江戸の退屈御家人

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青森駅 ・ 青函連絡船 ・青函トンネル & 津軽海峡冬景色

2012年03月30日 12時12分29秒 | 旅行


青森駅は東北本線、日本海側の奥羽本線の終着駅であり青函連絡船との乗換駅であった。

青森市は江戸時代からの港湾都市・交通物流の機能を重視し明治の初め県庁所在地として定められたもので、
その青森駅は海に直に接する駅として設計されており、青森市はこの駅と青函連絡船を中心に発達した町と言えよう

1988年(昭和63年)に青函トンネルが開通すると、青函連絡船は廃止されたことから
青森駅は青函トンネルを通る「津軽海峡線」の列車との発着駅となったが、その後、2010年(平成22年)に東北新幹線が新青森駅まで開業すると、

東京から新青森駅、新青森からから青森駅を経由して津軽海峡線に入り、
青函トンネルを通って北海道へつながることとなった。

また新幹線新青森駅開業により、並行する在来線の東北本線は第三セクターの「青い森鉄道」に経営移管され、路線名は青い森鉄道線となった。

 鉄道交通体系の大きな変化の中で、青森市は 今後は新青森駅を中心に発展するのか、それとも、海に接した青森駅を少し南に移して現在の青森市市街地を再開発するかは分からない。

いずれにせよ、他の多くの都市や駅が、昔の城下町中心に発展してきた例が多い中、青森市・青森駅は珍しい例である。

 青函連絡船は、1908年(明治41年)から1988年(昭和63年)までの間、青森駅と函館駅との間を日本国有鉄道(国鉄)が結んでいたもので、
営業キロは113.0kmで、津軽海峡(国際海峡)を横断した。

鉄道・連絡船が主な移動手段であった時代には、青森発着の特別急行列車「はつかり」「白鳥」等や 夜行特急「はくつる」「ゆうづる」、
急行「八甲田」、「十和田」等と、青函連絡船との接続を重視したダイヤが組まれていた。

 青函連絡船は、船の後部から鉄道の客車を直接載せるとともに、乗客を船内の客室に入れて運ぶ方式であったから、現在の青森駅に接して、かって列車を積み込んだ「積み込みゲート」が保存され、その先の桟橋には、かっての「八甲田丸」が係留保存されている。

このゲートと桟橋の間を多くの乗客が、雪の中、無口で先を争ったのだが、そのときの様子が「津軽海峡冬景色」に描写されている。

(ちなみに筆者が見た3月23日は青森駅前・桟橋付近で50~100cmの雪が積もってなお牡丹雪が降っていた。)

1945年(昭和20年」7月14日 には、アメリカ海軍艦載機の空襲により全連絡船12隻が被害を受け(8隻沈没等、352人死亡)、
1954年(昭和29年)9月26日には、台風15号(洞爺丸台風)に伴う暴風雨が原因で、航行中の洞爺丸が函館郊外の七重浜に座礁し転覆。
他に僚船4隻も沈没。あわせて1430人の犠牲者を出した。
 これを機に客車航送は中止。この事故を契機に戦前からあった青函トンネル計画が具体化されることになった。

青函トンネルは、1961年(昭和36年)掘削開始、1985年(昭和60年)本坑貫通。建設費はトンネル本体に約7455億円、津軽海峡線の取り付け工事等に9000億円超の、まさに昭和の大工事であった。
(しかし完成時には、時代は汽車から飛行機の時代に変化していた。歴史とは皮肉なものだ。)

1988年昭和63年3月13日営業開始(これが昭和最後の春だ)、青森県の竜飛岬下から津軽海峡の140mの海底の下さらに100mのところを北海道の知内まで、約53、85kmを結んでいる。うち、竜飛岬海底駅から吉岡海底駅までの海底部が23,3kmで、陸上部のトンネルが30,55kmとなる。
これを特急で20分で通過する。かって青函連絡船で4時間強かかっていた時代からこれだけ短縮したのだ。

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