活字の海で、アップップ

目の前を通り過ぎる膨大な量の活字の中から、心に引っかかった言葉をチョイス。
その他、音楽編、自然編も有り。

時をよむ   田中均

2008-09-14 20:34:39 | 活字の海(新聞記事編)
平成20年9月9日(火) 毎日新聞 夕刊 6面 文化欄より

副題:「次期首相の指名とは」
    ポピュリズム脱し 本格的外交の始動を


今回の氏のコラムは、去る8月に東京で開催された「日韓フォーラム」での
出来事への言及をとば口として始まった。

日韓フォーラムは、日本側では日本国際交流センター(JCIE)が主催
しているもので、今回で第16回を重ねている。

#錚々たる顔ぶれを揃え、費用と時間を積み重ねて開催しているのに、
 JCIEのこのフォーラムの扱いは、なんだろう?
 ホームページに辛うじてプログラムはあるが、実際の議論の内容や、
 使われた資料、参加者や聴衆の感想、意見といったものが全く
 掲載されていない。言わば、やったらやりっぱなし。
 まだ議事や報告書がきちんとUPされていた日韓歴史共同研究委員会
 の方が、はるかにましである。
 こういうことを称して、税金の無駄遣いというのだろう。


その参加者の一人として氏が討議で感じたことが、韓国側メンバーの
竹島問題への熱の入り方であった、という。

竹島問題そのものについては、まだ僕の中でこのブログで語ることが
出来るほどの積み上げが形成されていないため、言及は避けるが、
氏は韓国側の盛り上がりの一因として、かの国の李明博政権が、
低下した求心力回復のカンフル剤として竹島問題を利用している
として
皮肉り、それこそがポピュリズムの好例を為すものとしている。

この竹島問題をはじめとして、日韓双方において支持率に一喜一憂する
(つまりはポピュリズムに走る)政権の有り様が、引いては教育、文化等、
様々な局面での悪影響を及ぼしており、その結果として

「本来両国が協力を拡大するべき共通の利益は多々あるのに、国民の
 意識が鮮明な歴史問題の呪縛がいまだに解けない。
 それにより大切な機会を失っていることへの焦燥感は強い。」

とまとめている。

#この氏の見識については、珍しく同意する(笑)。


その後、ジャーナリズムにおける安易な世論扇動に対する危惧にも
触れながら、いよいよサブタイトルにもある次期首相問題へと論を進める。


だが…。
そこからが、腰砕けである。

危機的状況にある今の日本の国情を鑑み、ポピュリズムに走る政治家では
なく、きちんとした戦略感を持ち政策を起こし、真摯に取り組んでいく
ことの出来る政治家を、と氏は希求する。

そのことについては、当たり前過ぎて異論の唱え様も無い。

だが、文字通り『当たり前』過ぎるその主張に、なんら具体的な提言も
肉付けされないままでは、単なる高所大所からの傍観者の無責任な意見と
謗られても、仕方あるまい。

問題は、だからどうした。どうするのか。というところについて、
きちんとした議論を喚起し、ポピュリズムではなくデモクラシーによる
統治を実現し、日本という国を過たず導いていける指導者を生み出し、
育んでいくことである。

氏のコラムには、そこがすっぽりと抜け落ちている。

そもそも、デモクラシーにおけるポピュリズムの危険性等は、今を去ること
1922年に、ウォルター・リップマンがその古典的名著「世論」岩波文庫刊
にて社会規模の増大に伴う直接民主主義の限界と、それに伴い派生する見識の
定型化(非常な乱暴な物言いだが、これがリップマンが提唱したステレオ・
タイプというものだと、僕は理解している)という問題を指摘した時点で
とっくに提議済である。

もはや時代は、当の昔にその先を要求している。

それこそが、氏の言う「先進民主主義経済大国」日本における真の課題だと
思うのだが…。

ポピュリズム(大衆迎合主義という訳語は、あまり好きではない)を否定
しつつも、国民の選任を受ける必要がある以上、世論を無視した政策を
どこまで取りうるのか、という課題。

例えそれが国民に痛みをもたらすものであっても、その施策が必要である
ならば、取り組まなければならない。
これは、誰もが納得するテーゼであろう。

#勿論、痛みをもたらさない解決策が無い、ということが前提であるが。

だが、その実践を許容するほどに、国民が成熟していると言えるのか。
真のリーダーを育成するために、必要な教育とは何か。

また、何が真に必要な施策かを見極めるための見識を、国民個々が持てる
ようにするにはどうすればよいのか。

いずれも、一歩間違えると非常に危うい、だが重要な問題であり、だから
こそ、今、きちんと向き合った議論をしていく必要があるものばかりだ。

例えば、その一つの解としてあるのがタウン・ミーティングだ。
小泉政権下でのそれが、換骨堕胎された似て非なるものであることは
周知の事実となっているが、本来タウンミーティングは、間接民主制に
おいて少しでも個々の民草の声を政治にフィードバックする手段として
開発されたものであり、有効に機能すれば面白いと思う。

勿論、これは数多有る可能性の一つに過ぎず、こうしたことをこそ提言し、
議論していく中で、閉塞された現状を変えていく努力を積み重ねることが
今の閉塞状況にある日本に必要なことではないのだろうか。



ヤン・ウェンリーは、例えどのような結果をもたらすものであっても、
それが国民が選択した結果となるが故に、民主主義は是認されるべきだ。
逆に、それがどれほど優れた結果をもたらすものであっても、独裁政治は
否認されるべきだ、という趣旨の発言をしたことがあった。

政治的にも経済的にも矜持を失いつつある今の日本は、ヤンが言うところの
せめて自分達が選んだ結果としての未来を享受するという点にしか、
誇りを見出せなくなるのではないか。

そうしたぎりぎりの地点にいるという認識があれば、今回のコラムのように
他人事のような書き方は出来ないと思うのだ。

(この稿、了)





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 楽あれば苦あり  小川洋子 | トップ | 北京趣聞博客 (ぺきんこねた... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

活字の海(新聞記事編)」カテゴリの最新記事