宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

§20 .『松田甚次郎日記』より

2011年10月09日 | 賢治と一緒に暮らした男
 さて幸いにも見ることが出来た松田甚次郎の日誌。それはいままで私が抱えていた2つの懸案事項を一気に解決させてくれた。
(1) 大正25年12月25日の日記
 その一つは、松田甚次郎の大正25年12月25日の日記には次のようなことなどが書かれていたからである。
    …
  9.50 for 日詰 下車 役場行
  赤石村長ト面会訪問 被害状況
  及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
  国道ヲ沿ヒテ南日詰行 小供ニ煎餅ノ
  分配、二戸訪問慰聞 12.17
  for moriork ? ヒテ宿ヘ
  後中央入浴 図書館行 施肥 no?t
  at room play 7.5 sleep
  赤石村行ノ訪問ニ戸?戸のソノ実談の
  聞キ難キ想惨メナルモノデアリマシタ.
  人情トシテ又一農民トシテ吾々ノ進ミ
  タルモノナリ決シテ?ノタメナラザル?
  明ナルベシ 12.17 の二乗ラントテ
  余リニ走リタルノ結果足ノ環節がイタクテ
  困ツタモノデシタ

  快晴  赤石村行 大行天皇崩御

          <『大正15年 松田甚次郎日記』より>
 したがってこの日記に従うならば、松田甚次郎はこの日は花巻にではなくて日詰に行き、大旱魃によって飢饉一歩手前のような惨状にあった赤石村を慰問していたことになる。南部せんべいを一杯買ひ込んで国道を南下しながらそれを子供等に配って歩いたのだろう。そして、盛岡に帰る際に12:17分の汽車に間に合うようにと走りに走ったので足が痛いというようなことも記している。したがって慰問後は直接盛岡に帰ったことになり、赤石村慰問後の午後に花巻へ足を延ばしているわけではない。因みにこの日に購入した切符は日詰までのものであって、花巻までのものではなかったことも確認できた。その日記帳には金銭出納も事細かに書かれていたからである。
 というわけで、一般には他人の著書よりは本人がしたためた日記の中味の方が遥かに信憑性が高いだろうから、松田甚次郎本人のこの日の日記から
 松田甚次郎の赤石村慰問は一般に3月8日の午前と思われているようだが慰問したのは大正15年12月25日であるし、この12月25日に甚次郎は下根子桜に賢治を訪ねてはいない。
と結論していいであろう。
 つまり
ア. 松田甚次郎は大正15年12月25日に下根子桜を訪れていない。佐藤隆房著『宮澤賢治』には同日そこを訪れたと書いてあるが、それはフィクションである。
イ. 松田甚次郎は大正15年12月25日に赤石村を訪れて慰問しているが、自身の著書『土に叫ぶ』では昭和2年3月8日に赤石村を訪れたかのように受け止められるような書き方をしている。しかしそれはこの日のことの記憶違いであろう。
ということではなかろうか。

 やった!これで今までのもやもやの一つが霽れた、と私は心のうちで抃舞していた。新庄は遠かったけれど真実には近づけた。心から『新庄ふるさと歴史センター』とセンター長さんに感謝した。
 それにしても佐藤隆房は大正15年12月25日に松田甚次郎は下根子を訪れたと、それも恰も見ているかの如くその様を生き生きと「書いた」のはなぜなのだろうか。明らかな虚偽がそこにはある。さりとて全く無関係な日かというとそうでもなくて、大正15年12月25日は松田甚次郎が旱魃で困窮しているであろうことに心を痛めて赤石村を慰問した日ではある。『土に叫ぶ』など一連の松田甚次郎の著書を読んでもそれらから慰問した日が「大正15年12月25日」であるということは知ることが出来ないはずである。なのに、わざわざこの日「大正15年12月25日」を松田甚次郎が初めて下根子桜に賢治を訪問した日として「特定」してでっち上げたのか、その偶然性が気になる。
 また、松田甚次郎自身も『土に叫ぶ』で
 或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に与へていつた。その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
と、自身の日記とは矛盾するような書き方をなぜしたのであろうか。
 いずれこれらのことに鑑みて言えることは、佐藤隆房の『宮澤賢治』にしても松田甚次郎の『土に叫ぶ』にしてもそこに記されていることをそのまま事実であると鵜呑みにしてはいけない、検証せねばならぬということなのだろう。
 とはいえ、やっとこれで一つの懸案事項は解決できた。ただし松田甚次郎のこれらの日誌を元にして確認しなければならないことがもう一つある。それが新庄を訪ねた最大の目的であったゆえ。

(2) 二つ目の懸案事項
 さてこのときの新庄行の最大の目的は次のようなもう一つの懸案事項を解決することであった。それはいままでずっと解明できずにいた、松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数と日にちを解明することであった。もっと正確にいうと松田甚次郎が盛岡高等農林入学後、甚次郎が下根子桜に初めて賢治を訪ねたのはいつで、その後いつ何回ほどそこを訪ねていたのかを知ることが最大の目的であった。
). 日記に書かれていた賢治を訪ねた日にち
 そこで、『新庄ふるさと歴史センター』で見せてもらった大正15年及び昭和2年の「松田甚次郎の日誌」を、前者については3月末から、後者については8月末までしらみつぶしに調べてみた。それも単に日記だけでなくてその日誌に付いていた現金出納帳も目を皿にして付き合わせてみた上で分かったことは
 松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたと記してあった日にちは昭和2年3月8日と同年8月8日の両日だけであった。
ということであった。これで二つ目の懸案事項が、長年の懸案事項があっけなく解決できつつあった。
). 昭和2年3月8日の日記
 昭和2年3月8日、つまり初めて賢治の許を訪れた日の日記には
 忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ
 reading
 9.for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮沢賢治氏面会
 1.戯、其他農村芸術ニツキ、
 2.生活 其他 処世上
  unpple
 2.30.for morioka 運送店
 stobu 定盛先生行
 nignt 斎藤君

 今日の喜ビヲ吾の幸福トスル 宮沢君の
 誠心ヲ吾人ハ心カラ取入ルノヲ得タ.
 実ニカクアルベキ然ルベキナルカ
 吾ハ従ツテ与スベキニ血ヲ以ツテ盡力スル
 実現ニ致ルベキハ然ルベキナリ
 おヽお郷里の方々!地学会、農藝会
 此の中心ニ吾々のなすヲ見よ.
 現代の農村生活ヲ活カスノダ

 晴 関西大地震 花巻行

と記されていた。
). 昭和2年8月8日の日記
 2度目で、それが最後の訪問になった昭和2年8月8日の日記は
  …
 農村青年ノ今後 彼モ力ナル
 ベキヲ与フレバマタ現在モ?大シ
 メルノミナレバトテカヤ
 花巻 宮沢先生行.
 AM レコード
 PM 水涸ノ組立
 4.45 花巻 for
 先生ハ快クお会シテ呉レル
 与ヘラレタ 実ニ、我師・我友人
 知己之ハ余リニ馬鹿者ヨ
 横黒線ノ夕ノ山川ノ夏ハ清シ!

 花巻宮沢先生へ  歸宅

というものであった。
). 甚次郎が賢治を訪ねた日の確定
 いよいよ結論へと進もう。『松田甚次郎日記』に書かれている訪問日とは、まさしくそのように行動したという日のことであろうから、次のように言える。
 松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたのは昭和2年3月8日と同年8月8日の2回だけであり、その2回しかない。
 また、
 松田甚次郎が盛岡高等農林の学生時代に下根子桜に賢治を訪ねたのはたった1回だけであった。
と結論して間違いなかろう。なんとこれで二つ目の懸案事項が解決できてしまった。
 なお、松田甚次郎自身は『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版)の「宮澤先生と私」の中で
 初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。それから度々お訪ねする機を得たのである。
とか、『土に叫ぶ』ので出しで
 その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
とか、かなりの回数そこを訪問しているような書き方をいるが、それはおそらく彼の思い違いか、あるいは思わず筆が滑ったかのどちらかであろう。
). 〝1回だけ〟の持つ意味
 松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数と日にちが確定した。それも望ましい形での確定だったから私はその幸運に感謝し安堵した。それはこの事実そのものが分かったこともあるが、それ以上にこの回数が〝1回だけ〟であったことにであった。そして、この〝1回だけ〟であったことは二つの意味で私を驚かせる。
 その一つの意味はもちろん、この〝1回だけ〟が松田甚次郎のその後の人生を決めたからである。初めて会った賢治に如何に松田甚次郎は信服し、魅惑され、一方賢治は松田甚次郎を心酔させたかということであろう。そういえばこの時期賢治は頗る精神が高揚していた時期であったはず<*1>だから、おそらく松田甚次郎は賢治に圧倒され、カリスマ性を感じたに違いない。ただしこちらの意味の方は今回の新庄行においては私にとってそれほど重要なことではなく、もう一つの〝1回だけ〟の持つ意味の方が重要な意味を持っていたのだが、そのことについては後ほど述べたい。
<註:*1> この直前次のようなことがあった、あるいはあったと思われることから推測する。
・昭和2年3月4日に下根子桜で集まりを開き交換会や競売等も行っていた。
・昭和2年3月4日〝地人學会〟創立の協議がなされて発足、少なくとも当日6名の加入があった。
・一〇〇四 〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕一九二七、三、四、を詠む。
).エピローグ
 とまれこの2度目の新庄行の最大の目的、〝いつ何回ほど松田甚次郎は下根子桜に賢治を訪ねていたかということを探る〟という目的は達成できた。また、そのことにより千葉恭の下根子桜寄寓期間に関しても大きな情報を得ることができた。再び新庄まで来た甲斐があったし、それも『新庄ふるさと歴史センター』及びセンター長さんのお蔭であると感謝しながら新幹線にとび乗った。

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