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近江FWⅡ -10-

2024-04-09 07:25:06 | 取材・旅行

近江FWⅡ -10-

令和6年3月30日、いつものメンバー(積知積徳会)で、近江へFW(フィールド・ワーク)に行ってきました。その様子を10回にわたってお知らせしてきました。

今回の訪問地です。

今日はその10回目、最終回です。⑧八幡山城 です。

八幡山城跡の案内です。わかりやすい!

樹木が石垣を壊しています。

周囲270度を見ることができる出丸です。

南東部です。近江八幡の城下町を見ることができます。

南の方向です。

南西の方向です。

近江八幡は、碁盤の目のような町並みです。

非常に完成度の高い城下町で、秀次の能力の高さを感じます。

龍神堂建立由緒です。

龍神堂

古い形式の石垣です。

ここも樹木によって痛んでいます。

北部の様子です。

西の丸は恋人の聖地と言われています。

本丸の石垣です。

瑞龍寺

由緒が書かれています。

文字起こししてみましょう。


 村雲御所と称し日蓮宗唯一の門跡寺院である。後継者は、皇族五摂家華族から出て代々尼宮が維持する慣わしであった。
 当所は、天正十三年 関白 秀次公が八幡城を築いた要害の地であった。

 当門跡は 関白 豊臣秀次公の生母の方 瑞龍寺殿日秀尼公が秀次公の菩提を弔うために文禄五年正月に創建されたもので、後陽成天皇からは 村雲の地と瑞龍寺の寺号 寺禄一千石を賜わりまた紫衣着用との御紋章を許されて勅願所となった。
 歴朝の尊崇も浅からず、寺格は黒御所と定められ、これに依って村雲御所と呼ばれることになった。


 門跡(もんぜき)寺院とは、皇族や摂家の方が出家して住職を務める寺院のことをいい、格式が高い寺院とされています。

瑞龍寺は、日蓮宗唯一の門跡寺院です。
瑞龍寺は、この説明もあるように、文禄5年(1596)に秀次らの菩提を弔うために、その母である日秀尼が、後陽成天皇より嵯峨の村雲に寺地と寺号、さらに寺領1000石を与えられ、建立しました。のちに勅願所ともなり、別名を村雲御所と言われるようになりました。
江戸時代には、京都の嵯峨から西陣(今出川堀川)に移され、昭和36年(1961)に当地へ移されました。それにより、八幡山城の本丸としての城郭は残ってはいません。移築に先だった発掘調査では、建物礎石、瓦、土器が検出されたという記録が残っています。また、本丸には天守台があり、建てられた天守は大津城に移築されました。その天守は、さらに彦根城へと移築されました。城はリサイクルされていたのです。 

菊の御紋が光ります。

本堂です。

ネコがいました。

他にも飼われているようです。

 

瑞龍寺の動画です。


瑞龍寺の奥にはお稲荷さんがありました。

ほぼ、算木積みです。

八幡山の説明がありました。

文字起こししてみましょう。


八幡山城の歴史と環境

 八幡山城は、滋賀県近江八幡市北方の八幡山(鶴翼山)に所在する城跡で、当時は、後背から西にかけて津田内湖(昭和四六年干拓)、東に西の湖が広がっており、内湖に囲まれた環境にありました。
 豊臣政権下の天正一三年(一五八五年)には、羽柴秀次に近江四三万石が与えられ、この八幡山に八幡山城が築かれました。築城に際しては、山麓に存在していた願成就寺が八幡山南方にある日杉山の南麓へ移動させられたことが史料に伝えられており、山腹に鎮座していた日牟礼八幡宮の上社も同じく、麓の下社と合祀されたことが伝わっています。本丸および二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸出丸の城郭施設は標高二八三メートルの山頂に位置し、居館群は標高約一三〇メートルの山腹の谷地形に平坦地を設けて造られています。大手道は、居館群最高所に位置する秀次館から麓に下り、築城時に開削されたと伝えら
れる八幡堀に到ります。この大手道両側には雛壇状に家臣団の居館群が広がっていて、東側の尾根と西側の尾根と八幡堀がセットで惣構えを構成していると考えられます。
 天正一八年(一五九〇年)に秀次が尾張清洲に移った後は、京極高次が代わって、二万八〇〇〇石で城主となり、秀次が自害する文禄四年(一五九五年)に聚楽第と同じく破却されました。
 尚、昭和四二年に、山頂本丸部分から山麓にかけて集中豪雨によって土砂崩れが発生しました。御来訪の皆様に安心して見学していただけるように近江八幡市では、関係各局と検討を重ね、さらにその検討資料となるように平成一二年度より確認調査や測量調査などを行っています。

 

八幡山城の特徴

 織田・豊臣政権下で築城されたいわゆる織豊系城郭は、一般的に防御空間と居住空間が一体になっています。それに対して八幡山城は防御空間としての山城(詰城)と居住空間としての居館群が分離する構造となっており、織田・豊臣政権以前の戦国期城郭に見られるような時代を逆行した二元的な分離形態をとっています。これは、八幡山城が築城された天正十三年(一五八五年)が、小牧・長久手の戦いの翌年であり、関東には後北条氏が ひかえていることなどから、東方に対しての臨戦態勢のもとで、防御線として近江国が考えられていたことによると考えられます。


秀次事件について触れようと思いましたが、時間がなくなりました。

詳しくは、次をお読みください。

動画です。


ロープウェーで麓に戻りました。

大人気のクラブハリエです。

動画です。

クラブハリエの祖、たねやです。

動画です。

白雲橋から東を見ると・・・・

画像出典 https://plaza.rakuten.co.jp/asobikokoro2/diary/202206110000/


ヴォーリズの設計です。

近江八幡は、ヴォーリズの街でもあります。

Wikipediaには次のように説明されています。


ウィリアム・メレル・ヴォーリズWilliam Merrell Vories一柳米来留〈ひとつやなぎ めれる[1]〉、1880年10月28日 - 1964年昭和39年)5月7日)は、アメリカ合衆国(米国)に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家社会事業家キリスト教信徒伝道者

ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人としてメンソレータム(現在はロート製薬商標、近江兄弟社は「メンターム」として販売)を広く日本に普及させた実業家でもある。

また、キリスト教青年会(YMCA)活動を通し「近江ミッション」を設立し、信徒の立場で熱心にプロテスタント伝道に従事した。

讃美歌同志社カレッジソングなどの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介するなど、音楽についての造詣も深かった。


画像も、Wikipediaより借用しました。

学校法人ヴォーリズ学園です。

ヴォーリズの建築 の動画です。豊郷小学校旧校舎群もヴォーリズの設計です。

以上で、今回の近江紀行の紹介を終わります。見ていただいてありがとうございました。

企画者である木本先生はじめ、仲間に感謝します。


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