宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

奇矯な賢治の言動(前編)

2014年03月05日 | 『賢治と高瀬露』
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
賢治のあの行為は皆あった
鈴木 さて、私たちは高瀬露に関する賢治伝記研究の文献資料としてはMの「昭和六年七月七日の日記」は基本的には使えないものであると判断したので、この中に記述されていた高瀬露絡みのいくつかの賢治の奇矯な行為
   ・「本日不在」の札を門口に貼った。
   ・顔に墨を塗って露と会った。
   ・座敷の奥の押入の中に隠れていた。
   ・私はレプラですと露に言った。

がはたしてどうだったのかを別の資料で確認せねばならない。
荒木 俺も少しずつわかってきたぞ。そのための資料はだな、その一つは
  (1) 関登久也著『宮澤賢治素描』所収の座談会「宮澤賢治先生を語る會」
であり、もう一つが
  (2) 『イーハトーヴォ』創刊号所収されているKの「賢治先生」
かな。あとは、しいていえば同じく関登久也の
  (3) 『宮澤賢治素描』中の「女人」
というところ、かな。
鈴木 おお、そんなところでいいと思う。それでは、それぞれについての当該部分を見てみようじゃないか。
(1) 座談会「宮澤賢治先生を語る會」
K この次の集まりには、先生の生活上のことなどに就いて話し合ひたい。それから前にも言つたがあの女のことで騒いだことがある。私の記憶だと、先生が寝ておられるうちに女が來る、何でも借りた本を朝早く返しに來るんだ。先生はあの人を來ないやうにするために随分苦勞された。門口に不在と書いた札をたてたり、顔に灰を塗つて出た事もある。そして御自分を癩病だと云つゐた。然しあの女の人はどうしても先生と一緒になりたいと云つてゐた。
      …(略)…
C 何時だつたか先生のところへ行つた時、女の人が一人ゐたので、「先生がをられるか、」と聞いたら、「ゐない」と云つたので歸らうかと思つて出て來たら、襖をあけて先生がでて來られた時は驚いた。女が來たのでかくれたゐたのだらう。
             <『宮澤賢治素描』(関登久也著、協榮出版)255p~より>
(2) Kの「賢治先生」
 先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顔に灰を塗つて面會した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。
             <『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會)4pより>
(3) 「女人」
 或る女の人が賢治を非常に慕ひ、しばしば協會を訪れました。最初のうちは賢治も仲々しつかりした人だ、といつて居りましたが、段々女の人が大變な熱をかけてくるので随分困つてしまつたやうです。「本日不在」といふ貼紙を貼つて置いたり、或ひは別な部屋にかくれて、なるべく逢はないやうにしていたりしてゐたのですが…
             <『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版社)190p~より>
というあたりか。

はたして奇矯な行為をしたのか
荒木 となれば、(1)はK、C(伊藤忠一)、伊藤克己の鼎談であり、そこでの発言は複数の人間の中での発言だからより信憑性が高いだろうし、なおかつ(1)と(2)におけるKの証言は矛盾していないから、証言している次の
 門口に不在と書いた札をたてたり、顔に灰を塗つて出た事もある。そして御自分を癩病だと云つゐた。
は、賢治を尊敬している俺としてはちょっと信じがたいが、ほぼ事実であったと受け止めざるをない。
 ただし、こちらでは「墨」ではなくて「灰」だから訂正を加えて、前掲の4つの行為のうちの「座敷の奥の押入の中に隠れていた」以外の行為については実際にあったとまず言えるだろう。
吉田 また、以前僕が『Cという人は僕が調べてきた限りにおいては信頼に足る人だ』と主張したそのCが、『女が來たのでかくれたゐたのだらう』と発言しているし、さらに同様な内容の(3)の関登久也の『別な部屋にかくれて、なるべく逢はないやうにしていたりしてゐたのです』という記述もあるのだから、はたして「押入の中に」だったかどうかはわからんが、少なくとも「別な部屋に隠れていた」はほぼ事実であっただろう。
鈴木 一方、関登久也という人は単なる伝聞と断定できることとは区別して記述する人だから、その記述内容は信頼度が高いと私は思っていて、ここでは『…してゐたのです』と断定調の表現をしているので信頼ができそうだから、「()書き部分」を補足したりして、
   結局次のような
   ・(十日位も)「本日不在」の札を門口に貼った。
   ・顔に灰を塗って露と会った。
   ・別な部屋に隠れていた。
   ・私はレプラ(癩病)ですと露に言った。

  というこれらの賢治の行為は実際皆あった。
と判断せざるを得ない……かな。
吉田 僕もその判断に異論はない。
荒木 そうだよな、いくら何でも三〇を過ぎた賢治が「押入の中に隠れていた」は流石にないべ、ど俺も思ってだった。そんなのは幼稚園児のするごどだべ。
吉田 とはいえ、これらの4つの行為だって普通大人だったらしないと思うし、はたして露はこれ等の賢治の行為に対してどう感じたのだろうか。
荒木 賢治を尊敬してきた俺とすれば、なんかいたたまらない気持に なって来た…。

『新校本年譜』によれば
鈴木 それにしても、ある時期までは、それもおそらく少なくとも昭和2年の6月頃までは露と親しく交際していたと思われる賢治が、ある時期から突如露を拒絶するようになり、あまつさえ、「レプラ」であるなとという詐病をなぜ賢治はしてしまったのだろうか。
吉田 はっきり言って、よりによってそのような病名で「詐病」することはいくら賢治といえども許されないことだし、僕らだってその病名の言葉を安易に使うことももちろん許されることではないが、今回は宮澤賢治に関する研究ということで特別に許して貰うのだということをまず認識した上で話しを続けようじゃないか。
荒木 あっ、そういうことなんだ。俺無知だったな、これからは気を付けよう。
鈴木 ではそのようなことも注意せなばならないから、その辺のことをどう扱えばいいのかということを知るためにも、いわゆる『新校本年譜』がどう書いているかを見てみよう。
荒木 おぉ、それはいいな。
ということで、当該の個所を見てみるとそこには次のようなことが記載されていた。
 高瀬は関徳弥夫人ナヲと同級生だったので賢治が言ったという「癩病」云々を告げ、これが一部のうわさとなった。賢治は関家を訪い、ことの真実を語って誤解をといた。うわさは父の耳にも入り、「おまえの苦しみは自分で作ったことだ。はじめて女の人とあったとき、おまえは甘いことばをかけ、白い歯を出したろう。女の人とあうときは、歯を見せたり、胸をひろげたりしてはいけない。」と法華経安楽行第一四のことばで戒めた。
               <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)360p~より>
するとそれを見ていた吉田が言った。
吉田 そうかうっかりしていた。僕はついつい「旧校本年譜」の記載内容の方を覚えていたので他の記載事項もあるのかと思っていた。ところが今は、『新校本年譜』の上段にはこれしか書かれていないのか。
 鈴木済まんが「旧校本年譜」を見せてくれ。
と言うので、私は『校本宮澤賢治全集第十四巻』を手渡すと、吉田は次のようなことが記載されている当該の頁を開いて荒木に見せてやった。
 高瀬露(一九〇一<明治三十四>一二月二九日生、一九七〇<昭和四五>二月二三日没)は当時湯口村鍋倉の宝閑小学校教訓導。妹タキも同じ学校に勤めたことがある。一九二四、五(大正一三、四)年ころ、農会主催の講習会がたびたびあり、農学職員が同小学校で農民を指導したので、賢治と顔見知りであった上、花巻高女音楽室で土曜午後にしばしば行われていた音楽愛好者の集いに出席していた。この集まりは藤原嘉藤治(独身で若い女性のあこがれだった)を中心に演奏をし、レコードを鑑賞し、音楽論をたたかわす楽しい会で、賢治は授業がすむと必ず現われ、藤原とのやりとりで女性たちを興がらせた。賢治が独居自炊をはじめた下根子桜の近く、向小路に住んでいた関係もあり、洗濯物や買物の世話を申し出たという。クリスチャンで教育者であり、明るく率直な人柄だったので、羅須地人協会に女性のいないこともあり、劇のけいこなどには欠かせない人であった。…(投稿者略)…しかし彼女の情熱が高まると共に賢治の拒否するところとなった。顔に墨を塗って「私はライ病ですから」といい、高瀬はあまりの仕打ちに同級生であった関徳弥夫人に訴え、それを知って関家に釈明にいき、父から説教を喰う結果となった。彼女との関係、立場などは書簡下書(書簡252a~c、本巻二八頁~三五頁)で察することができる。高瀬は後幸福な結婚をした。
              <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)624p~より>
荒木 そうか、ここにはあった「顔に墨を塗って」などは、『新校本年譜』の上段にはないのか。
鈴木 そうなんだ。『新校本年譜』の上段にはこれしか書いていない。かつて「旧校本年譜」にあったその他の関連事項についてのいくつかは、もはや下段に移されてしまったから、それらについては筑摩も確証がないのでそうしたと思われる。
吉田 それにしても、『新校本年譜』は
 高瀬は…賢治が言ったという「癩病」云々を告げ、これが一部のうわさとなった。賢治は関家を訪い、ことの真実を語って誤解をといた。
と断定しているが、この典拠は何なのだろうか? 荒木は知らないか。
荒木 よせやい、吉田が知らないのに俺が知っているわけねぇだろう。鈴木はどうなんだよ。
鈴木 私もそのようなことを断定できるほどの証言も資料も全く持ち合わせがないが、おそらく、『校本宮澤賢治全集』の年譜担当者である堀尾青史が得た何らかの典拠があるのではなかろうか。できれば、それらは私たちにも公にして欲しいけどな。
 とまれ、これからは筑摩に見習って例の賢治の行為は
   ①(十日位も)「本日不在」の札を門口に貼った。
   ②顔に灰を塗って露と会った。
   ③別な部屋に隠れていた。
   ④私は「癩病」ですと露に言った。

と訂正して、お詫びします。
荒木 いや待て待て、大きな問題がある。『新校本年譜』は先のような記載の仕方をしているのだから、この4つのうちの最後の行為
   ④私は「癩病」ですと露に言った。
だけをほぼ認め、少なくともその他の3つについては実際にあったとは判断していない。俺たちの判断と筑摩の記述とではあまりにも大きな違いがあるという大問題が。
吉田 そうだよな、この溝は大きいな。大きすぎる。……とすれば、この溝は溝として保留しておき、それぞれの場合について考えてみるということかな。
 いや待て、僕たちの場合には4項目、筑摩の場合には1項目しかないが、この筑摩の判断に基づいて先ずは考えてみよう。もしそれで上手くいかなかったならば、その時はその時だ。そもそも、4項目であろうとそれが1項目であろうと、賢治に対しては厳しい言い方になるが、どちらの場合にしても賢治の行為が奇矯であったことに違いはないのだから。
鈴木 4つの場合でも1つの場合でも、それは量的違いであり質的な違いはないと言えるか…。

なぜ賢治は露に「癩病」ですと言ったのか
荒木 そうか、賢治が露に対して「癩病」だと言ったことを『新校本年譜』は上段に記載しているのだから、太鼓判が押されているということで、この奇矯な賢治の言動があったことは100%確実だとしていいのか。
 しかし一方で、賢治と露の間はある時期まではかなり親密で良好だったのだから、高橋慶吾が「賢治先生」において、
 或る時は顔に灰を塗つて面會した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。
と言い、はたまた関登久也が「女人」で
 「本日不在」といふ貼紙を貼つて置いたり、或ひは別な部屋にかくれて、なるべく逢はないやうにしていたりしてゐたのですが、
と述べているということを知ったところで、状況は判ってもなぜそう言ったのか俺には理由がわからん。どうして賢治は露に対してよりによって「癩病」だと言わねばならなかったのか、それはもちろん論理的には賢治は露を拒絶したかったからだ、ということまでは判っても…。
鈴木 そこなんだよな。賢治も人間だから、まして男女関係については途中で心変わりをすることはよくあることだ…おっとっと、もちろん私にはそんなことはないよ。
荒木 ありゃ、そうだったべが?
吉田 ふっふ。もし仮に賢治がそうだったとすれば、誠心誠意それまでのことをひたすら謝れば済むことであり、いや違うか、謝り続けるしかないのであって、何であんな奇矯な行為をしたのかだよな。僕にも全く解らん。ここは女性に持ててフェミニストの荒木、何か可能性はないのか?
荒木 やめてくれよ、よりによって三人の中で一番純情な俺をからかうのは。
 ただ言えることは、昭和2年の6月頃の時点ではそれほどの拒絶を賢治はまだしていなかったことが例の「マツ赤ナリンゴモ」の「端書」から判るし、露も昭和2年の夏までは賢治の許に出入りしていたと言っているわけだから、この頃に賢治の中に何らかの心境の変化が突如起こったということだべ。
吉田 さすが荒木、人の心理を読めるな。たしかにそれが天才のゆえんでもあると思うのだが、賢治は熱しやすく冷めやすいからな…。

「また涙をこぼした賢治」
鈴木 おっと、そう言われて思い付いた。そのような「変化」がないわけではないということを示唆するヒントに。まずその一つ目は次のようなものだ。
 これは今のところあまり公には知られていないと思うのだが、菊池忠二氏が高橋慶吾から直接得たという次のような証言だ。菊池氏はこう記述している。
 私が今から三〇数年前に、高橋慶吾のところに何度かたずねて、いろいろと話を聞いたことがあった。…(投稿者略)…その高橋が「これは今まで誰にも話したことがなかったけれども、ある晩に宮沢先生のところをたずねていったら、眼を赤くして泣きはらしたあとのように見えたので、『どうかしましたか?』と聞いてみたら、先生は『いや、さっき高瀬さんが帰ったばかりのところなんだ。おれはあの人の気持ちが、まったく分からないわけじゃないんだ。むしろ分かりすぎるくらい分かっているんだが、今おれがやらねばならないことを考えると、とても一緒に暮らしていくだけの時間も余裕もないんだ』ということを言って、また涙をこぼしたことがありました」というのである。
               <『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)311p~より>
吉田 そうか、そんなことを高橋慶吾は菊池忠二氏に喋っていたのか。それは僕も知らなかった。そして、一度ならず「また涙をこぼしたことがありました」というのか、余程のことがあったんだろうな。
荒木 ということはさ、賢治が
 今おれがやらねばならないことを考えると、とても一緒に暮らしていくだけの時間も余裕もないんだ。
と言ったのだから、それまでは順調だった二人の仲が、賢治の都合で賢治が心変わりしたともとれなくもないな。
 それにしても、こうしてみると賢治の許に露はかなりの回数来ていたということだよな。それも、この時だって「ある晩」のできごととなるだろう。普通は露の勤務のことを考えれば平日は寶閑小学校のある鍋倉からははるばるやって来られないないはずだから、週末の晩に下根子桜の別宅に二人は居たということだよな…。

伊藤ちゑ花巻訪問は昭和2年秋
吉田 詮索はそれくらいにして、まだあるのだろう、そのヒントが。
鈴木 そうもう一つある。それは、拙書『羅須地人協会の終焉―その真実―』にも書いたことだし、以前二人にも話したような気がするが、伊藤七雄とちゑが花巻の賢治の許を訪れた時期に関することだ。
 かつては、伊藤七雄が妹のちゑえを帯同して花巻の賢治を訪ねて来た時期は確定していなかったはずだが、この頃それは1928年(昭和3)年の春のことであるという断定調の通説が一人歩きし始めてる。しかし私は、その訪問時期は昭和2年の秋ではなかろうかと判断している。
 というのは、この書簡についてもあまり世に知られていないものだと思うが、伊藤ちゑが藤原嘉藤治に宛てた10月29日付書簡の中で、
 私共兄妹が秋花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれどあの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は…
としたためているから、伊藤兄妹が花巻を訪ねたという「秋」は昭和3年6月以前の秋でなければならず、自ずから昭和2年の秋のことであると判断せねばならないからだ。
荒木 そっか、ここでいうところの「御上京」とは例の昭和3年6月の上京のことだからな。
鈴木 うん、そう。それでさっき荒木がほのめかしたように、露が賢治の許を訪ねることを遠慮するようになった理由の一つとして、この伊藤ちゑの花巻訪問が密接に関連していたという可能性がかなりあると思ったんだ。
吉田 確かにな。多分賢治と七雄とは労農党関連の繋がりがあって既に知り合っていたのだろうが、普通だったら何もわざわざ妹を帯同して二人揃って水沢から花巻まで訪ねてくることはなかろうから、賢治はそこに当然「何かある」と敏感に察知したし、その意味も直ぐに覚ったかもしれないな。
荒木 しかも、人間の印象はほぼ第一印象で決まるしな。賢治はちゑと最初に会ったときにぴんと来たのもしれん。
吉田 あの関登久也でさえも、彼の著書『宮沢賢治物語』の「前がき」で、敢えて賢治の欠点を挙げるとすればと断った上で、
 もし無理に言うならば、いろんな計画を立てても、二、三日もするとすつかり忘れてしまつたように、また別の新しい計画をたてたりするので、こちらはポカンとさせられるよなことはあつた。
と述懐している。ということは逆に、このようなことだけは賢治にしばしばあったということを関登久也は正直に喋ったと見ることができる。
 だからちょっと意地悪な見方をすれば、実はこの時に賢治に心変わりが起こった。
荒木 それはあまりにも穿ちすぎだべ。でもな…、露が賢治の許を訪れることを遠慮し出したのが昭和2年の夏頃、一方のちゑが花巻を訪れたのが昭和2年の秋か…タイミング良すぎるな。
鈴木 いずれ、ある時期まで二人は親密だったことも、ところが賢治は自分は「癩病」ですと露に言って露を拒否したということも共に歴史的事実。となれば、二人の関係を拒否し始めたのは賢治だったということもこれまた歴史的事実ということになる。
荒木 つまり、露を拒絶するために賢治は「癩病」と詐病した。それは賢治にやはり心変わりが生じたためだったという図式か。心変わりしてしまったのは賢治の方だった、というわけか。
 そうするとさ、一体露にどれほどの責任があったというのだべ? それまで結構露は賢治のために尽くしてきたと俺からは見えるのに…。

「宮澤賢治先生を語る會」より
吉田 まあ男女関係において心変わりすることは、世の中ではしばしばあることだから仕方のないことだとしても、だからといってその心変わりした方の人が責められることなく、そうされた方だけが<悪女>呼ばわりされたのではたまったものではないな。
荒木 全く理不尽なことだべ…。いやまてまて、俺はいつも感情的になってしまう、ここは少し理性的に考えてみよう。一体、露のどこが論われているのかをちょっとチェックしてみるべ。
鈴木 そのためには、これはこれまで何度か引用した「宮澤賢治先生を語る會」のコピーだが、まずこれに目を通してくれないか。
と言って、私は二人に次のようなコピーを手渡した。
******************************* <以下その内容> *******************************
                   「宮澤賢治先生を語る會」
K 羅須地人協会の始めの頃から話さうか。
C そのころおれは父親からヴァイオリンを買つて貰つた。それは何でも宮澤先生が、父親に話して買つてくれるやうにしたさうだ。盆の十六日の日で、先生が原稿用紙に紹介状のやうなものを書いて呉れたので、俺はそれを持つて岩田(賢治氏の叔母の店、楽器を賣つてゐた)へ行つたら原価の半分位で賣つてくれた。たぶん八、九圓だつたらう。
K フルウトの始まりは……
C それはよくわからないが、當時青年間の思想が亂れてゐたので、先生は藝術方面、特に音樂などで良導しやうと考へたらしい。
K 青年の精力のはけ口を音樂などによって純化しやうとしたのだな。
           …(投稿者略)…
K 先生の御病気は昭和二年の秋ごろから惡くなつたと思うが――。
M よく記憶にないが東京へ行つてからだと思ふ。東京でエス語、セロ、オルガンなど練習されたという話だつた。
K 雪のうんと降つた日、夜遅くまでお話を聞いたことがあるがあの日は愉快だつたな――。それからあの女の問題で騒いだのは何時頃だつたか。
C 性慾に就ての話は随分聞いたが記憶に残つてゐない。たゞ大事だと思つて聞いたことは性慾を、藝術とか勞働方面に使へ、とよく仰言つた。
K 先生は仕事をするのに何時から何時まで働いたのだらう。
C 朝は早かつた。讀書して、ひとまづ畑に出られ午前十時頃歸られる。再び讀書をして晝飯を食ひ、また労働に出かけられ、夕方歸つてから讀書という風で、それが病氣になるまで續けられた。
K この村の人たちはたゞ道楽に仕事をやつてゐたと思つたらうな。
M さうだ、誰一人先生の生活に理解のある人はなかつたと思ふ。
K この次の集まりには、先生の生活上のことなどに就いて話し合ひたい。それから前にも言つたがあの女のことで騒いだことがある。私の記憶だと、先生が寝ておられるうちに女が來る、何でも借りた本を朝早く返しに來るんだ。先生はあの人を來ないやうにするために随分苦労をされた。門口に不在と書いた札をたてたり、顔に灰を塗つて出た事もある。そして御自分を癩病だと云つてゐた。然しあの女の人はどうしても先生と一緒になりたいと云つていた。
 何時だつたか、西の村の人達が二三人來た時、先生は二階にゐたし、女の人は臺所で何かこそこそ働いてゐた。そしたら間もなくライスカレーをこしらえて二階に運んだ。その時先生は村の人たちに具合が惡がつて、この人は某村の小學校の先生ですと、紹介してゐた。餘つぽど困つて了つたのだらう。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかつたな。
K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私はたべる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身はたべないものだから女の人は随分失望した様子だつた。そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこの邊の人はひ晝間は働いてゐるのだからオルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。そんなやうなことがあつて後、先生はあの女を不純な人間だと云つていた。
C 何時だつたか先生のところへ行った時、女が一人ゐたので、「先生はをられるか、」と聞いたら、「ゐない」と云つたので歸らうかと思つて出て來たら、襖をあけて先生は出て來られた時は驚いた。女が來たのでかくれてゐたのでらろう。
K あの女は最初私のところに來て先生を紹介してくれといふので私が先生へ連れて行つたのだ、最初のうちは先生も確固した人だと賞めてゐたが、そのうちに女が私にかくれて一人先生を尋ねたり、しつこく先生にからまつてゆくので先生も弱つて了つたのだらう。然し女も可哀想なところもあるな。
               <『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版、昭和18年9月)所収>
******************************* <終わり> *******************************
Kの言動からみえてくること
鈴木 さて、これは昭和10年頃の座談会だということがそこに書き添えられているから、賢治没2年後に実施されたものとなろうし、下根子桜時代からまだ十年程しか経っていないからそれほどの記憶の違いもなかろう。ましてCは自分の日誌なども見ながらの座談会だからなおさらにだ。ところが、どうもこの座談会においては、Kの意図的な言動、不自然さが感じられてしかたない。
 まず、この座談会は実質Kが取り仕切っているようだが…
荒木 うん、それは通読してすぐ判った。
鈴木 そのKが一度、
  それからあの女の問題で騒いだのは何時頃だつたか。
と話を振ろうとしたが他の二人は乗ってこない。ところがこのK、
  この次の集まりには、先生の生活上のことなどに就いて話し合ひたい。
と座談会を打ち切ろうとしたのかと思いきや、
  それから前にも言つたがあの女のことで騒いだことがある
とまたぞろその話を持ち出し、そのことをKは主導的に話題提供して、最後に自分から『然し女も可哀想なところもあるな』と木に竹を接いだような変なケアをして、この座談会を打ち切っている。
吉田 しかも、実はこの座談会の記録者はKであるということを小倉豊文は『「雨ニモマケズ手帳」新考』の115pで、ほら、この通り明かしているんだな、これが。
 併せて、その後にKが実際に「次の集まりには、先生の生活上のことなどに就いて話し合ひ」を実施したということの証言も記録もないようだから、この座談会はこの時一回ぽっきりの座談会にすぎない。したがって、Kが企画したと思われるこの「宮澤賢治先生を語る會」の目的は、この最後にあるような露に関することをそこで話題にし、しかもそれを公にしたかったためであろう、と僕はずっと前からこのような穿った見方をしていた。
荒木 そりゃあ、Kの下心は見え見えだべ。Kの話しの進め方には不審なところがある。
鈴木 なお、これを通読してもらえば直ぐ気付くと思うのだが、Kの話し方がとても横柄な感じがする。ちなみに、
   K=明治39年生まれ
   C=伊藤忠一(明治43年生まれ)
   M=伊藤克己(明治45年生まれ)
であり、Kは一番年上だからそれはまあ当たり前なのかもしれないが、今さっき、吉田に言われてKが記録者であることを知り、なおかつ前掲書には
   出席者 町の青年K 村の青年C 同じくM 
と紹介されていることから、CやMに対して見下したような感じのする進行振りが何となく理解できて、苦笑いしてしまった。
荒木 三人とも近くに住んでいながら、自分は「町の」、おまえ等は「村の」ということか。こりゃ参ったな。
吉田 それから、以前鈴木も言っていたじゃないか。『イーハトーヴォ』(宮澤賢治の會)に載っていたKの「賢治先生」において、創刊号だというのにKはしきりに〝某一女性〟、すなわち高瀬露のことを話題にしている、と。創刊号なのだから、賢治に関するふさわしい話なら賢治に大層世話になったKのことだから他に沢山あるだろうに、よりによって高瀬露のことを持ち出しているのがとても変だと僕も思っていた。
鈴木 うん。正直言って私は、Kのいくつかの言動には常に何かある思惑がありそうで、その証言に全幅の信頼を寄せることができないのだ。
吉田 あの、小倉豊文の「粗雑な推定」に関しての場合にもそうだよな。

Kの証言の取扱方
荒木 じぇじぇじぇ、やっぱり。
鈴木 どうした荒木?
荒木 見てみろよここ、ここ。
K 俺が先生のところへ行き始めたのは、父親に紹介されて行つたのだ。東京から歸郷して間もなくだ。父は俺が再び東京に行かないやうに先生から俺に話して貰ふやうに頼んだのだ。その時が先生への初對面だ。
               <『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版、昭和18年9月)251pより>
とある。ということは、あの鏑の暗示は適中しているのかもしれんな。
吉田 何だその適中というのは?
荒木 ほら、鏑慎二郎が言った『…あるいは田舎の人でも都会生活の経験者が作ったのかも知れない。また、伝わり方も誰かあやつっている人がいるような気もする』というやつだよ。まさしく、鏑の言うところの「経験者」とはKその人のことではないか。
鈴木 なるほど、言われてみればまさにピッタリだ。事ここに至れば、この座談会のKの言動といい、『イーハトーヴォ』創刊号の「賢治先生」の件といい、そしてこの鏑の暗示とくれば、もはや
   今後Kの証言に関しては当然単独では使えない。
ということで臨まねばならないということのようだな。
吉田 特に高瀬露に関する証言とかエピソードの出処は殆どKであるという実態があるから、おさら慎重であらねば。
鈴木 そうなると、私たちは「ライスカレー事件」は実際にあったことだと結論したけど、よくよく見てみれば、『新校本年譜』の上段にあの座談会におけるこの事件絡みの部分は載ってはいるものの、その事件が実際にあったなどという断定表現は一切していないから、筑摩は確証がないと判断していることになりそうだ。私たちの判断は甘かったのかな。
吉田 そうではなかろう。事件としてはあったが、巷間伝わっている「ライスカレー事件」の中身に確証が持てないということだろう。つまりその中身は噂話程度のものだと見ているのだろう。
荒木 それじゃ結局、その程度のことで露は濡れ衣を着せられて<悪女>にされたということになるのか。『許せんな。誰だっ! それを着せた張本人は』と言いたくなるじゃ…
吉田 いや、現段階ではそこまでは僕は言い切れんと思う。これからの考察結果次第じゃないのかな。

除外するものの確認
鈴木 それでは取り敢えず、
   ある時期まで二人は親密だった。
  →昭和2年のおそらく夏から秋にかけて賢治が心変わりした。
  →賢治は露に「癩病」ですと詐病して露を拒絶するようになった。

と言う図式は、まず妥当と判断していいということでいいかな。
荒木 おおいいよ。
鈴木 では一体なぜ、賢治はある時点から心変わりしてしまったのかが今後のポイントだから、まだ僕達が吟味していない証言等をリストアップしてみよう。その上で、前に荒木が言ったように、一体、露のどこが論われているのだろうか等というところをチェックしてみよう。
吉田 なおその場合には、Mの「昭和六年七月七日の日記」についてはもはや僕たちは基本的には資料としては除外する。理由は以前話し合った通りだ。それから、もちろんGの「優しい悪魔」も同様にだ。
鈴木 たしかにな。例えばその中の次のような一節、
 賢治が意識したとき、相手は目をぎらぎらさせて、いや目ばかりか全身を燃えたぎらせて、ぶつかりそうな近さにたっていた。それはもはやまぎれもなく、成熟した性器を完全にそなえた一人の異性であった。賢治は戦慄した。今にもおっかぶさって来そうな性器――性器という感覚に。
          <『宮沢賢治 その愛と性』(G著、芸術生活社、昭和47年12月発行)212p~より>
があることを知った時に、私は怒りを通り越して哀しくなってしまったものだ。
荒木 俺も気になってこの前読んでみたが、いくら仮名として内村康江を使ったからといって、こんなことが宮澤賢治研究において看過されてきたということが信じられなかった。
吉田 まさに、上田哲が
 こん度は、賢治の心情の内奥まで立入っている。これは想像というより下劣な儀府の心情の表現にすぎない。このような本が研究書とよばれまかり通り研究文献目録に登載されている。日本の文学研究のレベルの低さが悲しくなった。
              <『「宮澤賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―』15pより >
と悲嘆する類さ。
鈴木 それでは、基本的にはMとGの証言等は除外することとして異議はないな。

残っている証言は何か
荒木 OKだ。
 ならば、まだ検討していないもののうち俺が知っている分をまず挙げてみる。抜けている分については後で二人から補ってくれ。まずは、
(ア)『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』の中の「賢治先生」におけるKの証言
 某一女性が先生にすつかり惚れ込んで、夜となく、晝となく訪ねて來たことがありました。その女の人は仲々かしこい氣の勝つた方でしたが、この人を最初に先生のところへ連れて行つたのが私であり、自分も充分に責任を感じてゐるのですが、或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、臺所をあちこち探して「カレ-ライス」を料理したのです。…(「ライスカレー事件」ゆえ割愛)…そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
          <『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會、昭和14年)所収「賢治先生」より>
 次は、
(イ)『宮澤賢治素描』の中の「宮澤賢治先生を語る會」におけるKとCの証言
K この次の集まりには、先生の生活上のことなどに就いて話し合ひたい。それから前にも言つたがあの女のことで騒いだことがある。私の記憶だと、先生が寝ておられるうちに女が來る、何でも借りた本を朝早く返しに來るんだ。先生はあの人を來ないやうにするために随分苦労をされた。門口に不在と書いた札をたてたり、顔に灰を塗つて出た事もある。そして御自分を癩病だと云つてゐた。然しあの女の人はどうしても先生と一緒になりたいと云つていた。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかつたな。
K …(「ライスカレー事件」ゆえ割愛)…そんなやうなことがあつて後、先生はあの女を不純な人間だと云つていた。
C 何時だつたか先生のところへ行った時、女が一人ゐたので、「先生はをられるか、」と聞いたら、「ゐない」と云つたので歸らうかと思つて出て來たら、襖をあけて先生は出て來られた時は驚いた。女が來たのでかくれてゐただらう
K あの女は最初私のところに來て先生を紹介してくれといふので私が先生へ連れて行つたのだ、最初のうちは先生も確固した人だと賞めてゐたが、そのうちに女が私にかくれて一人先生を尋ねたり、しつこく先生にからまつてゆくので先生も弱つて了つたのだらう。然し女も可哀想なところもあるな。
            <『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版、昭和18年9月)255p~より>
 今度は関登久也関連で、まずは
(ウ)『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年9月発行)の「女人」よりで、
 或る女の人が賢治を非常に慕ひ、しばしば協會を訪れました。最初のうちは賢治も仲々しつかりした人だ、といつて居りましたが、段々女の人が大變な熱をかけてくるので随分困つてしまつたやうです「本日不在」といふ貼紙を貼つて置いたり、或ひは別な部屋にかくれて、なるべく逢はないやうにしていたりしてゐたのですが、さうすればする程いよいよ拍車をかけてくるので、しまひには賢治も怒つてしまひ、その女の人に辛くあたつた様です
            <『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年9月発行)190pより> 
 同じく、
(エ)『宮澤賢治素描』の「返禮」よりで
 賢治氏を慕ふ女の人がありました。勿論賢治氏はその人をどうしやうとも考へませんでした。その女の人が賢治氏を慕ふのあまり毎日何かを持つて訪ねました。當時は羅須地人協會にたつた一人の生活をして居られたのですから訪ねるには都合がよかつたでせう他の人に物を輿へることは好きでも、他人から貰うことは極力嫌つた賢治氏ですから、その女の人ら食物とか花とか色んなものを貰ふたびに賢治氏はどんなに恐縮したことでせう。そしてそのたびに何かを返禮してゐた様です
 そこで手元にあるものは何品にかまはず返禮したのですが、その中には本などは勿論、布團の様なものもあつたさうです。女の人が布團を貰つてから益々賢治氏思慕の念をつよめたといふ話もあり、後で賢治氏は其の事のために少々中傷されました。
            <『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年9月発行)193pより>
 以上が俺が知っているのだ。後は頼む。
鈴木 それじゃ私からは、同じ関登久也のものだが、
(オ)『宮澤賢治物語』の中の「羅須地人協会時代」よりで、
 協会を訪れる人の中には、何人かの女性もあり、そのうちの一人が賢治をしたっておったようです。最初は賢治も「なかなかしっかりした人だ」とほめておりましたが、その女性が熱意をこめて来るので、少し困ったようです。そこで「本日不在」という貼り紙をはっておいたり、又は別の部屋にかくれて、なるべく会わないようにしていたのですが、そうすればするほど、いよいよ拍車をかけてくるのが人の情で、しまいにはさすがの賢治も怒ってしまい、その女性に、少し辛くあたったようです
            <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月)89pより>
 そして同じく、前にも少しだけ引用した
(カ)『宮澤賢治物語』の「風評」で、羅須地人協会員の一人伊藤清の証言
 世間の風評と言えば、近所の女性が先生を慕つて二度、三度昼食を持つて来たことがありますが、の人たちが、そのことを大変評判にしました。先生はその女性に関する評判を大変気に病んで、どうかしてその女性を近づけまいと、いろいろ工夫をこらしたことがあります。女性は先生のそうした苦労を知らないで執こく訪問したので、先生もほとほと困惑されたことをおぼえています。この女性に関する様々のエピソードは、誰かがお話するだろうから私は申上げないことにします。
 ただ、この女性に関連しての風評のうちで、こんなことがありました。それは八景(桜の別名)の先生の家から女の魂(たまし)が出て来るというのがありました。これは夜半に先生を訪れた女性が、戸口で先生に断られてすごすご夜の道を帰る時、村の誰かがその女性に逢つたので、そんな話に尾鰭をつけて噂としたのでしよう。その風評が先生の耳に入ると、かんかんに怒つて
「実にけしからん、名誉毀損だ。」 
 と言つて居られました。
            <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月)267p~より>
というところかな。残りは吉田からどうぞ。
吉田 この他にはといえば、藤原嘉藤治や伊藤与蔵のものもあるが、今は下根子桜時代に関して検討しているのでそれらは後に回すこととし、大体これで必要にして十分なものだろう。
荒木 えっ? これ以外にはもうないのか。
鈴木 おそらく…
荒木 ということは、あの「昭和六年七月七日の日記」の中に述べられていた、
彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家も借りてあり、世帯道具もととのえ…(略)…たのしく生活を設計していた。

彼女は…一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。
という記述は一体何だったんだ。
鈴木 おそらく、当時賢治周辺でささやかれていた興味本位の噂話をそのまま活字にしたということだろ。
吉田 以前僕たちが“Mは「昭和六年七月七日の日記」における露関連の検証は不十分だった”と判断してことが正しかったということを裏付けてくれるということさ。
鈴木 そうだった。あのとき吉田がたしか
 取材も検証もなしに口さがない人達の語っていた単なる噂話などをそのまま活字にしたものであったり、あるいはまた著者Mの想像力が書かしめたりしたものである。
と断言したいたはずで、前掲の“まだ残っている証言(ア)~(カ)”の中に今荒木が言った2つのことが入っていないということは、やはり「昭和6年7月7日の日記」は問題ありということがさらに明らかになったということか。
荒木 やはり俺たちの先の判断は間違っていなかったのかもしれんな。

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