新宮城は和歌山城主・浅野幸長の家臣・浅野忠吉が慶長6年(1601年)に築城を開始、
いったん廃城となったが、再び築城を許された
城が完成したのは寛永10年(1633年)。この時は徳川頼宣が和歌山に入り、新宮城の城主は水野重仲になっている。
明治時代に民間に払い下げられ、観光施設等が作られたそうだが、石垣は特にきれいに残されている
現在は公有地化され丹鶴城公園として整備されている
本丸の下にはトンネルがあり紀勢本線が通っているのも面白い
さて、この城の最大の特徴とも言えるのが熊野川に面した「水ノ手」と呼ばれる郭でしょう
水ノ手は炭の貯蔵庫群があったと推定されており、貯蔵量は1万俵にもなるとか
これは城内で消費するためではなく、水野氏は熊野川の流域で生産された炭を城に集め専売していたと
思われます
軍事施設から経済施設への変遷もうかがえる点でも新宮城は興味深い城であろう
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新宮駅のすぐ近くにある徐福公園
いかにも中国的な色彩とデザインの門なので、駅舎を出てればすぐに目につくと思います
徐福は秦の始皇帝に仕えた方士で、秦の始皇帝に「蓬莱山に不老不死の霊薬があるので、取りに行って皇帝に献上したい」と言って旅立ったが戻ってくることはなかったとか
徐福の目指した蓬莱山は日本のどこかであり、日本に辿り付いた徐福は王となり中国からの技術を伝えたという伝説が残っています
この伝説は日本のあちこちにあり、新宮もその一つ
公園には徐福の墓があります
この墓は江戸時代に紀州藩初代藩主・徳川頼宣の命により建てられたもので
日本全国に徐福伝説があるが、墓があるのはここだけだそうです
新宮市には徐福伝説にまつわる史跡が点在しており、それは地名にも表されている
熊野川の河畔には徐福上陸の碑がある
上陸地点とされる場所のほど近くにあるのが阿須賀神社、そして、神社の裏山が蓬莱山である
徐福が本当に目指したはこの地だったのか? 伝説の謎は今もって謎のままである・・・
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