宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

51 (25) 南昌山(その2)

2008年11月06日 | Weblog
 ”(25) 南昌山(その1)”の続きである。

《1 頂上の青竜権現?など》(平成20年6月27日撮影)

できる。
 南昌山の頂上にはこの様にいくつかの石塔、同じく石の獅子頭、注連縄等があって、如何にも賢治の「経埋ムベキ山」に相応しいと思ってしまう。
 『山日和』(諏訪 弘著、自湧社)によれば、
 盛岡市周辺には、昔からこんな俗言がある。
「南昌山に雲がかかると雨が降る」
盛岡市名須川町、三ツ石神社境内の巨岩に残る鬼の手形は、岩手の地名伝説愉快のものであることは有名だが、この伝説の最後に、詫び手形を残し、悪鬼が退散した地こそが、一説には南昌山ともされていることを知る人は少ない。 
 また、南昌山の古地名を毒ヶ森(ぶすがもり)といった。現在、南昌山塊にも同名の山があるから単独で呼ばれたというよりは、南昌山塊の総称としてそう呼んでいたのかもしれない。
 麓に言い伝えによると、峰の洞窟には水神・白竜(雨竜)が住んでおり、時折、毒気を出して雲を起こし、峰を覆ったという。この毒気に苦しめられる登山者も出たり、雨竜による長雨災害を祓う意味で、峰に青竜権現の祠を建てて祀ったともいわれている。果たしてこの山の毒気とは何なのか、知る由もないが・・・(以下略)

 現在の頂上には
《2 石造りの獅子頭(権現様)》(平成20年6月27日撮影)

がある。写真から分かるようにここに祠はないが、これらの獅子頭が青龍権現なのだろう。
 なお、
《3 一年前の獅子頭》(平成19年8月1日撮影)

と較べると分かるように、今年は右手前に陶器製の獅子頭が一個増えている。
《4 石塔群》(平成20年6月27日撮影)

もあるが、いずれも風化していて字が読みにくい。
《5 立派な注連縄》(平成19年8月1日撮影)

も張られている。
 また、上の《3》の写真でもある程度判ると思うが、
《6 ”水”と書いてある石》(平成19年8月1日撮影)

がある。さて、この正体は?
 ここには、
《7 頂上展望台》(平成20年6月27日撮影)

がある。展望台に上がってみると、山毛欅の幹に懸かっているここにもあった
《8 ”盛岡トライアングル”のプレート》(平成20年7月19日撮影)

 展望はよいとは言えないが
《9 木々の間からの矢巾方面》(平成20年7月19日撮影)

が垣間見られる。
 この展望台の前には
《10 ”宮沢賢治が愛した南昌山 「南昌山の頂上」”の説明板》(平成19年8月1日撮影)

が立ててある。
 宮沢賢治が愛した南昌山 その6
 「南昌山の頂上」
 賢治は、盛岡中学一年の時に、親友 藤原健次郎と二人で初めて南昌山に登ったときのこなどを綴ったノートの中に「藤原健次郎 南昌山 頂上」と記録している。頂上に立ったときの感動が如何に大きかったかが伺われる。
 以来、賢治は「雨乞いの山」など幾多の伝説に包まれた神秘な山「南昌山」に魅せられ、何度も訪れ数々の作品を遺している。
 そして賢治は、南昌山を「経埋(う)ムベキ山」に指定している。
 また、延歴年代の政夷大将軍 坂上田村麻呂は、霊験あらたかなこの山を「徳ヶ森(とくがもり)」と称し、頂上に宮柱を建てて手厚く奉ったと云われている。
 元禄十六年には、南部藩主 信恩公が、儒学者 根市恭斉に命じ、南部繁盛を祈願し「南昌山」と命名した。また江戸時代の絵師、谷文晁が「日本名山図會」の中に南昌山を描いており、昔から有名であった。

と説明してある。

《11 海抜848.0m頂上三角点》(平成20年6月27日撮影)

を確認、ただし頂上からの展望は殆ど出来ない。
 頂上には、
《12 ニガナの花が咲いているがオカトラノオはまだ蕾以前》(平成20年7月19日撮影)

である。
《13 オカトラノオ》(平成19年8月1日撮影)

《14 〃 》(平成19年8月1日撮影)

《15 トリアシショウマ》(平成19年8月1日撮影)

 では、下山開始。ただし道は毒ヶ森側を下りる。
《16 奥の標識は”毒ヶ森2.7㎞”》(平成20年7月19日撮影)

とある。国土地理院の二万五千分の一の地図には登山路はないが、この標識があれば大丈夫だろう、右の赤矢印の着いた標識には”毒ヶ森 2.7㎞”と書いてもあると、気楽に毒ヶ森に向かう。

 下りはじめると道はかなりの急坂だ。さすがに南昌山は岩頸だということを思い知らされる。そんなところでも咲いている
《17 マルバキンレイカ》(平成20年7月19日撮影)

《18 〃の花》(平成20年7月19日撮影)

《19 アオキの実》(平成20年7月19日撮影)

《20 ヒメウスノキの実》(平成20年7月19日撮影)

 ここまで道はず~っと林の中だったが、突然展望が開けて
《21 赤林山》(平成20年7月19日撮影)

が見える。
《22 木々の間からかろうじて毒ヶ森》(平成20年7月19日撮影)

が見えるので、まあ何とかなるだろうとつい確信したのだが・・・。
 急な斜面にもかかわらず相変わらずあちこちに咲く
《23 マルバキンレイカ》(平成20年7月19日撮影)

《24 道の両脇に、おっ!あったぞ》(平成20年7月19日撮影)

《25 イチヤクソウ》(平成20年7月19日撮影)

《26 〃 》(平成20年7月19日撮影)

 急な下り坂が一端終わり
《27 鞍部》(平成20年7月19日撮影)

に到着、ほっとする。
《28 道を振り返る》(平成20年7月19日撮影)

《29 鞍部の東側斜面》(平成20年7月19日撮影)

にはヤマアジサイやヒヨドリバナなどが群生していた。
 しかし、直ぐに急な上り坂となる。
《30 ミヤマヤブタバコ》(平成20年7月19日撮影)

《31 ハエドクソウ》(平成20年7月19日撮影)

が咲いている。
 ほどなく到着した
《32 薬師岳》(平成20年7月19日撮影)

国土地理院の地図では771mの無名峰のことである。
《33 木々の間からの毒ヶ森》(平成20年7月19日撮影)

なかなか、毒ヶ森の全貌をすっきり見ることは出来ない。
 この辺り、道には白っぽい大きな花弁が散らばっている。
《34 ヤマボウシの大木があちこちにある》(平成20年7月19日撮影)

せいだ。
 その道は比較的しっかりしているのだが
《35 所々に赤布》(平成20年7月19日撮影)

もあり、心強い。
《36 ヤブレガサ》(平成20年7月19日撮影)

《37 ヨブスマソウ》(平成20年7月19日撮影)

《38 ヤマブキショウマ》(平成20年7月19日撮影)

《39 〃の花》(平成20年7月19日撮影)

《40 〃 》(平成20年7月19日撮影)

雌株の方だろうか。
 下り坂が終わり
《41 林道との出会い》(平成20年7月19日撮影)

に到着した。

 ところで、『平成15年度矢巾観光まつり 宮沢賢治が愛した南昌山麓探求フェスタ』によれば
 宮沢賢治は、健次郎より1年遅れて明治42年4月盛岡中学に入学、偶然寄宿舎の12号室で同室となり、これが二人の出会いとなった。当時の寄宿舎はランプ生活であり、1年生の賢治は部屋のランプ掃除が担当であった。2年生の健次郎は賢治にランプ掃除のコツを教えたことから兄弟のように親しくなった。休みになると、賢治は健次郎の家に泊ま
りに来るようになり、二人で南昌山に登ったり、周辺で「水晶」や「のろぎ石」を拾って遊んだ。このことを賢治は後のノートに、次の様に記録している。
「寄宿舎の夕 藤原 ランプ 塩」
(「塩」とは、ランプのホヤに塩をつけて磨いたことを意味している)
「藤原健次郎 南昌山 家・藤原健次郎 南昌山 水晶・藤原健次郎 南昌山 頂上」
(二人で南昌山に登ったり、周辺で「水晶」や「のろぎ石」を拾っては健次郎の家に泊まった) また、次の様な短歌を遺している。
 のろぎ山 のろぎをとりに行かずやとまたもその子にさそわれにけり
(「その子に」とは健次郎である)
 のろぎ山 のろぎをとればいただきに黒雲を追うその風ぬるし
(賢治は、「南昌山が曇れば雨が降る」と言う伝説を知っていた)
健次郎は、盛岡中学の野球部の正選手で、しかも四番バッターとして大活躍をした選手である。明治43年8月の夏休みに(健次郎が3年生の時)、野球部は練習試合のために秋田県大館中学校に遠征した。(明治43年10月12日付けの盛岡中学校校友会誌第16号に詳しく掲載)
この遠征から帰って間もなく、健次郎は腸チフスに罹り、入院治療の甲斐もなく、9月29日若干(?)16才で亡くなった。賢治は、健次郎の死に大きなショックをうけ、後に記録したノートに、次のようにメモ記録している。
「藤原健次郎死ス 野球 大館 チフス 藤原健次郎死ス」
(賢治は健次郎の死が如何に悔しかったことか)
賢治は、健次郎の死後も健次郎を偲び何度も南昌山を訪れ、沢山の短歌や詩、童話を遺しており、二人が遊んだと思われる「水辺の里」の一角には賢治の歌碑が建立されている。また、賢治は健次郎を回想し次のような童話三部作を遺している。
「鳥をとるやなぎ」 「谷」 「二人の役人」
健次郎の生家には、賢治が健次郎の家に泊まった時に書かれた図画やノート、教科書などが遺されており、また、昭和52年には賢治から健次郎に宛てた手紙が発見され、更に昨年の7月には、賢治の中学1年生の時の自筆ノートが発見されマスコミに大きく報道された。>

とある。

 というわけで、南昌山(848.0m)は花巻から望める、古くから信仰の山であった、三角点もあることなどから典型的な「経埋ムベキ山」であるし、なおさら「経埋ムベキ山」には入れざるを得なかったのだと思える。

 なお、南昌山については賢治の作品『〔々としてひかれるは〕(先駆形)』
   かうかうとしてかゞやくは
   硫黄ヶ岳の尾根の雪
   灰白の雲かぶれるは
   鳥ヶ森また八方山
   また駒頭五間森
   
   焼き枕木をぬすみ来て
   水路に橋をかけしものあり
   袴腰南晶山の一列は
   みな灰雲にあとをくらます

    <『新修 宮沢賢治全集 第六巻』(筑摩書房)より>
にも詠まれている。

 では、ここからは林道を辿って毒ヶ森に行くので、これで南昌山についての報告は終わる。

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3 コメント

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早速のご回答ありがとうございます。 (石川 哲郎)
2016-12-15 09:33:46
おはようございます。
賢治の「岩頸列」という詩の中で、「ドク」か「ドグ」というルビがあったように思いましたので、質問した次第です。
ありがとうございました。
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残念ながらわかりません ( 石川様(鈴木))
2016-12-15 07:17:31
石川 哲朗 様
 お早うございます。
 すみません、残念ながら『山日和』以外には分かりません。
 また、同書の〝南昌山の古地名を毒ヶ森(ぶすがもり)といった。〟という記述については、その出典も明示されておりません。
                         鈴木 守
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毒ケ森の読み方について (石川 哲郎)
2016-12-14 11:03:04
「南昌山の古地名を毒ヶ森(ぶすがもり)といった。」とありますが、「ぶすがもり」と読む文献等がございましたら、ご教示いただけないでしょうか?
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