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宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

賢治の甥の嘆き

2016年01月10日 | 『地上の賢治』
《賢治研究のさらなる発展のために》
 さて先に私は、
 賢治伝記の通説などを今まで少しく検証して来たが、風聞や伝聞などのあやふやな情報を、あるいは著名な人や大手の出版社が活字にしたことを裏付けもとらず検証もせぬままに真実であるかの如くに断定調で活字にして世間に流布させ、それが通説となっている場合が少なからずある。
というようなことを述べた。それはもちろん真実を知りたいという一心からでもあったのだが、もう一つ訳があった。
 実は、私は宮澤賢治の妹シゲの長男岩田純蔵教授の教え子である。その岩田先生が今から約50年ほど前、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋られなくなってしまった。
というような意味のことを私達の前で嘆いたことがあったのだが、当時私の尊敬する人物は他ならぬ賢治であり、甥にあたる岩田先生のその話がずっと気になっていたからだ。
 そこで、九年程前に定年となってやっと時間的余裕が生じた私は、恩師岩田先生のためにも、そしてただただ真実を知りたいということから、「学問のスタートは疑うことから始まる」と教わってきた理系の端くれとしては、まずは疑うことから始めようと意を決して、賢治のことを今まで少しく調べてきた。そう、石井氏がまさに「あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」と鳴らす警鐘に従うようにして。

 すると、賢治の「通説」や「賢治年譜」等において、常識的に考えればこれはおかしいという点がいくつか見つる。例えば次のようなものがである。
(1) 大正15年7月25日の『新校本年譜』には、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
とあるからだ。もしこれが記述どおり事実であったとするならば、「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」とは言い切れないから「通説」とは違うことになる。
(2) 大正15年12月2日の『新校本年譜』には、
 セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた。
とあり、その典拠は澤里武治のある証言だと『新校本年譜』は述べている。ところが、その証言に正しく従えば同年譜には致命的な欠陥が存在することになる。
(3) かつての「賢治年譜」の昭和3年8月の記述、
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
についても、当時の花巻の天気などを知ることができた私は、やはりこれもおかしいと感じた。

 そしてこれらのみならずその他にも似たようなことがどんどん見つかってくる。そこで私は、ああ、これらが恩師の嘆いていたことの具体事例なのだと覚った。そしてこのことを通じて、賢治に関する論考等に於いてはどういうわけか裏付けもとらず、検証もせず、しかも典拠も明らかにせぬままに断定的な論調が少なくないということも知った(私が理系だから特にそう思ったのかもしれないが)。実際、賢治のことをよく知っているある方にこのようなことをお話ししたならば、その方は『賢治の場合には、言った者勝ちの傾向があるからな』と嘆いてた。

 そこで私は、賢治研究の真の発展はこのままでは望めないのではなかろうか、という危惧と不安を抱いたのだった。このままではいけない…。

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(Ⅱ)『羅須地人協会の終焉-その真実-』

(Ⅲ)『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京』

(Ⅳ)『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて』

 近々出来予告
(Ⅴ)『「羅須地人協会時代」の真実 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』




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