活字の海で、アップップ

目の前を通り過ぎる膨大な量の活字の中から、心に引っかかった言葉をチョイス。
その他、音楽編、自然編も有り。

楽あれば苦あり  小川洋子

2008-09-13 08:45:33 | 活字の海(新聞記事編)
平成20年9月10日(水) 毎日新聞 夕刊 5面 文化欄より


人の記憶とは、何なのだろう。

そこに在る<記憶>は、その人にとっては真実である。
が一方、それが事実である確証は、どこにも無い。

ただ物事には、真実と事実の見極めが必要な場合と、そうでない場合が
存在する。

今回のコラムで、小川洋子氏が紹介するのは、正にそうしたエピソード
である。

題して、「私一人だけのバージョン」。



取り上げられているのは、太宰治の「走れメロス」、カミュの「異邦人」、
そして片山健の「おなかのすくさんぽ」の三作品である。

それぞれの作品において、ある機会を得て読み直してみた氏は、自分の
記憶の中の顛末と話が異なることに気がついて、仰天する。

氏がどのようにそれぞれの作品を記憶していたのかを、簡単に紹介すると…

「走れメロス」では、身代わりになってくれた親友を救うべく刑場へと
舞い戻ったメロスは、激走のためか、そこで息絶えてしまう。

「異邦人」では、主人公ムルソーが殺したのは、喧嘩相手のアラビア人では
なく、なんと自分のガールフレンドマリィである。

「おなかのすくさんぽ」では…、いや、これはネタバレとなるため、
ここでは伏せておくことにしよう。


ともあれ。
いずれもその話の印象が根底から変わるような、自己の認識と作品世界との
ギャップに気がついた時に、氏は大いに驚いただろう。

勿論それは、自分の作品をがらりと意趣変更された著者にとっても同じで
あろうが。

しかし、作家である氏は、このギャップについて肯定的に受け止める。
そのことの表現が、とても円やかである。

「『走れメロス』も『異邦人』も『おなかのすくさんぽ』も、実物の
 本とは別に、私一人だけのバージョンが記憶の本棚にしまわれている。

 作者が思いもしなかった形に姿を変えて、しかし私の本棚には
 おさまりのいい形を保って、大事に保存されている。」

作品というものは、一度世に送り出した以上、作者の手を離れて受け取り手
個々のものとして変化していく。
そのことが誰にも止められないことを、実は一番よく実感しているのが、
作家である氏なのだ、とも思う。

そして、そうした変化は、生み出し手である作家にとって、喜ばしいこと
なのだろう。

なぜなら、そこにあるものは単なるデッドコピーではなく、受け取り手の
中で、何らかの形で自分の作品が費消された結果の変質と解体であるならば、
それこそが、作家(に限らず、世に何かを送り出すもの達)にとっての
無上の喜びである、自分の作品が何らかの形で第三者に認知された証拠に
他ならないからである。

(この稿、了)

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