宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

第一章 新たにわかったこと(後編)

2014年02月28日 | 『賢治と高瀬露』
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 焼走りコースの岩手山登山ではコマクサの群落をたっぷりと堪能できたので、今度は早池峰山のハヤチネウスユキソウを見に行こうという山行計画を立て終えた私たち3人は、また例の続きを話し合った。

露の生家・勤務校・下宿の地理的関係
鈴木 さてこれまでの私たちの調査等によって高瀬露関連で新たにわかったことなどを基にして、地図上で確認してみたい。 まずこれだ。
そう言って私は次のような地図を二人に見せた。
【高瀬露の生家周辺の地図】

         <当時の『花巻』(五万分の一地形図、地理調査所)より>
鈴木 実は話すタイミングを失っていたのだが、やっと先頃高瀬露の生家のあった場所が特定できた。
吉田 おっと、それは嬉しいな。僕もそのことは気になっていてかつて少し探し回ってみたのだが皆目判らなかった。どうやって判ったんだ?
鈴木 それは、東京に住んでおられる下根子出身の大先輩 I 氏が贈って下さった資料『花巻市文化財調査報告書第一集』(花巻市教育委員会発行)」の中にあったから判ったんだ。
荒木 そういえば鈴木は前から露の生家の住所はわかったが、その場所がわがらねぇとぼやいていたもんな。どごどご、それはどごなんだ。 
鈴木 いいか、ここが豊沢町の賢治の生家でライム色■、下根子桜の宮澤家別宅が青色■だ。そして、露の生家はこの紫色■の所だった。
荒木 そうか。そうすると、賢治の生家と別宅との中間に露の生家は位置しているから、例えばその間を往き来する場合には必ず賢治は露の家の側を通らねばならなかった、となるぞ。
吉田 とするとその場所は坂の下り口付近だぞ。あの〔同心町の夜あけがた〕の中に出てくる連
     向ふの坂の下り口で
     犬が三疋じゃれてゐる
     子供が一人ぽろっと出る
     あすこまで行けば
     あのこどもが
     わたくしのヒアシンスの花を
     呉れ呉れといって叫ぶのは
     いつもの朝の恒例である

のまさしく「向ふの坂の下り口」そのものじゃないか。
鈴木 うんそうなんだ。そのことを知って私もちょっと驚いたのだった。たまたまの一致かもしれないが…
吉田 いや、案外賢治のことだそのことを織り込んで詠んでいたに違いない。

露の生家・勤務校・下宿の地理的関係
鈴木 したがって、荒木のお陰もあって当時の露の下宿場所が先に判っていたし、これで高瀬露の生家、旧寶閑小学校の場所がそれぞれ確定できた。よって、“露の生家・勤務校・下宿の地理的関係”を地図上に追記してみるとこのようになる(後掲【当時の花巻の地形図】参照)。寶閑小学校の所在地は図の赤●印付近、紫色●印が高瀬露の生家、青●印が下根子桜の別宅のあった場所だ。
 そこで地図上で計測してみると、高瀬露の家と小学校間の距離は直線距離で約7㎞もあり、しかも当時花巻温泉鉄道鉛線の列車の本数は多くなかったから、その通勤事情の悪さ等により露は寶閑小学校の近く約1㎞の“西野中のTさん”方に下宿していた。
 したがって平日の場合には、露の勤務のことを考えれば下根子桜の賢治ところに行くことはほぼ無理である。まして、Mの「昭和六年七月七日の日記」には
    一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。
とあるが、そんなこと、つまり遠い「鍋倉」から一日に二回も三回も下根子桜にやって来ることはほぼ不可能であったであろう。
吉田 そうだな。せいぜい、週末とかに同心町の生家に戻った際に初めてその回数は可能であっただろう。しかしそうなると、「遠いところ」と言えなくなってしまう。
荒木 あっ、俺思い出した。
吉田 何だ唐突に。
荒木 俺さ、そういえば当時の花巻電鉄の時刻表持ってたはずだ。待ってろすぐ持って来っから…
鈴木 そういえば荒木は少年の頃「鉄ちゃん」だったもんな。
そう言った時点でもう荒木の姿は見えなくなっていた。

検証<1日に2回も3回も遠いところ>
吉田 それじゃ、荒木が戻ってくるまでにもうちょっとさっきの地図に付け加えてみようじゃないか。例えば、当時の駅、僕の記憶によればあの当時あの辺りには「ふたつぜき駅」や「くまの駅」そして「にしこうえん駅」があったはずだからそれらなどを付け足してみてくれないか。
鈴木 わかった。じゃ付け足してみるか。
 「露の下宿」「二ッ堰(ふたつぜき)駅」「熊野(くまの)駅」「西公園(にしこうえん)駅」を追記してみると下図の如しだ。
【当時の花巻の地形図】

      <当時の『花巻(五万分の一地形図)』(地理調査所)より抜粋>
それを二人で眺めていたところに荒木が息せき切って戻ってきた。
鈴木 お疲れ。ずいぶん早かったな。
吉田 荒木はいつもばか真面目だからな、走って行って走って戻ってきたんだろ。
荒木 んまあな。だって嬉しいじゃないか、大正15年の時刻表があったんだよ。
鈴木 そういえば、上田哲の論文によれば、露が宮澤家別宅を訪ねていたという期間はたしか大正15年~昭和2年頃だったから、まさに願ってもない時刻表と言える。
荒木 その時刻表は下表の通りだ。
《表1 花巻温泉電氣鉄道鉛線列車時刻表》

鈴木 すると、この地形図上でその距離などを計算してみるとざっとみてどんだけの距離があり時間を要すると見積もれるんだ荒木。
荒木 そうだな、この地形図と時刻表とを併せて考えれば、露は“鉛線”を使ったであろうし、その区間は「二ッ堰駅~西公園駅」であったとしてほぼ間違いなかろう。だからおそらく、
 露の下宿~約1㎞~寶閑小~約3㎞~二ッ堰駅~鉛線約25分~西公園駅~約1.5㎞~露生家~約1㎞~下根子桜(宮澤家別宅)
となるだろう。
 したがって、当然その当時はこの電車以外には基本的には徒歩しかないはずだから、その所要時間は
 露の下宿~約15分~寶閑小~約45分~二ッ堰駅~鉛線約25分~西公園駅~約20分~露生家~約15分~下根子桜(宮澤家別宅)
となるだろうから、
   露の下宿→下根子桜(宮澤家別宅)
までの所要時間は、電車のつなぎが上手くいったとしても約2時間はかかると判断できそうだ。
吉田 ということは、露の下宿~下根子桜(宮澤家別宅)を往復するのに少なくとも約4時間はかかりそうだ。だから、もしこれを
 一日に二回も遠いところをやってきたりするようになったとすれば、約8時間は、
 一日に三回も遠いところをやってきたりするようになったとすれば、約12時間は
最低でもそれぞれかかる。
荒木 まして、その鉛線「ふたつぜき駅」の始発発時刻は5:44、そして「にしこうえん駅」の終電発時刻は8:22だ。どうやって「一日に三回も遠いところをやってきたり」できたんだべが。
吉田 しかも、露は当時寶閑小学校の先生をしていたのだから、一日に三回どころか一日に二回であってもそこから下根子桜の賢治の許にやって来ることはほぼ不可能であったであろう。よしんばそれが仮にできたとしても、そんなことをしていたら下根子桜の別宅に露はどれでけの時間滞在できたというのだろうか。
 だからせいぜい、露が週末や長期の夏休みや冬休みに生家に戻っていた際にであれば、
    一日に二回も三回もやってきた。
ことはあり得たかもしれないが、ただしそれは
    遠いところをやってきた。
ということにはならない。露の生家と下根子桜の別宅との間は約1㎞、すぐ近くと言っていい距離だからだ。
荒木 したがって、露が
   一日に三回も遠いところをやってきたりするようになった。
どころか、
   一日に二回も遠いところをやってきたりするようになった。
ということさえもほぼあり得ない。
 何のことはない、Mは「昭和六年七月七日の日記」の中で
   彼女は…一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。
と書いているが、実はこれはほぼ歴史的事実でなかった。
と結論できるということか。
吉田 そ、そういうこと。

ある「寶閑小学校資料」より
鈴木 ところでさ、実は寶閑小学校に関するこんな冊子資料が見つかったんだ。そこにはほら、当時の概要等が書いてある。
 例えば【校地・校舎の変遷】についてはこの通りだ。
吉田 おお、たしかによさそうな資料じゃないか。一体どこで見つけた?
鈴木 それはちょっとヒ、ミ、ツ。
荒木 なにっ~、あの「秘密保護法」に触れるってが。それじゃそこは突っ込まないから少しこの冊子資料の説明をしてくれよ。
鈴木 そうか。ではまずその【校地・校舎の変遷】についてだが、寶閑小学校は明治13年に創立されたことが判る。この年は岩手県で一番古い中学、賢治の母校盛岡中学が創立された年でもあるから、寶閑小学校もかなり古い学校だ。
 またこの表からは、露が勤めていた頃の寶閑小学校の所在地は
   湯口村鍋倉字十地割七番の内イ号出張
ということになる。これがいわば旧寶閑小学校のあった住所だ。
 一方、昭和16年に寶閑小学校は
   湯口村鍋倉十地割字地神七
に移ったことになる。この場所が新寶閑小学校、今で言えば例の『鍋倉ふれあい交流センター』の住所となろう。
 ちなみに、昭和16年度に教員住宅分増設という記載があるから、遠隔地に住んでいた寶閑小学校勤務の先生方はそれまでは皆下宿したということになりそうだ。   
 そして同資料には露が勤務した当時の【校舎平面図】も載っている。
荒木 たしかに露の教え子Kさんが教えてくれたとおりだ。当時は3クラス分の教室しかないことが判る。
鈴木 また、【児童の在籍数等】も載っていて、露が勤めていた頃の善児童数は170人前後であることも判る。
 そして、同資料には【當校の先生】も載っていて、そこにはちゃんと“高瀬露”という名前がある。
吉田 たしかに、
   大正12年10月に着任
   昭和7年3月に上閉伊・上郷校へ異動

となっているから、上田哲や佐藤誠輔氏の編んだ露の年譜とほぼ同じだ。

露の妹瀧の名前発見
鈴木 それにしても、どうして年度明けの着任ではなくて中途半端な10月の着任なのだろうかということを私は訝ったんだ。するとなんと、露の2人前の先生の名前は“高瀬瀧”となっているじゃないか。それを見た私は『あっ、噂は本当だったんだ』とつぶやいていたね。実は、露の妹も寶閑小学校に勤めたことがあるということを人伝に聞いていたからだ。そこでもう一度落ち着いて見直してみると、
        職名    着任        転出     出身地     備考 
  高瀬瀧 訓導  大正11年7月  大正12年9月   下根子   初任・中野校(女師附属)
  高瀬露 訓導  大正12年10月  昭和7年3月   向小路   上閉伊・上郷校へ 

とあった。そしてそもそも花巻で高瀬という姓は極めて少ないはずだから、住所が同じ表現ではないものの向小路は下根子の中にある地名だから、噂どおりこの二人は姉妹であると判断できそうだ。
 なおかつ、かつて上田哲の編んだ年譜を見た際に、露はそれまで勤務していた笹間小学校を大正10年に一度辞めて自宅で二年間過ごしているとあったから、そういうことかとある可能性を推理して合点がいった。
 もしかすると、妹の瀧が何等かの理由で寶閑小学校を年度途中で辞めなければならなくなった。そこでその後任として、年度途中のことでもあり露にその後任としての白羽の矢が当たったし、このような事情であれば露もそれを拒むわけにいかなったのであろ、と。
荒木 なるほど、なるほど。

確認できたことなど
鈴木 さ~てと、今回この客観的な資料も見ることができたのでこのことも併せ考えれば、いままでにたどり着いていた以下の事柄
・高瀬露は大正12年10月~昭和7年3月末の間寶閑小学校の先生をしていた。
・露が勤務したのは、現在の堰合にかつて建っていた旧寶閑小学校(現「山居公民館」の近く)である。
・当時は交通事情が悪かったので露は下宿していた。それも、賄いがつかなかったので自炊していた。
・下宿していた場所は“西野中のTさんのお家”であり、現在『鍋倉ふれあい交流センター』があるすぐ近くである。
・その露の下宿から下根子桜の宮澤家別宅まで行くための当時の所要時間は片道約2時間であった。
はいずれもほぼ確実なことであったと言えるな。
と言ったところで、吉田が突然声を発した。
吉田 おいっ!、この職員名簿の最後の方に飛田三郎という名前が出てるぞ!
鈴木 えっ気付かなかったな。それって、もしかするとあの飛田三郎のことか。賢治の遺稿を清書したという。
吉田 いや、そこまでは判らんが。たまたま同姓同名なのかも知れんからな……いずれ一段落したならばそれも調べてみる必要があるな。
荒木 どごどご、あっほんとだ。
   氏名    着任        転出       職名    出身地   備考 
  飛田三郎 昭和39年4月  昭和40年3月   教頭    矢沢   矢沢小より・退職

とたしかになっている。知っとると思うが、高瀬姓と同様、飛田姓だってこの辺には極めて少ない姓だから同一人物の可能性がかなり高いぞ。

露の遠野時代の同僚に会う
吉田 ところで、高瀬露の同僚に会ったんだって。 
鈴木 そうなんだよ、会えたんだよ。元教員の佐藤誠輔という知的な老紳士で、かつて露と遠野の青笹小学校で一緒に勤めていた方だった。なおかつ、佐藤氏の奥様も露と同僚だったというんだ。
 そんなわけで、佐藤氏は露のことを良く知ってみるとどうも巷間伝わっているような人ではないのではなかろうかと思い立ち、いろいろとお調べになって「宮沢賢治と遠野 二」という論考にそのことなども書いておられる。
と私は言って、同論考が所収されている佐藤氏から頂いた冊子『遠野物語研究第7号』(遠野物語研究所、2004年3月)を二人に見せた。すると、
荒木 おっ、露って案外美人じゃないか!
と声を出した。それは、同論考の中に露の写真が載っていたからである。もちろん私にとっても、この冊子を頂戴したことによって初めて見ることができた写真であった。落ち着いた感じのする人だなという印象を受けたものだった。なお、高瀬露23歳頃の写真は『イーハトーブセンター会報 第18号』や『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)において公になっている。

高瀬露は『大人だった』
荒木 それで、露と同僚だった佐藤さんからどんなことをお訊きできたのだ?
鈴木 それはさ、
 「私と妻は晩年の露さんと同じ学校に勤めたことがあります。その頃は養護教諭となっていた露さんは、他人の悪口を言わない教師として同僚から一目置かれていました」
とか、上田哲の例の論文“「宮沢賢治伝」の再検証(二)”を見ながら、
 「このお二方、菊池映一さんも工藤正一さんもよく知っております。露さんはこのように菊池さんや工藤さんが証言するような人でした」
ということもなども教えて下さった。また、
 「露さんの夫小笠原牧夫氏は当時鍋倉神社の神職だったので、クリスチャンであった露さんは信仰上の悩みもあったと思いますが、露さんのお義母さんは『とてもよい嫁が来てくれた』と言って、露さんのことを大事にしてくれたとのことです。勤めに行く露さんを三つ指ついて送り出したということですよ」
ということもだ。
吉田 そう言えば、露の夫の牧夫は昭和20年に比較的若くして亡くなったはずだから、露はその後小笠原家の家計を女手一人で健気に支えたということかも知れないな。
荒木 そうか、露は義母からの評判も良かったんだ。
鈴木 そうなんだよな。それに露の人となりについて、これは今回私が佐藤氏と直接会って一番印象的だったことなのだが、高瀬露はどの様な人だったのですかと私が佐藤氏に訊ねたならば佐藤氏はおもむろに
    「大人でしたね
としみじみ仰ったんだ。
荒木 うっ?、どうしてそれが一番印象的だったんだ?
鈴木 私はこの一言「大人でしたね」で、ある図式が殆ど見えてしまった気がしたからさ。
荒木 なんか、奥歯に物が挟まった物言いだな。
吉田 たしかにな。でも多分、それはこういうことだろ。
 『事実でないことが語り継がれている』と言ったきりで生涯一言の弁解もせず、その上賢治没後に、尊称を用いて賢治のことを短歌に詠んだりしている露はまさしく大人だ。その露の身の処し方は見事と言っていい。それと引き比べて、押入の中に隠れたりとか、顔に墨を塗って会ったりしたとかということを本当に賢治がしたということであれば、その行為はあまりにも稚気じみている。三十にもなった男がすることじゃない。その二人の間に存在した差の大きさを思い知らされた。
ということだろう。
鈴木 いやいや、流石にそこまでは私は思っていないけどね。

それどころか<聖女>
荒木 そうなんだ、露は『事実でないことが語り継がれている』と言ったきりで生涯一言の弁解もせずか…。それじゃ、どちらかと言えば露は<聖女>じゃないか。
鈴木 そうなんだよ吉田が言ったように、この『図説宮沢賢治』にほらこのように
 彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった。
             <『図説宮沢賢治』(上田哲・関山房兵等共著、河出書房新社)93p~より>
と上田が記している。
荒木 たしかにそう書いてある。ところで、さっきの「菊池映一さんとか工藤正一さん」の証言とは一体どんな内容の証言なんだ。
鈴木 それはだな、ほらここにかいてあるのだが、菊池映一氏<*3>の証言とは
 彼女はわたしだけでなく多くの人々に温かい手を差し伸べていることがいつとはなしに判り感動した。わたしも彼女に大分遅れてカトリック信者になったが、昔の信者の中には、露さんのような信者をよく見かけたが、いまの教会にはいない。露さんは、「右手の為す所左の手之を知るべからず」というキリストの言葉を心に深く体しているような地味で控え目な人だった。また、世話づきで優しい人で見舞の時枕頭台やベットの廻りの片付けなどしてくれた。それとともに誇り高く自分を律するのに厳しい人で、不正やいい加減が大嫌いだが、他人の悪口や批判を決して口にしなかった。
                <『七尾論叢11号』(七尾短期大学)80p~81pより>
というものであり、一方の工藤正一氏<*4>の証言とは
 小笠原先生は、当時養護教諭として勤務しており、児童の健康管理と保健の授業をしていました。仕事ぶりは真面目で熱心な方でした。よく気のつく世話好きな人だったので児童からもしたわれていました。それから人ざわりの良い、物腰の丁寧な人で、意見が違っても逆らわない方だったので同僚や上司、父兄、周囲の人々に好感をもたれていました。
                <『七尾論叢11号』(七尾短期大学)80pより>
というものだ。
荒木 二人とも、露の人となりについてはとてもいい評価をしているじゃないか。それにさ、この論考によれば、菊池さんは先程の証言の前に
 露さんを小学校の友達の母親として知っていたが、親しくなったのは十代の終りの頃結核で入院していたわたしを多忙な主婦と教員の生活を割いて度々見舞に来てくれた。自分が娘の幼な友達だったということからではなく病人、老人、悩みをもつものを訪問し力づけ、扶けることがキリスト者の使命と思っていたのである。
ということも語っているぞ。とりわけ、この菊池さんの証言から導かれるのは通説になっている「悪女」ではなくて、さっき俺が言ったように全くその逆、高瀬露はまさしく<聖女>だべ。
吉田 そう、少なくとも遠野時代の露はそう言える。

はたして伝説は正しいのか
 そしてしばし時間を置いてから、
吉田 『事実でないことが語り継がれている』と言ったきりで生涯一言の弁解もせずなんだよな…。そんな露の生き方、見事なんだよな。僕には真似ができない。こんな対応、生中の人にはとてもできない。
と言葉を継いだ。私は突然大きな声を出してしまった。
鈴木 そうなんだよ…そういうことなんだ! 吉田ありがと。
そして吉田に握手を求めた。それを見ていた荒木は戸惑いながら、
荒木 鈴木どうした、大丈夫か?
鈴木 ちょっとはしゃぎすぎか、ごめん。でもさ、こういうことだ。
 私はこの度、露の同僚だった佐藤誠輔氏に直接お会いできてかなり確信した。露は巷間言われているような「悪女」では決してないということを。そしてそれどころか、少なくとも遠野時代の露は「悪女」よいうよりは二人の言うとおり、「聖女」だと。
 それが、今の吉田の一言で私は100%の確信に変わった。まさしく「生中の人にはできないこと」だから、それは遠野時代の露に限ったわけではなくてそれまでの露がそうだったのだと。
   高瀬露は<聖女>だった。
のだと。
吉田 おいおい、いいのかよ。またぞろ定説を全く覆すような真逆のことを言い出して。お前も結構怖いもの知らずだな。僕はその責任を負えないぞ。
荒木 いや、案外いいんじゃないか。いままで俺たち三人が調べてきた限りにおいては、露に関して巷間伝わっているものには信憑性に著しく欠けているものがいくつかあるということを知ったところだ。
 しかも、さきほどいみじくも俺自身が露は<聖女>ではないかと口走ってしまったくらいだ。そう、はたして巷間流布している露の伝説はほんとに正しいのか、だよ。
鈴木 実は、上田哲の論文「「宮澤賢治伝」の再検証(二)-<悪女>にされた高瀬露-」の存在とその中身を知り、そして同じ頃に知った“tsumekusa”さんという方のブログ「「猫の事務所」調査書」を読み始めた頃から、巷間伝わっている「露伝説」はかなり危ういものだということを私は薄々感じ始めていた。
 そこへもってきて、露に関して基本的でかつ重要な事項でそれがまだ明らかになっていなかったことをこうやって三人で新たに何点か明らかにできたので、「昭和六年七月七日の日記」の中の露に関する記述には著しく信憑性に欠ける点があることを示すことができた。
 さらにこの度、佐藤氏に直接会って先のようなお話をお聴きし、同氏の論考「宮沢賢治と遠野 二」を読み、特にその最後が次のように結ばれていることを知って一層そう思っていたんだ。
 私と妻は晩年の小笠原露と同じ学校に勤めたことがある。既に子供たちを育て終え、養護教諭となっていた彼女は、人の悪口を言わない教師として、同僚たちから一目置かれていた。
 小笠原露が、宮沢賢治の恋人だということを当時の同僚たちはあまり知らなかったと思う。なぜなら、彼女の口からただの一度も宮沢賢治のほんの一言さえ聞くことがなかったからである。
 『年譜』は、高瀬露紹介の最後に『遠野市で幸せな結婚生活を送った』と結んでいるが、名家に嫁いだ彼女には、職場では見せなかったもう一つの顔やそれなりの苦労があったと思われる。
 彼女の隣家に長年住んでいた人から、人づてに聞いた話がある。
 「露先生がたった一度、宮沢賢治を口にしたことがあるよ。よほどうれしいことがあったのかな『わたしね、ひょっとすると賢治さんのお嫁さんになっていたかも知れないんだよ』とね」
             <『遠野物語研究第7号』(遠野物語研究所)93pより>
 そこへ、さっきの吉田の一言が私に気付かせてくれた。高瀬露という人間が実はどのような人だったのかということを。
吉田 そもそもよく考えてみれば、彼女が悪女だとあからさまに言っていてしかもそれが参考文献として賢治研究者に最も使われてきたのが「昭和六年七月七日の日記」のはずだ。しかも、多くの研究者はそれを検証もせずにそのまま安易に使って来たということをあながち否定できない現実がある。
 そして読者や世間一般は、この「昭和六年七月七日の日記」やそれらを検証もせずにそのまま用いたその他の著作や論考、そして生誕百周年のときの例の二本の映画などによって「露伝説」を刷り込まれてしまった。

伝説を見直すべき時機が来た
荒木 ところが、賢治が亡くなってからほぼ80年が経った今でも、しかも俺たちのような素人三人組でさえも調べようと思えば調べることができて、「昭和六年七月七日の日記」の中に出てくる「世帯道具もととのえてその家に迎え云々」だって、「一日に二回も三回も遠いところ云々」だって単なる興味本位の噂話だったということをほぼ明らかにできた。はたしてこの「昭和六年七月七日の日記」はどこまで「文献」として使えるのか。はっきり言って、この「昭和六年七月七日の日記」の中には露に関して事実とはかなり異なっている部分が少なからずあるから文献としての信頼性に欠ける。
吉田 あれっれっ、ほんとに、荒木も結構言いたいことをズバッと言うようになったな。
荒木 茶化すなよ、俺だって言いたいことがある時はこれからははっきり言う。そして、先程の特に菊池さんの証言を知って、露ってもしかすると誰かの思惑によって無理矢理<悪女>にされた女性ではなかろうかということまでも考え始めていたところなんだ。だから、もしそうであればその濡れ衣を少しでもいいから晴らしてやりたい。かなり遅きに失したの感はあるが、伝説を見直す時機が来たということだべ。
吉田 それじゃあさ、二人がそこまで思うんだったら「千葉恭」や「賢治昭和二年の上京」の場合と同じように鈴木、そろそろ仮説を立てて検証してみろよ。
鈴木 それもそうだな、それじゃ思い切って始めてみるか。
吉田 そうだ、その意気。そして今までと同じようにそれを世に問うてみろよ。なあ~に、失敗したところで年老いたお前にはもはや失うものは何もないんだから。
荒木 ちょ、ちょっとそれはきついんじゃ…いやいや、へへそれもそうだ。
鈴木 じゃじゃじゃ、なんだよ二人とも冷たいな。
***********************************************************
<*3:註> 菊池英一氏について上田は次のように同論文で述べている。
 (菊池氏と)彼女との交流は、晩年近くになってからであるが、露の二人の娘とは小学校時代からの幼な友達で比較的古くから露を知っていた菊池英一という人がいる。遠野在住の歌人であるが尾上紫舟賞の受賞者で日本歌人クラブの理事でもある。最近のこと角川書店から『短歌』の賢治生誕百年を記念した「賢治短歌」についての歌論の寄稿依頼があった時、「自分は賢治について余り知らないから、より適任の人を」と他の人を推薦したというくらい良心的で真面目な人物である。確かに宮沢賢治については一般の読書人程度の関心と知識しかないが書こうと思えば欠ける能力はもっていたのである。高瀬露と賢治についての伝説については私が話すまで知らなかったが、露が賢治を度々訪問していたことは、彼から聞いていた。それで露と賢治についていろいろ聞いてみた。

<*4:註> 同じく工藤正一氏について上田は次のように述べている。
 彼女の二度目の青笹小学校勤務時代の同僚で工藤正一氏という人がいる。大正十五年生まれであるというから六十九歳。馬が趣味の元気な人であり、小笠原露について新鮮な記憶をもっている。彼はまだ三十歳代の若さで教務主任をしていた。 現在は退職して花巻市の四日町に住まっている。工藤の青笹小学校赴任は 一九五七年(昭和32)で小笠原露の退職は一九六〇年(昭和35)だったから三年間一緒に勤務していたのである。歳は大分離れていたが親しくしていた。


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