を結んでくれると考えていた
 ☆神は縁を結ぶだけではない縁を断ち切ることもある
 ☆京都市安井金比羅宮「縁切り」強力と思われている聖地

安井金昆羅宮のご利益は群を抜いている
 ☆悪い人との縁、賭け事への欲求、病などのあらゆる悪縁を絶つ
 ☆安井金昆羅宮は、藤原鎌足が建てたお堂が始まり
 ☆安井金昆羅宮が、縁切りの地として有名になった理由
 *「縁切り縁結び碑」と呼ばれる石
 *その石は、バブル期に造られた

⛳日本最強の怨霊の力
 ☆安井金昆羅宮の主祭神、日本最強の怨霊・崇徳天皇
 *境内には、交通・海上安全を司る大物主神を祀る
 ☆崇徳天皇プロフィール
 *母が祖父・白河上皇と密通で出来た子との噂さがあった
 *幼い頃から肩身の狭い思いをしていた
 *白河上皇が亡くなると父から冷遇される
 *崇徳天皇は、父の死後、反乱を起こし鎮圧され讃岐に流刑となる
 ☆崇徳上皇が亡くなったとき幽霊のようにおぞましかった
 *目が窪んで爪や髪は伸びっぱなし
 ☆崇徳天皇の死後
 *天災や皇族の突然死が頻発する
 *朝廷では崇徳上皇の祟りではと恐怖心を募らせる
 *朝廷は、慰霊廟や菩提を弔うための寺院を建てた
 *その一つが、現在の安井金昆羅宮

崇徳上皇は、安井金昆羅宮の地に御殿を持った
 ☆愛人をそこに住まわせたこともあった
 ☆崇徳天皇の死後も、愛人は菩提を弔い続けた
 ☆神道の特徴は、恐ろしいたたりを引き起こす悪霊
 *正しく祀ればご利益をもたらすとの教え
                    (敬称略)
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『本当は怖い日本の聖地』記事より画像引用)
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聖地に残る怖い信仰(6)(清水寺)

2021年01月10日 | 聖地
🌸聖地に残る怖い信仰6(清水寺)

 ☆清水の舞台は死体を遺棄する場所だった

⛳清水の舞台には大量の死体が運ばれていた
 ☆清水の舞台には歴史の闇が隠されている
 *平安時代死体を遺棄する場所で利用されていた
 ☆平安時代、風葬が一般的(死体を風雨さらし自然消滅させる)
 ☆疫病や飢饉が流行すると、往来は大量の死体で埋め尽くされた
 ☆清水の舞台の棚が空中に大きく張り出すように造られた理由
 *死体を谷間に投げ落としやすくする目的
 *又清水の舞台が高い場所在なのは、死体の腐敗臭を避けるため
 *清水寺は、鳥辺野に近接しているので、遺体を運ぶにも適した場所

清水の舞台からは人が飛び降りていた
 ☆清水の舞台へ身投げ目的で訪れた人もいた

 *身投げでの生存率は約85%と高い
 ☆近隣住民や清水寺にとり、身投げは迷惑行為だった
 *京都町奉行所に、飛び下り禁止の指導を求めたりしている
 ☆京都府が飛び降り禁止令を発令している
                    (敬称略)
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聖地に残る怖い信仰(6)(清水寺)
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