江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

日本航空飛行の発祥地

2012年11月16日 23時07分20秒 | 歴史を旅する



日本飛行発祥の地

代々木練兵場 1910年明治43年12月19日   現 代々木公園

 1、徳川好敏陸軍大尉 アンリ・フアルマン機を操縦し、
    飛行時間4分、距離3000m、高度70m

 2、日野熊蔵陸軍大尉 グラーデ式機を操縦
    飛行時間1分間、距離1000m、高度45m

写真の日野熊蔵氏は、詩人で「飛行機唱歌」を作詞。
   限りなき 大空
   限りある人生
   限りなき代々の祖国のため
   限りある現生の生命を捧ぐ
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玉縄城 探訪

2012年10月12日 17時14分15秒 | 歴史を旅する
玉縄城は1513年永正10年北条早雲によって鎌倉の北西、現在の大船駅の西部に築かれたとされる。

城の外堀が柏尾川に接し、相模湾まで通じていたから水軍などの重要拠点となった。更に鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面もある。

 この当時の鎌倉は、鎌倉公方も関東管領も滞在せず、いわば権力の空白地点みたいだが、鎌倉八幡宮を中心に源氏・北条と続く鎌倉幕府の精神的本拠地として、北条早雲一族が関東の支配者として、後「北条氏」を名乗ったのと同じ心理的理由から「鎌倉」を守ろうとしたのかもしれない。

 小田原城の大森氏を追いを奪い、相模に進出した北条早雲は三浦半島の先端の三浦氏と敵対する。三浦方はその親せき筋の扇谷上杉方と連携して早雲方をはさみうちにしうる地政学上の理由からも、三浦半島の付け根に当たる現在の大船の地に玉縄城を築いたものと思われる。

玉縄城は、北条一門の重要人物が城主として置かれた。
 初代城主は早雲の実子氏時、2代城主は早雲長男小田原城主氏綱の実子為昌、3代は氏綱の娘婿の綱成、4代は綱成の子氏氏繁、5代は長男氏舜、6代はその二男氏勝と安定して地位を継承している。

戦国の時代にあって、この一族の団結と役割分担のうまさは後北条氏の特徴といえようか。

 1526年大永6年、古河公方に反旗を翻した公方の弟であり、小弓公方と呼ばれ現在の千葉市内の小弓の地に立ちあがったたに足利義明があり、この小弓公方に呼応して鎌倉占拠を狙った安房の里見氏軍勢を玉縄城で撃退した。この時の戦死者の供養として、首塚が柏尾川近くに残っている。

また上杉謙信、武田信玄が相模へ乱入した際も攻略をあきらめたほどの堅城である。
1590年天正18年、豊臣秀吉による小田原征伐に際しては、徳川家康方の攻撃を受け、守将北条氏勝は降伏・開城。以後徳川の支配に入る。

現在の玉縄城は、
昭和38年に清泉女学院中・高が城跡に移転して以降、その多くが破却された。
 多くの小山と 谷(やつ)を利用した中世の城跡だから、ほとんどなにもまない。
七曲という城の大手門に進む道跡がわずか、補修されている。清泉女子高の裏門あたりが、玉縄城の大手門のようである。


平山城址公園

2012年10月05日 13時51分37秒 | 歴史を旅する
平山城址公園               京王線平山城址公園駅から徒歩15分

 平山城址となっているが、現実に城跡があるわけでない。古代から中世の初めに当たる時期は、
戦国時代のような石垣を伴う山城という戦争形態でないが、空堀もないところから、平山城址公園は
どうも意味合いの少ない遺跡かも。

 いずれにせよ平山季重という人は、鎌倉幕府につかえる武蔵武士団の有力者の一人であった。特に
平家追討に際して源義経に従って、かなりの活躍をしたことになっている。
その平山氏の所領あとが城址公園の近辺であるようだ。

 平山氏は、日野市に土着した武蔵の国司の末裔で、府中の大国魂神社に位置し武蔵の国の国府に近く、多摩川をはさんだ西側に領地を構えその祖は日奉宗頼(ひのむねより)といい、日野市の名前のもとになったという説がある。

武蔵七党とは平安時代末期、武蔵国に発生した小武士団で、横山、西、村山、児玉、丹、猪俣氏らの総称。

日奉宗頼は武蔵守として武蔵の国府に赴任した後、任期が過ぎても京都に帰らず現地に土着した。

この例ように武蔵七党の先祖の多くは、京都から下向した国司等をその先祖と称しているが、
一方では、在地の豪族たちが自らの家系を京都の下級貴族の貴種に結びつけたものだとする説には、妙に納得させられる。

 多摩川の西岸側を本拠とした西党=日奉氏は、当時の武蔵の国の常で、 由井の牧、小川の牧等の官の馬の生産を扱い、浅川一円に勢力を拡大していった。そして、西氏を宗家として平山・立川・二宮・由井・小宮氏などを分出し、浅川、多摩川・秋川流域に繁栄したと言われている。。

日奉宗頼の4世の子孫直季は、武蔵国多西郡平山に居館を構え平山氏を称した。この直季の子が源頼朝の時代、頼朝から厚い信頼を受けた平山季重である。

 平山氏はこの季重の活躍を歴史に残す。によって季重は平山武者所と呼ばれるが、これは大番として京都に上り、上皇を守る衛士(武者所)を努めたことに由来している。武蔵七党の武士たちは、源氏が東国に勢力を振るうようになると、自らの生き残るためにもそれに従うようになった。

 武士が台頭するきっかけとなった保元・平治の乱に際しては、平山季重ら武蔵武士の多くは源氏方として活躍したが、源義朝方の敗北に終わり結局武蔵の武士たちは東国に帰っていった。
 やがて、伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒の旗揚げをすると、武蔵七党の武士たちは頼朝のもとに参じ、鎌倉幕府創立に大きく貢献。

 平山季重は平氏討伐戦の 富士川の戦い、金砂城攻めなどで活躍、さらに熊谷次郎直実とともに、源義経の配下となって京 へと向う。平山季重は、宇治川の戦いで先陣を切り、ついで、屋島、壇の浦の戦いにも出陣して勇名を上げた。これは『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物語に描かれている。

 平家が滅亡後、源義経の勲功に関して朝廷から季重のほかに梶原景時らも叙官した。頼朝はかれらが勝手に叙官したことを叱責、季重らはおおいに狼狽したといわれている。

この叙官のとき、頼朝に対し弟義経がとった行動がのちに義経の失脚、滅亡となる。

 文治五年(1189)、頼朝は義経を匿った奥州藤原氏攻めた。季重も嫡子平山重村と参戦、義経を討つ功をあげた。その功績により「驍勇無双の勇士」と賞賛され、鎌倉幕府の幕府の元老格に取り上げられた。3代将軍源実朝の名付け親も果たしている。












石垣山一夜城

2012年09月27日 17時36分51秒 | 歴史を旅する
秀吉全国制覇の仕上げ=小田原北条氏滅亡    小田急入生田駅から徒歩50分、JR早川駅から同40分

 豊臣秀吉は1584年(天正13)関白に任官。
翌年85年四国攻め、翌々年86年九州攻めで、西国をほぼ平定した。

ここで秀吉は、「関東、奥両国惣無事令」を出し、関東と陸奥・出羽の両国において、以後大名同士の領土の取り合いがあれば、関白として征伐すると命じた。

 1588年、秀吉は聚楽第に後陽成天皇を招き、ここに全国の諸大名の列席を命じた。
このとき、小田原の北条氏政・氏直親子は出席しなかったところから、北条氏との対立は決定的になった。

 こういう状況下、1589年(天正17年)10月、上野国(群馬県)沼田城の城代猪俣氏が近くの胡桃城を奪ったことから、秀吉はこれを「関東、奥両国惣無事令」違反とし、11月北条氏に宣戦布告状を発する。

 北条側は早くからこの日のあることを想定しており、小田原城の城下町全部を「惣構え」という防御濠を作り、その他の支城を修築するなどするとともに、北条氏側は5万4千人を動員していた。

 しかし秀吉は、15万とも21万人ともいわれる大軍を動員、北条方を圧倒するその大軍で小田原城を包囲する前線司令基地として、石垣山に、一夜で城を築いたものである。

 一夜城は、小田原城から3km、本丸は小田原城より227m高い、つまり物理的にも小田原を圧倒する城で、これはかって秀吉が柴田勝家の北の庄城を囲んで、切腹落城に陥れたのと全く同じスタイル。

 この城は天正18年4月から同6月下旬までの80日間で、4万人を動員して構築したもので、「一夜城」ではあり得ない。むしろ小田原城からもこの建造の動きは十分見えていたはずで、これは籠城側に相当な圧力を与えていたと思われる。

 つまり秀吉からすれば、石垣山一夜城は、対小田原、対世間にデモンストレーションするための城であり威容を示す手段で、秀吉は一夜城に約100日間滞在しているが、、この間に、天皇の勅使を招き、千利休、能役者、猿楽師などを招請し、さらに淀君や側室とともに、各大名の奥方たちもこの一夜城に呼び寄せ慰問している。これは全く余裕の戦いである。

 一夜城は、近江坂本の穴太衆といわれる当時最新の石工集団が野面積の技法を初めて関東に実用した城で、だから石垣山といわれる。もとは笠懸山と言われたが、当時この石積みの技法が、東国では相当強烈に技術の格差を感じさせた名前であろう。(この石積み技法は江戸時代の大地震にも耐え、現在も多くが残っている)

いずれにせよ北条氏5代が関東での覇権争いをしている間に、応仁の乱を号砲スタートとする下剋上・戦国時代のなかで、京の周辺から関西や西国での政争軍事衝突・全国支配の激しい時代をへて、今や最終局面に達しており、関東というローカルの地での上杉・北条・足利の覇権争いは完全に時代遅れになっていたということか。

 秀吉の一夜城滞在100日の内に、いわゆる「小田原評定」があり、小田原方は、現代日本人と同じように、結論が出せない政治があり、ずるずるしているうちに結局小田原城開城の上、北条家当主北条氏直は高野山に送られ切腹。

ここに北条氏5代が滅亡し、秀吉の全国制覇が完了する。

いろいろ考えさせられるネ。

 



恐山

2012年09月03日 07時15分30秒 | 歴史を旅する
恐山


下北半島の恐山。

慈覚大師が1200年前に開基したとか。
この方は、ライシャワー氏が改訳した「入唐求法巡礼記」の作者である。
関東に慈覚大師開設に伴う寺が多く、たとえば目黒不動尊、浅草の浅草寺、山形の立石寺、松島の瑞巌寺等。

恐山菩提寺といい、延命地蔵菩薩を本尊とする。地蔵様であるから水子地蔵とか若くして夭折した人を祈るとか、さらに死後の世界をと祈る世界のようだ。

場所的には、硫黄ガスが吹き出る山肌を境内に持ち、周辺に湖と8峰がこれを囲むという蓮華の姿で地獄と極楽を表している。一番素朴な生死の世界を目で見える環境なのだ。

こういう環境だから、比叡山、高野山、永平寺、身延山、万福寺等々の御本山といわれるお寺よりも格段に印象が強い。生死、地獄と極楽、安寧を祈るところから、「人が死ねばお山に行く」という長年素朴な宗教活動を行っていたのだろう。

ちなみに境内に硫黄の温泉があり、参拝者にご自由にというので、小生も入湯させていただいた。かなり強い温泉だ。

将門塚  平将門の乱(天慶の乱)

2012年06月29日 09時19分49秒 | 歴史を旅する
将門塚  平将門の乱 (天慶の乱)   千代田区大手町1-1-1 

平将門の父、平良将は下総国佐倉に所領を有し、その子の平将門は京に上って中級官人として出仕し、摂政藤原忠平の従者となっていた。
良将の死亡により将門は帰郷。すると父の所領が伯父の平国香や叔父の平良兼に横領されていたといわれる。
将門は下総国豊田郡、猿島郡を本拠にして勢力を培った。
935年(承平5年) 前 常陸大掾 源護の娘をめぐる争いで、源護の三人の息子と紛争。将門は源三兄弟を討ち破り、源護の館真壁に攻め入り、更に将門は伯父の常陸大掾平国香をも討ち取る。
この間、平将門は関東で軍事力伸長。
源護の訴えにより朝廷からの召喚命令があり将門は上京し検非違使庁で尋問を受ける。朝廷はこれを微罪とし放免。将門は東国へ帰る。
逆に、平将門は元主人の藤原忠平に平良兼の暴状を訴え、朝廷から良兼らの追捕の官符が発せられる。これにより、以後、平良兼の勢力は衰える。
937年(承平7年) 平良兼の息子平貞盛は上京し将門の暴状を朝廷に訴える。貞盛は東国へ帰国し、常陸介藤原維幾に平将門追捕召喚状を渡すが、将門はこれに応じなかった。
この間、平貞盛は平将門側に追われ、東国各地を流浪することとなる。
このころ、関東各地では、新任の国司や介などの間の紛争、現地勢力等との紛争が頻発。軍事実力者としての平将門はこれら現地紛争に巻き込まれていく。
常陸国の藤原玄明が受領と対立して租税を納めず、乱暴をはたらき、更に官物を強奪したとして国衙から追捕令が出されていた。平将門は玄明を保護し、常陸介藤原維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は応じなかった。
939年(天慶2年)、この対立が高じて合戦になり、常陸介藤原維幾は3000人の兵を動員したが、将門に撃破され、国府に逃げ帰った。将門は国府を包囲し、藤原維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。将門軍は国府とその周辺で略奪と乱暴のかぎりをつくしたといわれる。
将門のこれまでの戦いは、あくまで一族との間の「私闘」であったが、この事件により朝廷に対して反旗を翻す形になってしまう。
将門は戦勝によりおごり高ぶり、周辺にあおられ血気盛ん。軍を進め、同年、下野国、上野国の国府を占領、「新皇」と称して、朝廷とは独自に除目を行い関東諸国の国司を任命した。将門の軍事力の勢いに諸国の受領や国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国など、関東全域を手中に収めた。
  (これが、人間の性・さがなるものかもしれない。動きがついて動き始めると、行きつくところまでいかないと止まらない。個人レベルでもグループレベルでも同じ。アドレナリンが分泌し精神が高揚すると、天にも昇る気になり、それは止まることを知らない。大成功に終わるか破滅かまで突き進んでしまうかだ。その時の政治・軍事が往々にしてかような偶然性によって動き、また偶然にも左右される。その結果が歴史となることもある。世の中にはそんな例がごろごろしている。平将門の場合もその一例のようにも見える。)

この時、関東8カ国を平らげた将門が任命した関東諸国の国司は、下野守、上野守、常陸介、上総介、安房守、相模守、伊豆守、下総守など。軍事的実力を背景に、国司任命など人事権を行使するなど、まさに独立王国と言わざるを得ない。これを英雄視する立場からは当然将門伝説が生まれる。

940年(天慶3年)、将門謀反の報と、同時期に西国では藤原純友の乱の報もあり、朝廷は驚愕。関東には参議藤原忠文が征討大将軍に任じられ、追討軍が発出。これに対し、将門側は兵5000人を率いて常陸国へ出陣して、実質的な敵対勢力平貞盛と藤原維幾の子為憲を捜索するも貞盛等の行方は知れなかった。
しかしこのとき、将門は一時武装を解いて、下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。(結果的にはこれが平将門の命取りとなる最大の判断ミスといえよう。)
間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷と連合して兵4000人を集めているとの報告が入った。このとき将門の手許には兵1000人足らずしか残っていなかったというが、そのまま出陣する。
  (ここでも無理して戦うという大きな判断ミスを犯している。負け戦とはそういうもので、途中での致命的なミスを何度も指摘できるが、勝ち戦ではかような判断ミスは結果オーライで消えてしまう。)
貞盛と秀郷は将門軍の先鋒を撃破して下総国川口へ追撃する。合戦になっても、将門の軍勢いはふるわず、退却。
貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、将門の本拠地に攻め寄せた。将門は兵を召集するが形勢が悪く集まらず。やむを得ず、兵400人を率いて対陣。貞盛と秀郷の軍に為憲も加わり、将門勢力と合戦がはじまった。
最初、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破した。しかし急に風向きが変わり、風を負って勢いを得た連合軍は反撃に転じる。将門は自ら先頭に立ち奮戦するが、飛んできた矢が将門の額に命中し、あっけなく討死した。享年38歳。

将門の死により、その関東独立王国は僅か2ヶ月で瓦解。残党が掃討され、関係者は誅殺。将門の首は京にもたらされ梟首された。将門を討った藤原秀郷には従四位下、平貞盛には従五位下がそれぞれ授けられ、関東は昔の律令制が緩んだ地方秩序が回復。

将門伝説
 将門の首は京に送られ、梟首獄門にかけられた。  しかしこの首は、3日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵の国豊島郡柴崎の地に落ちた。この際、大地鳴動し太陽も光を失ったという。村人は恐れてここを将門の首塚としたと。
この地は、現在東京都千代田区大手町1-1-1、三菱UFJ銀行の向かい側、三井物産の東隣の文句なしの1等地である。この地は神田明神の故地であり、ここに、1307年徳治2年、真教上人が将門の霊を供養した供養碑があり、その後焼損の度に復刻し、現在に至ると。なお、この地は明治2年から第2次大戦まで大蔵省があり、大蔵大臣阪谷芳治が後人のため、古跡保存碑を作ったと。
更になお、この地は、江戸時代の寛文年間、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、ここで、歌舞伎「先代萩」、山本周五郎「樅の木は残った」の伊達安芸・原田甲斐が殺害された場所でもある。




石川島散歩

2012年06月14日 20時14分18秒 | 歴史を旅する
石川島、現在の月島を散歩。中央区の「月島百景」展示会を見に行ったついでに月島、晴海埠頭を自転車で散歩。

今でこそ、中央区内の 佃、月島、勝どき、豊海、晴海、の名称の区割りがあるが、そこにはそれなりの歴史がある。

徳川家康と上方で関係のあった、摂津の国西成群佃村・大和田村の漁民33名が江戸に下った。幕府に魚や野菜を提供することを認められ、石川氏が拝領の石川島の南続きの干潟を築立し、ここを出身地の名をとって佃島とした。ちなみに1649年慶安2年には、戸数80件、160余名の漁民がいたと。

隅田川河口の浅瀬の島は、明治5年に佃島と改名されるまでは、石川島であった。これは、1626年2代将軍秀忠の時代、旗本石川正次が御船奉行として、水主同心130人程度を統括し、幕府水軍として江戸湊を防衛する役目であった所からの命名と思われる。この役職は1590年の家康関東入国時から存在していたもので隅田川河口や品川沖の航行を司る役目であろう。

 それから約160年、徳川幕府も安定期をすぎると、内政上の各種問題を抱える時代変化の矛盾が生じて居た。当時の、火つけ盗賊改め・長谷川平蔵の建議により、隣接地の寄洲に人足寄場が設けられた。石川氏は永田町へ移転。

人足寄場とは、離村した者や、放浪者、人別帳に記載のない無宿者、以前刑罰を受け引き取り人のない者たちを収容した施設で、1790年寛政2年老中松平定信が長谷川平蔵の建議を受けて石川島に設置したものである。

鬼平犯科帳の時代は、無宿者や経犯罪者に対し仕事を教え出所後に自立させる授産・更生の機能を果たしていた。従来は無宿者対策と言えば、佐渡金山に送り強制労働をさせるのが中心であった。
 石川島人足寄場入所した無宿者は、まじめに作業し改心の様子が見られれば月日を問わず放免、農村出身者には相応の地所を与えられたり、江戸出身者には、店を営めるように取り計らわられることもあった。作業に対し賃金が支払われ、その1/3を強制貯蓄させ、出所の際にそれを与えた。また月3度の休業日には心学者による訓話もあったとか。
 人足寄場での作業は、藁細工、精米、堀の浚渫、炭団の製造、古紙の再生、牡蠣殻灰の製造など。特に1841年天保12年から、油絞りが加わり、これは人足寄場の大きな収入源となり、年間800両の収益となったとか。
 
しかし、1836年の天保の大飢饉による無宿人の増加、社会不安から、人足寄場は懲役的性格を強めていった。以後そして明治以降は、懲役場、監獄所と改称し、1895年明治28年、施設の老朽化などで、これら機能は、巣鴨へ移転し、石川島の役目は終わった。

隅田川河口や石川島あたりは本来自然堆積で水深が浅かった。明治になると大型船の航行の必要から、東京湾の浚渫工事とその付帯事業として浚渫の揚げ土を用いて、月島・新佃島の埋め立て工事がおこなわれることとなった。これはのちの大倉組、日本土木会社が行うこととなった。

明治政府の大計画は明治16年に計画され、月島第1号埋立地は明治25年竣工。つぎは月島第2号埋立地が明治27年竣工。新佃島が明治29年竣工。月島第3号埋立地が大正2年竣工。月島第4号埋立地が昭和6年竣工。そして最後の月島漁業基地が昭和37年竣工した。これを見ると、歴代政府、東京府のすごい執念が感じられる。一言で言うと、東京は隅田川河口&東京湾へ埋め立てしつつ、新領土拡大を行ってきたのだ。
 そして、月島は明治25年の埋め立て時期に、築島から月島に代わって現在に至る。

東京は日清・日露戦争を契機に産業が発達。月島はその適地であった。幕末の西欧軍艦の来航等もあり、石川島において、幕府や明治政府の造船対応があったが、それは官営の艦船事業。明治9年に平野富二が石川島平野造船所を設立し、民間部門の汽船需要を開拓していった。明治44年には芝浦製作所と提携し、造機、鉄道旅客用車両、大型橋梁建設等へも進出する大企業となっていく。

 しかし、時代は変わる。高度経済成長の時代が過ぎ、多くの産業が構造改革していく中で、石川島造船の跡地は現在、高層マンションにとって代わられている。
月島の向こう側の石川島播磨跡地でも、都市再開発され、豊洲高層住宅街となり急激な変化を遂げている。そして月島はいま「もんじゃ焼」のブランド地となっている。













分倍河原の戦い

2012年06月09日 23時44分46秒 | 歴史を旅する









分倍河原の合戦             JR南武線・京王線分倍河原駅から歩20分


1333年元弘3年、新田義貞は上野国生品神社で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。鎌倉街道を利根川に沿って南下。挙兵時百五十騎余だったが、途中、甲斐源氏、足利高氏の嫡男千寿王(のちの義詮)らが続々合流し、20万余りもの大軍勢となった。
新田軍は鎌倉幕府方の長崎高重、桜田貞国らと、小手指原の戦い、久米川の戦いで撃破して進軍。幕府軍も態勢を立て直し、鎌倉からは執権北条高時の弟北条泰家を総大将とする10万の軍勢も合流して、この分倍河原で陣を敷いたという。
新田軍は分倍河原に向かって、正面から激突。まずは幕府軍が奮戦して新田軍を撃破し、新田軍は狭山市堀兼まで敗走。しかし、翌未明には態勢を立て直し、幕府軍を奇襲。これにより北条軍は壊滅状態となり、鎌倉を直接守るべく敗走した。それを追走して、鎌倉での包囲戦の後、東勝寺に立てこもった執権北条高時ら一族600名は東勝寺にて、自害。鎌倉幕府が滅亡する。

 なぜ鎌倉幕府があっけなく滅亡したのか、いろいろ疑問がある。関東各地の大小の武士団が、自己の存立と繁栄をかけて新田軍に雪崩を打って参加したのだろうが、その動機と理由は何だろうか。後醍醐天皇等の綸旨等での要請・教唆は当然あっただろうが、関東の個々独立の武士団を突き動かしたものが何であったか、どうもよくわからない。
 北条得宗家の横暴・富・地位・権力集中は多分その通りだろうが、それなりに長年の秩序が維持されてきたのだろう。執権北条高時が犬追物にふけって政務放棄していたとかいうのは理由にならない。
 京都では、後醍醐天皇など朝廷方謀反=幕府転覆活動を鎮圧するために派遣されたはずの鎌倉幕府軍最高実力者足利高氏が、何らかの理由で、寝返った。そして鎌倉幕府の京都支配の根拠地南北京都探題を急襲、これを滅ぼした。これが最大の要因か思うが、北探題の責任者、北条仲時は破れて鎌倉へ帰還のを図るが、近江番場宿の蓮花寺で333名全員が腹を切って自害。本来の京都治安防衛勢力が、自らそのプレゼンスを消滅させてしまうなんて、現代的感覚では理解ができない。

 いずれにせよ、歴史の代わり目を作るものとは、何と何と何と がその原因なのだ、と言えるものがほしい。
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1455年享徳4年1月、足利成氏鎌倉公方勢と上杉関東管領勢が、同じこの分倍河原の地で戦っている。享徳の乱といわれ、関東の応仁の乱に相当するような騒乱=戦国時代の開始=は、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したことに始まる足利氏と上杉氏が対立。
足利グル―プは500騎でここ分倍河原で上杉グループに奇襲、一進一退のところ、扇谷上杉家当主上杉顕房が戦死。
以後、鎌倉公方グループが優勢に上杉関東管領グループを追撃するが、室町幕府の援軍や上杉一族の援軍等で盛り返し、戦線は膠着状態となる。

そうすると上杉関東管領グループに押さえられている鎌倉には、鎌倉公方足利成氏が帰還することはできず、利根川の東、下総の国の北部の古河に住み着いて、以後130年近く古河公方と称する地方政権となる。
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鎌倉幕府の終焉、関東での長期間の戦国混乱の時代の開始という、日本史上の二大合戦の舞台で極めて有名な分倍河原だが、今は現代化した都市の街並みにうずもれ、往時を想像するものは何もない。分倍河原駅前に、新田義貞の騎馬像があり、旧鎌倉街道沿いに、「分倍河原古戦場碑」があるのみだが、周辺は分梅町として名を残している。
室町時代の享徳の乱はその後、多くの地で、大小多くの戦があり、分倍河原の戦いはあまり印象が強くなさそうで、分倍河原と言えば、新田義貞が独占しているようだ。

石神井城の戦い

2012年06月05日 13時59分11秒 | 歴史を旅する
石神井城の戦い・・・豊島一族滅亡  石神井公園・三宝寺池  西武池袋線石神井公園駅から10分

豊島氏は秩父平氏の一族で鎌倉幕府の有力御家人。
武蔵国内に練馬氏、板橋氏、平塚氏、小具氏など多くの支流があり、室町時代でも大きな力を有していて、その所領は豊島、足立、新座、多東の四郡で2300余町歩、5万7500石ともいわれる。
古河公方足利成氏グループと関東管領上杉氏グループとの長期に渡る享徳の乱では豊島氏は上杉氏側に味方していた。

長尾景春の乱を通じて、扇谷上杉氏家宰の太田道真、道灌父子が大きく勢力を伸ばした。

これに関し太田道潅との対立が豊島氏が長尾景春方に呼応した原因とされる。特に豊島氏の領域近辺に江戸城を築いたことが豊島氏の権益を脅かしたであろうと考えられる。

長尾景春の反乱の過程で、豊島泰経は石神井城、練馬城(練馬城が現在の豊島園である)で挙兵。その弟の豊島泰明は日田塚城(東京都北区)で挙兵。道灌は上杉朝昌、千葉自胤と合流すると、両軍は江古田川と妙正寺川の合流地点、江古田、沼袋あたりで遭遇。道灌は氷川神社(東京都中野区)に本陣を置いたとされる。

数においては豊島勢が勝り、緒戦は優勢だったが、徐々に豊島勢は敗退して泰明は戦死。道灌は50騎で200騎の豊島勢を打ち勝ち、板橋氏、赤塚氏ら豊島勢150騎が討ち取られたという。
泰経は石神井城に逃げ込み、道灌は愛宕山(練馬区上石神井三丁目)に陣を敷いてこれを包囲した。泰経は城を出て道灌と会見し、降参を申し出た。城の破却が当時の降伏の作法であったが、泰経はこれを実行せず、このため偽りの降参とみなした道灌は総攻めをしかけ、石神井城は落城した。泰経は平塚へ逃亡。

江戸城と河越城との連絡線を回復した道灌は主君上杉顕定、定正と合流して北武蔵、上野国を転戦して長尾景春を封じ込めることに成功。ここから、古河公方が和議を打診してきた。

この和議を妨害する勢力も多く、この機会に豊島泰経も平塚城に拠って再挙兵。道灌は平塚城を攻め落とし、泰経は城をのがれて丸子(川崎市)小机城に逃げるがここも包囲され落城。泰経は行方知れず、豊島氏本宗家は滅亡した。

石神井城落城に際して、豊島泰経は黄金の鞍を白馬に載せ石神井公園内の三宝寺池に入水し、次女の照姫も後を追って入水したという伝説があり、練馬区では毎年「照姫祭り」が行われている。
しかし泰経は石神井城落城のときには死んでおらず、平塚城で再挙し太田道潅に戦いを挑むが、ここでも敗退、そこで行方不明となり豊島家滅亡した。


道灌は各地を転戦して景春方を攻め潰し、1480年文明12年には景春の最後の拠点日野城(秩父市)を落として乱を平定した。

この結果、1482年文明14年に古河公方と関東管領方=幕府方との和議が成立して、30年近くに及んだ長享の乱という関東の争乱は終結した。
豊島氏の所領は道灌に帰することとなり、ほとんど独力で乱を平定した道灌の声望は絶大なものとなった。
だが、これが上杉顕定、主君上杉定正の猜疑を生み、1486年文明18年、道灌は糟谷の館(神奈川県伊勢原市))で主君上杉定正によって謀殺されることになった。

ここから、歴史のステージが大きく代わり、両上杉家の対立抗争の「長享の乱」がこの後、18年間も続くこととなる。




古河公方館跡

2012年06月02日 19時52分28秒 | 歴史を旅する
2日土曜、湘南新宿ライン・宇都宮線で古河に行った。
古河は東京から60km。茨城の西部、埼玉の北部、栃木の南部を商業圏とする人口14万の穏やかな小京都?いい町だ。

 古河と言えば、古河公方か土井利勝。我輩は江戸時代でなく室町に関心が多い。

古河の元は、下河辺庄、つまり鎌倉時代の下河辺行平の領地。現在の古河から埼玉県三郷市あたりまでの広大な地域であった。しかし、鎌倉幕府の有力御家人であった下河辺氏がどういう理由でその領地を北条氏に奪われたかは、私の不勉強でよく分らない。

 鎌倉が滅亡した際、北条氏を滅ぼした勝者足利氏およびそのグループがこれを奪ったのでないかと想像するが、これは素人の想像。下河辺氏は昔の同族であった小山氏に追われたともいわれるが、何時頃のことか、よくわからない。

 いずれにせよ、下河辺庄の北部、いまの古河地域は足利義満から2代鎌倉公方足利氏満に与えられたと読んだ記憶がある。つまり古河は鎌倉公方家の貴重な領地であったのだ。南の方は簗田氏や野田氏が領有している。

 室町幕府足利氏は清和源氏源頼義の子孫で、その一族はすそ野が広く、足利尊氏は決して本家筋ではない。末端の一族だから、なるほど室町幕府創立という大事業をやったが、いざその政権を維持していくためには同族有力者たちの支援を頼らざるを得ない、だからこそ、室町幕府は、同類多くの一族、細川・畠山・斯波・等を含む連立政権であったのでないか。

要は、室町時代あたりでは、将軍とか鎌倉公方とか言っても、多くの有力者の中の比較的有力者の、one of them 程度で、いざとなれば有力者たちの支持を得られない、造反の恐れがあるという構造だったと考える。
(江戸時代では徳川氏は800万石という圧倒的実力をキープした。これは鎌倉・足利幕府の根本的欠陥を見抜いた徳川氏の有力官僚たちの知恵だろうと考える)

鎌倉における鎌倉公方も京都の室町幕府と同様で、関東周辺有力者の、それぞれの利害損得計算の上でのサポートを前提とした構造でないか。

一方、室町足利幕府政権から言うと、鎌倉は京都幕府の一地方機関でもあり、その枠内での関東10ヵ国を支配する構造。現在で例えれば、東京の農水省に対する さいたま市の関東農水局の位置づけかも。

 ところが歴代鎌倉公方は独立心・敵愾心の強い性格の人が多く、常に京都と対抗・独立志向が強く、結局、永享の乱では鎌倉公方足利持氏が自害。鎌倉公方は一時消滅。

その後京都の足利義教将軍謀殺という嘉吉の乱等政治情勢激動の中、いろいろあって、持氏の遺児、政氏が鎌倉公方となる。
 しかしこの鎌倉公方足利政氏が補佐役の上杉関東管領を謀殺。

このため京都幕府は、政氏を公的に追討とする。上杉関東管領勢力等に追われて、鎌倉を放棄、結局、唯一の領地、古河にその存続の基盤を作ったというのが、古河公方と解する。
以後享徳の乱といって、京都の応仁の乱10年間以上の、27年間も対立構造が続く。その根拠地で現実に居住したのが古河鴻巣館。これの跡碑を見てきたのだ。


古河の周辺は、宇都宮氏とか結城氏とか小山氏とか野田氏とか既成勢力がきっちり抑えているため、後発の公方が入るところは唯一の下河辺庄の北部、古河の地という隙間産業みたいなものと言えようか。

それでもここで、130年近く、独自の領国を維持したのだから、それなりの意義があろう。
 
 これはまた詳細を書くよ。

鶴巻温泉

2012年05月26日 20時38分25秒 | 歴史を旅する
最近温泉に入っていないね。
 と思うとむずむず。でも一緒に行ってくれる綺麗どころはいないねー。悲しい。
で、一人さびしく。でも温泉だけでは能がない。かといって山登りは趣味に合わない。
乗り物と歴史がpreferenceだな。

で、遠くは大変で、思いついたのが小田急沿線の鶴巻温泉。
その手前の駅の伊勢原には太田道灌の墓がある。これを見てから温泉だ。

伊勢原は江戸時代、大山参りが大流行。これをやっていた伊勢の人がこの地で宿泊しているうちに、水の流れる音を聞いてここは開墾の場所だと判断し、地元の伊勢神宮を招へいしたのが伊勢原大神宮の由来とか。そこへこのあたりに平安末期から糟谷の庄と言われた地域から人が集まり始めて、現在の伊勢原市に発展したとか。    知らなかったー。

我輩は伊勢原駅から太田道灌暗が殺されたという糟谷の館を探したが、それは現在産業能率大学の敷地内だとか。でも、館跡を示すものは皆無とのこと。手前に太田道灌を荼毘に付した洞昌院というお寺とそこに墓があると。

 これを見てきましたよ。風呂場で道灌を斬殺したという糟谷館は、このお寺から800m程度の、ああなるほどこういう地形背景に相模の守護、扇谷上杉家の本拠地があったのだと、想像が膨らむ。

洞昌院の小さな卒塔婆を見て、あと東名高速の下を通り、246を東へ3km歩く。
ここに丸山城址公園があり、平安末から鎌倉以降にかけて、伏見の安楽寿院の荘園があり、その受領、糟谷氏の本拠地であったとか。
 この糟谷氏と扇谷上杉との関係は不明だが、この城址の一部に高部屋神社があり、ここが糟谷郷の総鎮守であった。この隣に太田道灌の首塚があった。

こうして室町の旅をして、伊勢原から電車で隣の鶴巻温泉へ。ここで秦野市「弘法の里の湯」という日帰り温泉へ。カルシウム・ナトリウム、塩化物温泉。やっと鶴巻温泉を経験させてもらった。2時間1000円。

 2つの源泉が楽しめるとの話だが、場所柄、山歩き後の男女が多く、にぎわっていた。落ち着いて温泉を楽しむには、平日にゆっくりいくのを勧めるね。

   歴史を旅する・・・第1次国府台の戦い

2012年05月23日 20時55分32秒 | 歴史を旅する
23日 前日と違い、さわやかな夏日に、京成線で江戸川の矢切りの渡しの向こう側、市川市の里見公園を散歩。ここからスカイツリーをはじめ、新宿や渋谷や武蔵の国がバッチリよく見えました。やはり、ここは昔の下総の国の国府なんだ。
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第一次 国府台の戦い・・・子弓公方足利義明滅亡
   千葉県市川市国府台。京成線国府台駅から徒歩10分、里見公園。

 都鄙合体 (27年にわたる関東管領上杉氏と古河公方足利氏の敵対終了合意)の後、1512年ごろ、古河公方足利高基と先代の前公方足利政氏の間で、関東管領上杉家の家督相続をめぐって内紛が生じた。この機に高基の弟で出家していた足利義明を還俗させて、これを担いで、古河公方グループや上杉管領家グループに対し第3極の存在感を示そうとしたのが真理谷信清とか里見氏等の主に上総の在地勢力であった。

足利義明はこれに乗り、子弓城(現在千葉市若葉区)に入り、子弓公方と称する。

1524年には北条氏が江戸城を占領、1537年には武蔵・下総国境の葛西城を占拠して江戸湾の沿岸を制圧した。
足利義明は、1533年、里見氏の内部での家督紛糾等にうまく介入するなど政治力を発揮した徐々に実力をもち、小弓公方家による南関東諸大名の統合を名分として急速に勢力を拡大してゆく。

このような小弓公方家の急速な勢力拡大は、新興勢力北条氏や旧勢力古河公方家に危機感を抱かせた。子弓公方義明排除を図る古河公方と海上支配の確立を図る北条で利害が一致、両者が盟約を結ぶことになる。

1538年、子弓公方足利義明は北条勢力の関東進出を阻止し、更に本家の古河城へ進出するため、真里谷信応や里見義堯ら房総の在地諸大名による軍勢1万を率いて北条氏綱、古河公方足利晴氏連合軍2万と国府台と北の相模台(松戸市)で衝突することになる。
これがいわゆる第一次国府台の戦いである。

子弓公方義明は武勇に優れ、自らを恃む性格であったらしい(これは歴代鎌倉公方の共通性格でもあるが、実に面白い傾向だ)。

足利義明は中世の人かもしれない。新しく関東に入ってきた新参者の北条軍が足利将軍一族の足利義明に弓など引けるはずがないとたかをくくり、北条軍が渡河するときに奇襲する案を拒否し正々堂々と戦うと主張したりして、子弓軍内部では十分信頼を得られていなかったといわれている。
 結果的には、足利義明は自ら陣頭で指揮するなど奮戦し一時は北条・足利軍を押したが、里見軍は義堯が協力的ではなく、また真里谷氏内部にも家督争い等から房総軍の士気はあまり高くなかった。そのため、義明らの軍勢はやがて北条軍の反撃を受けて壊滅。義明自身も討ち死にし、嫡男義純もここで討ち死。ここに古弓公方という夢が潰えた。
 義明の戦死後、小弓城は北条方の千葉氏が奪還。足利義明の遺族は里見氏を頼って安房に逃れる。
 小弓公方の滅亡により、北条氏は南関東における覇権確立へ進む。また、真里谷氏では再び家督争いが生じ急速に衰退し、里見氏が久留里城や大多喜城・上総南部を押さ大きな勢力になる。
 義明の長女青岳尼は鎌倉の太平寺に尼として預けられていたが、里見義堯の嫡男義弘の懇願によりその正室となった。(一説では、里見義堯は無理やり強奪したとの話も。)  これによって足利義明の旧臣もその多くが里見氏に仕える事となった。里見氏はこの26年後の第2次国府台の戦いで大きく敗れ、衰退していく。
 子弓公方義明の次男の頼純(頼淳)は、里見氏の庇護を受けるが諸国を流浪。やがてその娘が豊臣秀吉の側室となったことから、小田原征伐で北条氏の滅亡後、頼純の長男国朝は秀吉の計らいで足利氏姫(最後の古河公方足利義氏の娘)と結婚。義明の系統は喜連川氏として存続することになった。
 なお、この間の動きや、長享の乱と言われる上杉関東管領家の内紛などを題材に、江戸時代のベストセラー「南総里見八犬伝」がある。

 また、第1次 国府台の戦いの26年後の1564年、同じ場所で、里見義弘・太田資正8000人に対し北条氏康・氏政20000人と役者も時代背景も変えて第2次国府台の戦いが生じるが、最初押されぎみで敗北近い北条軍が、相手点軍の寝込みを襲う夜襲などで圧勝、里見軍は衰退して行くなど軍事史的には興味深いが、歴史的重要性には劣ると思う。