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389 昭和2年3月4日前後の宮澤賢治(前編)

                   《0↑ 『図説 宮澤賢治』表紙》

 先日、花巻のとある書店で平積みされているこのブログの先頭のような文庫本の表紙が目に入った。手は自然に伸びていってその本を開いていた。
1.花巻農学校卒業生宛の集会案内
 定価を見ると、ページ数が254pの文庫本なのになんと1,575円もするし、頁を繰ってみてもそれほど目新しい図版はなさそうだから買うことを躊躇っていたが、次の図版に目がとまり買わずばなるまいと思った。
《1 花巻農学校卒業生宛の集会案内の葉書》

          <『図説 宮澤賢治』(天沢、栗原、杉浦編 ちくま学芸文庫)より>
この内容を活字に起こせば
   規約ニヨル春ノ集リ(旧二月一日)ハ來ル三月四日
   ニ当リマス。午前十時カラ午后三時迄、下根子
   ノ事務所内デヤリマス。種物ハ原價デ頒ケマス
   外ニ種苗ヤ製作品ノ交換、地人學会創立ノ協議、
   競賣等、ドウゾ何デモオ出シクダサイ。ゴ都
   合ガ宜シカッタラ、晝食ゴ持参デオネガイヒシマ
   ス。   昭和二年二月廿七日。

というものである。
 私としては初見の資料だし、字そのものは賢治の手による鉄筆書きの特徴的な字であることからこの〝集会案内の葉書〟は本物の資料だと直感したので、この内容を見て頭の中が一気に混乱し出した。そもそも昭和2年3月4日にこんな〝集まり〟が下根子桜で開催されたとなどということはいままで聞いたことがない。たしか昭和2年の2月1日を境として楽団は解散して音楽活動からは撤退、同年3月の末頃にはそれまで定期的に行われていた講義もなされなくなったとばかり思っていた。つまりこの頃になると羅須地人協会の活動は自然消滅し、その後の賢治が行っていた下根子桜での活動はせいぜい肥料設計くらいなものと思っていた。まして賢治が昭和2年3月4日頃に〝地人學会〟を新たに創立しようとしていたなどとは夢にも思っていなかった。
 となれば、この〝集会案内の葉書〟は『新しい葡萄酒には新しい革袋に入れなければならない』くらいの扱いをせなばならぬ「新しい葡萄酒」だと私は直感し、私としても多少は考察を試みなければなるまいと決意してこの一枚の資料のためだけに1,600円を財布から出してレジに向かった。

2.羅須地人協会案内状
 この初見の資料を見て直ぐに思い出したのはもちろんこれと似た次の
《2 大正15年11月22日付羅須地人協会案内状》

          <『宮沢賢治の世界展』(原子郎総監修、朝日新聞社)より>
である。因みにその一部を活字に起こすと
      …(略)…
   二、就て、定期の集りを、十二月一日の午后一時から四時まで、協
     会で開きます。日も短しどなたもまだ忙しいのですから、お
     出でならば必ず一時までにねがひます。辨当をもってきて、こ
     っちでたべるもいいでせう。

   三、その節次のことをやります。豫めご準備ください。
       冬間製作品分担の協議
       製作品、種苗等交換賣買の豫約
       新入会員に就ての協議
       持寄競売…本、絵葉書、楽器、レコード、農具、不要のも
            の何でも出してください。安かったら引っ込
            ませるだけでせう。
            …(略)…

である。堀尾青史の著書『年譜宮澤賢治伝』(中公文庫)によれば、これは大正15年11月22日の夕方、下根子桜の宮澤家の別荘に移り住んでいた賢治が隣家の伊藤忠一にこの「案内状」を持参し、近所の人に配ってくれるように頼んだというものであるという。
 この案内状の内容と前の〝集会案内の葉書〟の内容はほぼ同じような性格を持っているような気がする。一方で、一般に賢治は昭和2年2月1日付岩手日報の記事を切っ掛けにして羅須地人協会の活動を次第に停止していったといわれているようだから私もそれが事実だと思っていた。ところがこの3月4日の集会案内に書かれているとおりの事実があったのであれば、いままで私が思っていた「事実」とそれは相容れないことにはなりそうだ…。

3.〝集会案内〟で気になること
 まずはこれらの2つの資料を見比べ、ためつすがめつしながらこの〝集会案内の葉書〟に関して気になることを箇条書きしてみると
 (1) 規約:何の規約か。羅須地人協会には規約はなかったはずだ。
 (2) 春ノ集リ:規約による〝春ノ集リ〟とは何か。〝定期の集り〟と同じようなものか。
 (3) 下根子ノ事務所:なぜ〝協会〟としなかったのか。
 (4) 種苗ヤ製作品ノ交換:この時期にも交換会を行っていたのか。
 (5) 競賣:       〃      競賣     〃       。
 (6) 地人學会:地人學会とは何ものであり、羅須地人協会とはどんな関係にあるのか。
 (7) 地人學会創立:地人學会は創立されたか。なぜ創立しようとしたのか。
 (8) 三月四日:この日に集まりは実際開かれたのだろうか。
 (9) 昭和二年二月廿七日:この日付に意味はあるのか。
などがある。この項目の数の多さ、そしてその中にはいままでの認識と矛盾することが少なからずあることが私に混乱を引き起こした原因だったようだ。

4.『校本 年譜』より
 思い返してみると、たしか賢治の年譜には件の〝春ノ集リ〟は入っていなかったと思うので次にそのあたりを確認してみたい。
 そこで筑摩の『校本 年譜』からこの時期昭和2年3月4日前後の関連した事項を以下に抜き出してみた。
2月 1日 「岩手日報」夕刊、三面中段に写真入りで『農村文化の創造に努む』という記事が出る。
2月10日 羅須地人協会講義 「植物生理学要綱」下。午前一〇時より午後三時まで。
2月18日 岩手日報夕刊に2/1付けの記事を受けて「農村文化について」という投書あり。
2月20日 羅須地人協会講義 「肥料学要綱」上。午前一〇時より午後三時まで。
2月28日    〃       〃   下。      〃
3月 4日 <一〇〇四 〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕>
 湯口村の高橋末治の日記によると「組内の人六人宮澤賢治先生に行き地人協会を始めたり 我等も会員と相成る」。
3月 8日 松田甚次郎の訪問を受ける。
3月20日 羅須地人協会集会。「エスペラント」か、あるいは「地人芸術概論」か。
4月 9日 冨手一に南斜花壇の設計書等を作製し、送る。
4月30日 藤原嘉藤治に菊池清松を紹介。

          <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)より>
となっている。
 というわけで『校本 年譜』においては3月4日に〝春ノ集リ〟が開かれたとは書かれていていないし、遡って2月27日に〝集会案内〟が花巻農学校卒業生宛に発送されたとも記載されていない。するとこの資料〝集会案内〟はまゆつば物?なのだろうか。
 一方、高橋末治の日記の内容も以前から気になっていた。その中の〝地人協会〟とは羅須地人協会のことだと思うから、昭和2年2月1日を境にして賢治は羅須地人協会の活動を停止したと聞いているので、そこから下って同年3月4日に〝地人協会〟に高橋を含めた6人が会員となるというのも不自然だと不思議に思っていた。ところがこの〝地人協会〟が〝地人会〟ではなくて、集会案内の葉書にあるような〝地人会〟であれば話はまた別である。

5.『新校本 年譜』より
 いや待てよ、この資料は『校本 年譜』が出来した頃は見つかっていなかったがその後発見されたものだということもあり得る。ならば、ここは『新校本 年譜』によって確認してみる必要がありそうだ。
 ということで、実際調べて同様に抜き出してみると以下のようになっていた。
21131日 本日付「岩手日報」夕刊三面に『農村文化の創造に努む』という記事が出る。
2月10日 羅須地人協会講義 「植物生理学要綱」下。午前一〇時より午後三時まで。
2月1817日 岩手日報夕刊に2/1付けの記事を受けて「農村文化について」という投書あり。
2月20日 羅須地人協会講義 「肥料学要綱」上。午前一〇時より午後三時まで。
2月27日 この日付で「規約ニヨル春ノ集リ」の案内葉書(謄写版刷り)を作成し、発送する。
2月28日 羅須地人協会講義 「肥料学要綱」下。午前一〇時より午後三時まで。
3月 4日 <一〇〇四 〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕>
  二月二七日付案内による「春ノ集リ」が開かれたと見られる。
  湯口村の高橋末治の日記によると「組内の人六人宮澤賢治先生に行き地人協会を始めたり 我等も会員と相成る」。
3月 8日 松田甚次郎の訪問を受ける。
3月20日 羅須地人協会集会。「エスペラント」か、あるいは「地人芸術概論」か。
4月 9日 冨手一に南斜花壇の設計書等を作製し、送る。
4月10日 「羅須地人協会農芸化学協習」として「昭和二年度第一小集」を開催。午前九時から午後二時まで「農業に必須ナ化学ノ基礎部分」を学習したと見られる。
4月30日 藤原嘉藤治に菊池清松を紹介。

     <『新校本 宮澤賢治全集第十六巻下』(筑摩書房)より>
ただし赤い文字の部分が『校本 年譜』にはなくて『新校本 年譜』で新たに付け加えられた部分であり、新たに見つかった資料『2月27日付集会案内の葉書』などに基づいて後者は書き加えられたということなのであろう。つまり筑摩の『新校本 年譜』の場合には3月4日に〝春ノ集リ〟が開かれたと見られ、遡って2月27日に〝集会案内〟の葉書が花巻農学校卒業生宛に発送されたと追加記載されているのである。
 したがって、この〝集会案内の葉書〟はやはり本物であるということであり、当然この〝集会案内の葉書〟に書かれていることはほぼその通りに実施されたと見られるということにもなろう。もしそうだとすれば、前節でリストアップした気になることがら(1)~(9)はどう考えればいいのだろうか。
 なお、『新校本 年譜』においても高橋末治の日記の中の〝地人協会〟はそのままであり、〝地人學会〟と変更されてはいない。しかし賢治の出した〝集会案内の葉書〟ではあくまでも〝地人學会〟であるから
  「組内の人六人宮澤賢治先生に行き地人会を始めたり 我等も会員と相成る」
と変更されるべきものと私は考る。はたして高橋末治の日記にはどう書かれているのだろうか。

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