江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

長崎旅行その1

2013年07月05日 10時08分42秒 | 歴史を旅する
市川森一氏の「夢暦 長崎奉行」という本を読んだ。遠山金四郎さくら吹雪の北町奉行の実父の長崎滞在記を、脚本家らしく史実に基づきながらドラマ風に書いた歴史小説である。
 これでいままで特段の興味もなかったが、「長崎=鎖国時代の出島」との単細胞から、時代背景と多くの英傑の活躍したドラマチックな町を知るほど奥深さが分かり、是非とも行ってみたいと。
 いつ行くか?「いまでしょう!」と万難を排して二泊三日の個人フリー切符(老人は安く上げる必要がある)を手配して、いざ、江戸時代みたいに「長崎街道」を行った気分。
 ちなみになかにし礼氏の「長崎ぶらぶら節」と司馬遼太郎氏の「街道をゆく」の肥前・長崎を並行して読んでいくと、時空的に立体的になるね。

 長崎は懐の深い町。①歴史の重層構造、②都市の消費文化と経済的背景、③文化の蓄積とその拡大生産、④政治・経済・外交の活動があった町。このような特徴を有する町はそう多くはない。江戸と京都と長崎か。
そこに、吉原があり島原があり丸山があったのは決して偶然ではあるまい。




長崎奉行の本拠地、現長崎歴史文化博物館。ここで吾輩は300円で入館した。雨で観客が少なっかので、無謀にも受付嬢に、特段の約束もないが館長がおられたら表敬したいといった。てっきり市川森一氏化と思ったら別人の館長さんで大変ばつが悪かった。名刺交換し雑談。市川氏は二年前逝去。現館長は大学の先生から博物館協会の理事をしておられるようで、いまの「八重の桜」に関し、会津人の「ならぬものはならぬ」本を書いておられるとか。・・・恥ずかしかった。

 眼鏡橋を越えて、例の本でてくる1808年の「長崎奉行 松平図書頭 イギリス船フェートン号事件の責任をとって、切腹」のお墓、を大音寺に尋ねました。開国の50年前だ。優秀な幕府官僚だったのだ。






近くには、崇福寺(中国のお寺)を見るが、何しろ、その先は思案橋・丸山の色街もあり、・・・・・





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