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近江FWⅡ -5-

2024-04-04 07:25:06 | 取材・旅行

近江FWⅡ -5-

令和6年3月30日、いつものメンバー(積知積徳会)で、近江へFW(フィールド・ワーク)に行ってきました。その様子を10回にわたってお知らせしています。

今回の訪問地です。

今日はその5回目。安土城5 です。①が安土城です。

分かれ道を右(西)へ向かいます。

摠見寺跡 です。信長が生前に建立した臨済宗妙心寺派のお寺です。

 

文字起こししてみましょう。


摠見寺

摠見寺は、織田信長によって安土城内に創建された本格的な寺院です。
天主と城下町を結ぶ百々橋口(どどばしぐち)道の途中にあるため、 城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。 本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際には類焼をまぬがれることができましたが、江戸時代末期の嘉永7年(1854)に惜しくも伽藍の中枢部を焼失してしまいました。 その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺地を移し、現在に至るまで法灯を守り続けています。
平成6年度に発掘調査を行った結果、旧境内地の全域から時代を異にする多くの建物跡が発見されました。 南面して建てられた建立当初の伽藍配置は、密教本堂形式の本堂を中心に、その前方両脇に三重塔と鐘楼を配置した中世密教寺院特有のものでした。 本堂の脇には、鎮守社と拝殿が建てられています。境内の南方は急傾斜地となっているため、参道は西の二王門・表門から本堂前を通り、東の裏門に通じています。建立に当たって、これらの建物の多くが甲賀郡を中心に近江国各地から移築されたことが、種々の記録から分かります。
その後、豊臣秀頼によって本堂の西に、渡り廊下で結ばれた書院と庫裏等が増築されました。 江戸時代になると、 伽藍の東側に長屋と浴室・木小屋・土蔵木蔵など、 寺の生活を支える多くの建物が建てられました。 右の『近江名所図会』 に描かれた様子を重ね合わせると、 江戸時代を通じて活動を続ける摠見寺の姿がうかがえます。


西の湖が見えました。

この半島には驚きました。

空から見てみましょう。右が安土山です。

拡大すると・・・・

敷地にボートがある家が何軒もあります。また、船着き場もあります。

漁業ではなく、レジャー目的でしょう。豊かですね・・・・

 

摠見寺 三重塔

国の重要文化財。三間三重の塔で、屋根は本瓦葺きです。

室町時代の建物で、棟札に享徳三年(1454)建立、天文二十四年(1555)修理との墨書きがあります。

これは、天正三年~四年に信長公が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移築したものとされています。

建久九年(1604)、豊臣秀吉の次男、秀頼が一部修理しています。

 

なぜ甲賀から?

 

六角氏 が関係しているのでは?

永禄11年、信長は六角氏を攻めますが、甲賀に敗走しています。実は、六角氏はそれ以前にも、甲賀に隠れて、ゲリラ的に行動しています。

信長は正義感の塊です。降伏ではなく、敗走にカチンときたのでは?

六角をかくまった甲賀も許せない。

そこで、甲賀の力を弱めるために、六角が隠れた寺を移設させた。 というのは、私の推理です。

これだけ近くで三重塔が見られるのはここだけ?

摠見寺 二王門

楼門と、門内に安置されている木造金剛二力士立像はともに国の重要文化財です。

棟木に、元亀二年(1571)七月甲賀武士山中俊好建立、とあり、甲賀から移設したことがわかります。屋根は入母屋造り、本瓦葺き。

金剛力士像の頭部内側に、応仁元年(1467)因幡院朝作の造像銘が残っています。

見にくいのですが、文字起こししてみましょう。


重要文化財 摠見寺 二王門

正面の柱間三間の中央間を出入口とする楼門を三間一戸楼門といって実例が多く、ここでは正面の脇間に金剛柵を設け、金剛力士の像をまつるため二王門と名づけている。

この門は棟木に元亀二年(一五七一)この建立を示す書銘があるが、織田信長が天正四年(一五七六)築城に着手し、あわせて摠見寺を建てるに際、甲賀郡から移築したと伝えられる。

組物は上下層も三手先で、和様を主調とした最も一般的な形式であるが、下層中央間の彫刻入りの墓股(かえるまた)や隅柱の上部についている頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)などは室町時代末期の特徴をよく現わしている。
木造金剛力士像は応仁元年(一四六七)の作で重要文化財に指定されている。
昭和五十二年十月    安土町教育委員会


ここは、百々橋へ向かう道です。城下につながっており、当時の人にはここがメインルートでした。本来の大手道です。

今は、堆積物で埋まっています。

通行止めです。

白い石が目立ちます。「湖東流紋岩」です。

彦根城のサイトから引用します。

https://www.city.hikone.lg.jp/kakuka/shimin_kankyo/5/2_2/9/shiroshizen/hikonezyou3/3697.html

動画も紹介します。

higashiomi.TV #57☆「湖東流紋岩」を紹介します

石を採掘した跡です。

切り出して使われなかった巨石が転がっています。白っぽいのが特徴です。

伝前田利家邸跡 

 まずは案内図をご覧ください。

 

伝羽柴秀吉邸跡 

 同様に案内図をご覧ください。後に吟味します。

先述の中井均先生は、ここは信長の館と言っています。現 摠見寺のある「伝徳川家康邸跡」も疑わしいと。

私も同感です。

なぜか?

秀吉は、天正2年に長浜城を築き、坂本城の明智光秀と共に、琵琶湖ネットワークの一翼を担っています。

長浜を離れてよいのでしょうか?

家康は、長篠設楽が原で勝頼を破ったばかりで、天正10年の武田氏滅亡まで、領国を離れるわけにはいけません。

そんな武将に、このような立派な屋敷が必要でしょうか?

ついでに、前田利家は、佐々成政、不破光治と共に「府中三人衆」のひとりとして越前国を治めています。

伝羽柴秀吉邸跡 などの説は、次の図にもとづいています。前田利家の名はありません。

また、当時はもっと重臣の、柴田勝家邸、丹羽長秀邸はありません。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ke05/ke05_00421/ke05_00421.pdf

江戸時代に書かれたものですが、あなたはどう思いますか?

もちろん、家来と共に過ごすある程度の屋敷はあったと思いますが、立派すぎますね。

私が尊敬する小和田先生も疑問を呈しています。上の「近江国蒲生郡安土古城図」についても取り上げています。

安土城の「伝羽柴秀吉邸跡」への疑問

 

さて、前回の謎、安土城は誰が焼いたのか?

 

私は、盗賊説を支持します。

次の記事が簡潔に書かれています。

ここから 

以上で、安土城からの紹介を終わります。ガイドの水先生、ありがとうございました。

明日に続きます。明日は、②信長の館、③滋賀県考古学博物館です。 -6-


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