「猫の事務所」調査書

宮沢賢治に関わった女性の風評についての意見・感想。

このブログについて

2020年12月31日 | 注意書き
※このブログは2008年11月20日に全ての記事を上げ、更新を終了致しました。
 ブログの管理は引き続きしております。
 トラックバックの受付を再開しました(事前承認制です)。
 コメントは返信に時間が取れないため、引き続き受付を停止しております。
 ご了承下さい。(2014年4月28日修正)
 


『獅子が釣鐘の声でどなりました。
 「何といふお前たちは思ひやりのないやつらだ。
 ずゐぶんこれはひどいことだぞ。
 黒猫、おい。お前ももう少し賢こさうなもんだが
 こんなことがわからないではあんまり情ない。
 もう戸籍だの事務所だのやめて了へ。まだお前たちには早いのだ。
 やめてしまへ。えい。解散を命ずる。」
 釜猫はほんたうにかあいさうです。
 それから三毛猫もほんたうにかあいさうです。
 虎猫も実に気の毒です。
 白猫も大へんあはれです。
 事務所の黒猫もほんたうにかあいさうです。
 立派な頭を有った獅子も実に気の毒です。
 みんなあはれです。かあいさうです。
 かあいさう、かあいさう。』
               (宮沢賢治 「猫の事務所」初期形より)



このブログでは、これまで流布されてきた宮沢賢治と高瀬露の関係及び
高瀬露の悪評や、それが今も黙認されている現状その他に対する
管理人tsumekusaの考察や感想、意見などを載せていこうと思います。
なるべく客観的な文章、早めの更新を心がけたいと思っておりますが、
至らない部分が多々ありますことご容赦下さい。
よろしくお願い致します。


文献からの引用を行う場合は以下のように文字色を変えて表示いたします。

悪評系文献からの引用。擁護系文献からの引用。その他関連資料からの引用。

また、資料中に含まれる一般及び存命と思われる方のお名前は、
インターネットの性質とプライバシーの関係上伏せさせて頂きました。


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~終わりに~

2008年11月20日 | 感想・意見・その他
前エントリにて掲載予定としていた記事を全て上げましたので、
本エントリで当ブログの更新は終了とさせて頂きます。
ブログ2年目では行き詰まりを感じてしまい1年間も更新を停止させ、
気持ちをなんとか持ち直して再開した後も、
1~2ヶ月の更新停止が基本という調子になってしまいました。
その影響で3年半という運営時間の割に大した記事数ではありません。
また文章も拙く、大変ふがいないブログだったと思います。
本当に申し訳ございません。


まずこのサイトとブログのタイトルに「猫の事務所」を使った理由をお話しします。

サイト作成中に兼仮タイトルとして、高瀬露の作った短歌にちなんだ
「つめ草」を入れたタイトルを掲げていたのですが、
それはあまりにもインパクトがありませんでした。
作った本人が失念してしまったほどですから思った以上にインパクトがなかったのでしょう。
しかし他のタイトルにしようと思っても、なかなか良いものが思い浮かびませんでした。
仕方ないからこのままこれを正式タイトルにするか……と妥協しかかった時
何気なく読んだのが、賢治の童話の一つである「猫の事務所」でした。
(内容についてはご存じの方が多いでしょうから割愛しますが、
ご存じない方はこちらへ)
私はこの童話の主人公かま猫と高瀬露を重ねて見ました。

両者とも知らない所でいわれのない悪評を立てられました。

かま猫はそれが理由で唯一の味方であった黒猫からも無視され、
今まで以上にひどい扱いを受けてしまいましたが、「なぜ、どうして」などと問いかけもせず、
ただ黙って立ちすくみ、涙をこぼしていました。
高瀬露もどんどん広がり信じられていくいわれなき悪評に対して
「事実でないことが語り継がれている」と言ったのみで
いっさいの反論も弁解もしませんでした。

かま猫と高瀬露はあまりにも置かれた立場が似ている……。
これだ、と思い、サイトとブログのタイトルに「猫の事務所」を使うことに決め、
仮タイトルに使っていた「つめ草」はこれまた迷っていたハンドルネームに使うことにしました。

そうして始めたこのサイトとブログを運営している約3年半の間に
世間では様々な言葉が生まれましたが、
そのうちの一つに「アサヒる」という言葉があります。
いわゆるインターネットスラングで、意味は以下の通りです。


*事実でないことをあたかも事実であるかのように仕立てること。
(事実の捏造・ごまかし(言い訳・他者に濡れ衣を着せる行為・綺麗事を並べることなど
 言い訳番長も含む)・改竄・隠蔽・偽装・捻じ曲げ(ご都合主義・ダブルスタンダード行為も含む)・
 誇張(誇大広告行為)・はったり・知ったかぶる)

                  (アサヒる辞書より・後詳しいことはこちらへどうぞ→)



「猫の事務所」の猫たちが讒言でかま猫を陥れたこと、
そして高瀬露の悪評と伊藤チヱの過度な賛美も「アサヒる」行為なのではないかと思います。
かま猫を陥れ冷遇した猫たちは「アサヒる」行為の報いとして
金の獅子の叱責を受け仕事も地位も取り上げられてしまいますが、
高瀬露の悪評を書き立て伊藤チヱを過度に賛美した研究者たちは何も受けることはありませんでした。
そして今もまだそのようなことを書く研究者が存在していることはとても残念に思います。

しかし、このサイト・ブログを通じて高瀬露の悪評に対して疑問を抱いている方が
たくさんおられることを知り、そういう方々から温かいコメントやメールを頂けたのは
大変な収穫・幸福だと思っております。

いち賢治ファンとしてこの問題に意見・感想などを表に述べていくことは本日でいったん離れますが、
これからも高瀬露さんの名誉が一刻も早く回復されることを願い続けています。

「2008年中に全記事を上げられそう」と2008年の年明けに書いたことを
何とか果たすことが出来たことにホッとしております。
お読み下さった皆様、コメントを下さった皆様、メールを下さった皆様に厚く御礼申し上げます。
約3年半の間本当にありがとうございました。


「猫の事務所」調査室・「猫の事務所」調査書 管理人
tsumekusa

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もう一人の"被害者"

2008年11月17日 | 感想・意見・その他
このエントリでは、とかく高瀬露と対照的な存在にされがちな
「賢治が唯一結婚を意識した」とされる女性である伊藤チヱについて語りたいと思います。

賢治研究家、特に森荘已池氏や儀府成一氏の伝える「伊藤チヱ」という女性は
(彼らの伝える)高瀬露とは対照的に、まるで「聖女」のように描かれています。
しかしそれを裏返してみれば、彼女も高瀬露同様の「ひどい」扱いを受けている気がします。

伊藤チヱは昭和16年、森荘已池氏に対して
「自分のことを書くのはやめてほしい」という主旨の手紙を2回送っています。
森荘已池氏も著書に挙げているこの手紙、引用すると長くなりますので
本サイト資料室の掲載ページにリンクをつなぎます。


森荘已池宛 伊藤チヱ書簡


私は最初、悪評系や他賢治研究家たちの高瀬露のひどい扱いに強い反感を抱いた反動で
伊藤チヱをあまり良く思っていませんでした。
この手紙についても「こんな長々だらだらと書かなくても
嫌なら『迷惑です、やめて下さい』ってはっきり言い切ってしまえば済むことじゃないか、
本当は自分のことを書いてほしくて仕方なかったんじゃないの、鬱陶しいな」
などという邪推をしていました。
けど、今はそれは違うと考え直しました。
伊藤チヱは森氏の気分を害さないようにと言葉を選びながら、
自分の戸惑いと「やめてほしい」という願いを懸命に伝えようとしただけだったのですね。

米田利昭氏は著書「宮澤賢治の手紙(大修館書店)」の中で
伊藤チヱを「しねしねした」女性だと評しています(P226)。
伊藤チヱ自身も手紙の中で謙遜を通り越していると思えるくらい
自分のことを悪く言っていますが、私はそうは思いません。
評伝に書いてあるような「聖女」とまではいかないまでも、
優しく慎ましくて芯の強い、そしてそれを表した面立ちの女性だったのだろう、
極端なことを言えば、実際の高瀬露に似たタイプの人だったのだろうと思います。

もっと極端な、またしても「トンデモ意見」にされてしまいそうな個人的見解ですが、
賢治の心の中には常に高瀬露がいて、伊藤チヱはその気配を感じ取っていたのではないか、
そして、賢治が伊藤チヱのことを意識したのも
伊藤チヱが高瀬露に似たタイプだったからではないかと思います。
さらに極端なことを言えば、この二人は賢治の妹宮沢トシに似たタイプだったのでしょう。

伊藤チヱも波風を立てるような行いは望まなかったのでしょうが
こうして2度に渡って手紙を書いて送ったということは
それだけ自分のことを書かれるのが嫌だったのでしょう。
相当な勇気を振り絞っての行動だったと思います。

森荘已池氏は結局そんな伊藤チヱの願いを無視してしまいました。
そして他の賢治研究家たちも森氏の著書から
伊藤チヱの願いを見ているであろうにもかかわらず同じくそれを無視してしまいました。
伊藤チヱの気持ちを踏みにじってしまったのです。
高瀬露が多くを語らないからと好き勝手に書くのも悪質ですが、
伊藤チヱがこうやって一生懸命に訴えているにもかかわらず
それを無視して書いてしまうのもまた悪質です。

願いは聞き入れられず気持ちは届かず、
自分のことを大々的にそして過剰に美化されて伝えられてしまった
伊藤チヱの心の傷は如何ばかりだったでしょうか。
良く書かれたか悪く書かれたかの違いはあれど、
伊藤チヱも高瀬露と同じ被害者なのではないかと考えています。

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「手紙下書き」に対する疑問

2008年11月16日 | 感想・意見・その他
2008年10月12日にポラン様より
高瀬露宛てとされる手紙の下書きが、なぜ高瀬露宛てなのだと断定されるのか
という疑問を提示して頂きました。
ポラン様には厚く御礼申し上げます。

それに対して10月23日にレスをさせて頂きましたが、
この下書きも高瀬露の悪評を広げる一因となっていると考えておりますので、
改めてエントリを立てて感想・意見等を述べさせて頂くことに致しました。
レスと重複する部分がありますがご了承下さい。

賢治が高瀬露に宛てて書いた手紙の下書き(とされるもの)はこちらです。

これらは高瀬露宛てのものと判明していたが、
高瀬露の存命中は「高瀬の私的事情を慮って」公表を控えられ、
1977(昭和52)年発行の校本宮澤賢治全集第14巻(筑摩書房)
初めて公表されたという経緯があります。
そして「高瀬露宛てのものである」と公表されてから、多くの人々(私も含む)は
無条件にそれを信用していました。
(過去エントリでこの下書きを高瀬露宛てのものと信じていた上で書いたものがありますので
追々訂正していこうと思います。)

宮沢賢治全集9(ちくま文庫)を見てみると他にも「宛先不明」の下書きがあります。
それらは備考で「○○宛てと推測される(が未詳)」と記されているか、
もしくは全く記述をせず、不明のままにしてあります。
そういう他の「宛先不明」下書きと同じく、この下書きは文中に相手の名前もなく
内容を読んでみれば相手は女性であるらしいことは判りますが、
誰に宛てて書いていたのか全く判りません。
そんな下書きが「高瀬露宛て」とまで断定できる理由は何なのでしょうか。


1.「特別な愛」「この十年恋愛らしい……
  「独身主義をおやめに……」等恋愛や結婚に関する話が出てくるから

2.「慶吾さん(引用者注・高橋慶吾氏のこと)にきいてごらんなさい
  という一文があるから
(252系下書きその1)

3.「「もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったら
  あなたと結婚したかも知れないけれども、」と申しあげたのが重々私の無考でした。

  という一文があるから
(252c)


考えてもこれだけしか理由が挙がってきません。
これだけの理由で高瀬露宛てだと断定できるのでしょうか。
ポラン様も仰っていますが、賢治の知人である女性は高瀬露だけではないでしょうし、
また高橋慶吾氏と知り合いである女性も
恋愛観・結婚観などを語る相手も高瀬露だけとは限らないでしょう。

これだけの理由でこの下書きを「高瀬露宛て」とするには浅薄すぎますから、
もしかすると他に決め手となった理由があるのかもしれません。
宮沢賢治全集9に掲載されている他の「文中に相手の名がないながらも
宛先が判明している下書き」には「その相手宛てとした理由」が書いてあるし、
場合によっては「必ずしも決定的ではない」等の記述もあります。
この下書きが「高瀬露宛て」と判断できた理由が他にあるならきちんと記述してあるはずです。

そう思って再び宮沢賢治全集9の「高瀬露宛て」の下書きの部分及び解説を読み返してみましたが……
「高瀬露宛て」の下書きについては、そういった記述が備考にも解説にも一切ありません。
まさか本当に上記理由のみでこの下書きを「高瀬露宛て」ものと断定してしまったのでしょうか……?

もう一つ個人的に怪しいと思うのが、手紙の相手が法華経を信仰しているという部分です。
(この点については米田利昭氏も「宮澤賢治の手紙(大修館書店)」P223で疑問を示しています)
この部分から高瀬露は「賢治の気を引くために法華経に乗り換えた」などと言われてしまいましたが、
高瀬露は19歳で花巻のバプティスト教会で洗礼を受けてから、批難や妨害などの嫌がらせにもめげず
プロテスタントからカトリックへの移行も経て、終生キリスト教への信仰を貫いています。
(このカテゴリを参照下さい)
法華経に対してはある程度の興味を持ったり理解を示したりということはあったのかもしれませんが、
信仰、つまり「乗り換える」ということはしていません。
賢治も「法華経に興味があります」「法華経も理解できます」程度のことから
法華をご信仰なさうですが」とまで飛躍したことを言わないだろうし、
また高瀬露の人柄からも「誰かの気を引くために信仰を変える」などという
浅ましい真似をするとは考えられません。

宮沢賢治全集9の解説で天沢退二郎氏は「相手の女性のイメージをも、
これまでの風評伝説の類から救い出しているように思われる。
」(P624)と仰っていますが、
この下書きによって高瀬露のイメージは救われるどころか
浅ましい真似までして未練がましく賢治を追いかける往生際の悪い女」という
さらに悪いイメージがついてしまっているような気がします。
言い換えれば、上記理由のみでこの下書きを「高瀬露宛て」とすることも
高瀬露の悪評をますます強め広げていく行為なのです。

1977(昭和52)年の校本全集出版まで公表を控えていたのも、
「高瀬露の私的事情を慮って」というより「高瀬露に口を挟ませないために
高瀬露の逝去を待って」公表したのではないかという邪推までしてしまいます。
いくらこれまで身に覚えのない悪評に対して一切の弁解をしなかった高瀬露でも、
手紙を公開され、さらにそれまで身に覚えのないものなら何がしか言ってくるでしょうから。

この下書きを「高瀬露宛て」と断定したのは上記理由のみなのか、
それとも他に「高瀬露宛て」とできる決め手となった理由があったのか、
そういったことを今からでもきちんと公表して頂きたいと思います。

最後に個人的意見を述べさせて頂きます。
前述したようにこの下書きは高瀬露の私的事情を慮って公表を控えていたということですが、
本当に慮る気があるのならこの下書きをずっと公表しないままにするでしょう。
「宛先不明」として掲載しても、「この手紙の宛先は高瀬露なのでは」と勘ぐる人や
「そうに違いない」などと書き立てる人が必ず出てくるでしょうから。

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悪評の原因について考える(6)

2008年11月03日 | 悪評の原因について
「企み」とは何か

以前このエントリで「高瀬露の悪評を書き広めることで
羅須地人協会から人が遠退いていった原因を高瀬露に被せようとする節がある」と記しました。
それをもとに、前エントリで書いた「企み」についてちょっと考えてみたいと思います。


ある日協会員のひとりが、急ぎの用事で桜へ出かけた。
が、賢治の姿はなく、内村康江(引用者注・高瀬露に冠した仮名)がひとり、放心のさまで立っていた。
「先生はおいでになりませんか」
協会員といっても、彼は農学校時代の賢治の教え子でもあったから、勇気を出して彼女に声をかけた。
「おりません」
いつも愛想の良い彼女から、ブッキラボーな返事が反ねかえった。

(略)

この人が来たおかげで、その当座は会の空気も一時パッと明るくなった。
それも事実だったが、今はこの人がここに入りびたっているおかげで、
遠慮して、会から足を遠ざけている人だっていないわけではない……

反射的に、こんなことを思い浮かべながら、その会員は帰ることにして、
ひとこと賢治へのことづてを彼女にたのみ、向きをかえようとしたとき、
彼女の後ろの戸がさっとあいて、顔を異常に興奮させた賢治がとび出してきた。
                          (儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」より)



高瀬露が「頻繁に」賢治を訪ねるようになり、他の人々が来訪を遠慮するようになった……
そのようなことをハッキリと書いているのは、当サイトで使用している悪評系資料の中では
儀府成一氏の上記引用文のみです。
(訪ねて来た協会員の考えというよりも、儀府氏の考えのような感じですが)
しかし、他の悪評系を見てもまるで高瀬露が
「羅須地人協会を訪れる人を戸惑わせ集まりを引っ掻き回している」ような書き方をしています。

高瀬露が羅須地人協会を頻繁に訪れることは不可能に近いことはこのカテゴリで書きましたので、
ここでそれを改めて述べることはやめておきます。

しかし頻繁に顔を見ようとたまに顔を合わせようと関係なしに
「女性がいる」というだけで気後れして来訪を遠慮する人も中にはいるかも知れません。
確かに高瀬露は「羅須地人協会から人を遠退かせた原因」となってしまったのでしょう。

しかし「羅須地人協会を訪れていた女性は高瀬露一人だけなのか」という疑問が湧いてきます。
来訪を遠慮してしまった人の中には高瀬露以外の女性を見た人がいるのかも知れません。
そして羅須地人協会から人が遠退いていった大きな原因は
「訪れる女性(高瀬露に限らず)の存在」より、賢治の活動計画の失敗にあると思います。
「女性がいる」ことを気にする人よりも、賢治の立てた活動計画の……
悪く言えば「とんでもなさ」についていけずに離れていった人のほうが多かったのではないでしょうか。

「羅須地人協会から人を遠退かせた原因」が全て高瀬露にあるわけではないし、
また高瀬露の存在は「羅須地人協会から人を遠退かせた原因」としては非常に些細なものなのです。

悪評系の人々はそれに気づかないまま、
「羅須地人協会から人を遠退かせたのは高瀬露のせいだ」と思い込んだのでしょうか。
もし「羅須地人協会から人を遠退かせた最大の原因は賢治自身にある」ことに気づいていたのなら、
何故高瀬露をあたかも「羅須地人協会から人が遠退いていった唯一最大の原因だ」
というように書くようなことをしたのでしょうか。

「気づいていた」ということにしてその理由を考えてみます。
賢治の「崇高な行動」である羅須地人協会から人が遠退いていった最大の原因を作ったのは
賢治自身であるなどというのは非常に「格好の悪い話」です。
それを隠して原因を「外部にある」ことにし、賢治のイメージを守るために
高瀬露という女性を利用したのではないのでしょうか。

何故高瀬露が標的になったのかというと、
良くも悪くも「訪れる女性達の中で目立つ存在」だったからではないかと思います。
高瀬露は羅須地人協会の活動に積極的に参加し、また勉強熱心で賢治の高い評価を得ましたが、
それを煙たく思う人も(高橋慶吾氏をはじめとして)いたのだと思います。
そのうちの一人である高橋慶吾氏が「羅須地人協会から人を遠退かせたのは
高瀬露のせいだ」などとする意図もなく半分軽口のつもりで流した高瀬露の悪評が
「賢治の大失敗」の隠蔽に使われてしまったのではないでしょうか。

前エントリで書いた「悪評系の企み」とはこんなことであるような気がします。
またそれはそのうちの一つで、もしかしたら他にも何かあるのかも知れません。

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悪評の原因について考える(5)

2008年10月30日 | 悪評の原因について
悪評が広まった原因・理由とは何か

高瀬露の悪評の出所は高橋慶吾氏とはいえ、彼一人がそれを広めたわけではありません。
高橋氏からその話を聞いた、私が当サイト・ブログで「悪評系」と
まとめている他の人々の手も加わり、広がっていきました。

高橋慶吾氏は後年「高瀬露が賢治の中傷をして歩いた」ことを否定しています。
何となくその話に驚き戸惑っているような様子もうかがえます。
自己顕示欲を満たすための軽口(というよりこれでは中傷の域ですが)のつもりで
高瀬露のことを話したにすぎなかったのがここまで大きくなったのに驚いたのでしょう。

鏑慎二郎氏は「火のないところに煙は立たないから……」と言っていますが、
高瀬露が賢治のもとに通っていたことや、夜遅い帰宅になってしまったことは確かに事実です。
それでも、火は火でも煙も見えないとろ火程度の火に過ぎません。
また、噂話や悪評には「火のないところに煙を立てる」というやり方だってあるのです。

代表的「悪評系」である森荘已池氏は
「後年高瀬露に会って色々話をした」と書いていますが、それは嘘でした()。
実際は羅須地人協会から帰宅する際に高瀬露の姿を見ただけで話もしていません。
男性ばかりが集っている(と思い込んでいる)羅須地人協会から
「上品な着物を着た若い女性」が帰路についているのを見て
驚いた若き日の思い出が先にあり、後に高橋慶吾氏の話を聞いて想像力を膨らまし、
それを事実と錯覚してしまったのでしょう。
もう一人の代表的「悪評系」儀府成一氏は、羅須地人協会活動時代には
賢治と面識がなかったということですから、当然高瀬露とも面識はありません。

しかしそんな話を聞き、評伝に書くのであれば
「この女性はどういう人なのか」と周囲の人に話を聞くなり
本人に会うなりして確かめてみたいと思うだろうし、
またそれを行動に移すのではないでしょうか。
森氏も儀府氏もそれをしないまま(仮名を使っているとはいえ)
高瀬露の「悪評」を書いてしまいました。

その点でもっと疑問に思うのは代表的「悪評系」の一人である関登久也氏です。
関氏は高瀬露と2回顔を合わせています。
交わした言葉は少なかったでしょうが、妻のナヲ氏は高瀬露の女学校の同級生ですから、
高瀬露と長く接しているはずのナヲ氏からそれなりに評判は聞いていたはずです。
それにもかかわらずこんな悪評を書いているのはどうしてなのでしょうか。

3人とも(それ以外の悪評系もそうですが)、
直接高瀬露が本当はどういう女性なのか確かめる機会があった、
もしくは機会を持とうと思えば出来たにもかかわらず
それすらしようとせず、高瀬露の悪評をどんどん広めていったことに疑問が残ります。
それはただの怠慢だったのか、何か「企み」があってのことだったのでしょうか。

後者だとすれば真っ先に考えられるのが「賢治聖人化」ですが、
それならば他人を悪役に仕立て上げなくても
賢治の美しいエピソードをたくさん書けば済むことでしょう。
では、それとも他に何か「企み」があったのでしょうか。

儀府氏は完全に前者の雰囲気がありますが、森氏は前者なのか後者なのか見えにくいです。
もっと分からないのが関氏です。関氏は後者の色が濃いような感じですが、
その「企み」が何だか分からないだけに少し不気味な感じがします。

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悪評の原因について考える(4)

2008年10月25日 | 悪評の原因について
悪評が出た原因とは何か

幾度も書いて来たことですが、高瀬露の悪評の出所は高橋慶吾氏です。
では、なぜ高橋氏は高瀬露の悪評を流すなどということをしたのでしょうか。
理想主義者だが足が地についておらず自己顕示欲が強い高橋氏の性格と、
後輩や若い人には、先輩としての義務観から忠告や注意をして
誤解されるようなこともあった
」という
高瀬露の一面がその理由の鍵を握っている気がします。

つまり、高橋氏も高瀬露の忠告や注意を受けて
高瀬露を誤解してしまった一人なのではないでしょうか。
高瀬露が高橋氏に忠告や注意をするようなことといえば、
教会通いのことと、おそらく生活態度でしょう。

誤解されてしまうような忠告や注意の仕方といえば
相手の細かいことにまであれこれと口を出してしまうようなやり方です。
悪く言えば「おせっかい」です。普通の人でさえ煩わしく思ってしまいます。
まして高橋氏のような性格を持つ人なら
そのような忠告・注意をする人をことさらに煩わしく思うことでしょう。
相手が女性であれば(年上であるとはいえ)それは尚更のことです。
教会通いの縁で顔を合わせていくうちに、高橋氏にとっての高瀬露は
「ちょっと煙たい人」から「あれこれと口うるさい、鬱陶しい腹立たしい女」に
変わっていったのではないでしょうか。

高橋氏が高瀬露の悪評を話し始めたのも、
「腹の立つ女だからちょっと悪く言ってやれ」
なんていう程度の考えだったのではないかと思います。
「俺は賢治先生のことを何でも知っているんだぞ」という
自己顕示欲を満たすために高瀬露を利用したような感じもします。
高橋氏は最後に「然し女(引用者注・高瀬露のこと)も可哀想なところもあるな
と話しています()が、これは高瀬露をフォローするというよりも
ただ単に、俗に言う「ええかっこしい」な考えから出た言葉のような気がします。

とはいえ、……許せるものではありませんが
高橋慶吾氏はあくまでも高瀬露を「悪女」にする気はなく
「ちょっと勘違いした困った人」で済ませようと考えていたのではないでしょうか。

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悪評の原因について考える(3)

2008年10月24日 | 悪評の原因について
悪評の出方・伝わり方

このカテゴリの最初のエントリでも引用した上田哲氏の論文をもう一度ここに引用します。
それを元に悪評の出方・流れ方について考えたいと思います。

そのこと(引用者注・高瀬露の愚行やそれに対する賢治の行動などに
数々の疑問点や矛盾点が出てくること)を古くからの賢治研究家である鏑慎二郎に話したところ、
わたしもあなたと同じような疑問をもっていました。どうもこの話は作り話臭いところがあります。
火のないところに煙は立たないから全部否定はしませんがといって次のようなことを語ってくれた。

 昔、田舎は娯楽が乏しかったので男と女の間のことについての噂話は大きな娯楽でした。
 それほどのことでない話も村中をまわりまわっているうちに
 拡大され野卑な尾鰭背鰭がいくつもついてバトンタッチ毎に変形されるから
 元は一つの話でもあきられず村中を何回もまわることがあります。
 高瀬露が賢治のところをしばしば訪ねていたとしたら、
 こういう噂話の好きな人々の間では恰好の材料だっただろう。

 (中略)

 ただ、田舎におけるこの種の話は直接的でいくら尾鰭がついても基本的には、単純な構成であるのに
 賢治と露の話はストリー性があるんです。それから田舎のこういう噂話は大体、
 村や部落の範囲をめぐっているだけなのに賢治と露の話の場合は、
 間を飛んで町の方しかも賢治にかかわりをもつ人々の住む町に伝わっているんです。
 この噂話は、田舎の人が作ったのではなく……
 あるいは田舎の人でも都会生活の経験者が作ったのかも知れない。

 また、伝わり方も誰かあやつっている人がいるような気もする。

このような内容であった。現代的にいえば何者かがシナリオを作り、
意図的な情報操作が行なわれていたようだという指摘である。
      (上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―」より)



「話を作ったのもストーリー性のある尾ひれを付けたのも
それを伝えたのも高橋慶吾氏」と考えがちですが、
高橋氏が座談会で語っていることはよく読んでみれば
「単純な構成に単純な尾ひれがついた程度の話」です。

1930(昭和5)年、関登久也氏の母親は訪ねて来た高瀬露の姿を見て怒り、
関氏も「女といふのははかなきもの也」と高瀬露を蔑んだような言葉を日記に記しています。()
この時点で既に関氏とその母親は高瀬露の悪評を信じ込んでしまっていました。
つまり、それ以前から高瀬露の悪評を聞いていたということになります。

しかし賢治に関わりを持つ人々の住む町に伝わったのは
「単純な構成に単純な尾ひれがついた程度の話」であり、
ストーリー性のある尾ひれが付いたのはそれからずっと後のことと考えるべきでしょう。
前に述べたように人は悪い噂をすぐ信じてしまうものですから、
「毎日賢治の元に通いつめた・夜遅くまで居座ることもあった・女房気取りでライスカレーを作った」
などという単純な構成に単純な尾ひれの付いた話だけでも充分です。
関登久也氏が著書で語っていることもよく読んでみれば
「単純な構成に単純な尾ひれがついた程度の話」なのです。

ストーリー性のある尾ひれを作ったのは都会出身者か
都会生活を経験した地方出身者
ということですが、
それに当てはまるのは1926(大正15)年に東京外国語学校ロシア語科に入学しやがて中退、
1928(昭和3)年岩手日報社に入社したという森荘已池氏のみです。
森氏の東京生活はおよそ1~2年ほど。著書の時系列的に考えても森氏があてはまります。
また他にも「賢治と高瀬露の話を聞いたことのある都会者・都会生活経験者」が
陰に潜んでいたのかもしれません。
儀府成一氏はプロフィールに都会生活をしたという記述が見当たりませんし、
これまでの悪評を聞いたままに書いたという印象がありますので除外すべきでしょう。

では、その話はどのようにして町まで伝わって行ったのでしょうか。
羅須地人協会の周りに住む農民たちもそれなりに賢治と高瀬露の噂話をしていたとは思いますが、
鏑慎二郎氏が指摘するところによると、羅須地人協会の周辺から
間を飛んで町の方へと伝わっている
ということです。
該当するのは、「羅須地人協会と町を何度も行き来する人」ということになります。
ここでも真っ先に頭に浮かぶのは高橋慶吾氏ですが、鏑氏の話によれば
高橋氏はその人柄からあまり知人から信用されていなかったとのこと、
また前エントリで頂いたコメントによると高橋氏は賢治の弟宮沢清六氏にも
信用されていなかったことが伺えます。
(コメントを下さいました三島様には厚くお礼申し上げます。)
それならば関登久也氏も高橋氏をあまり信用はしていなかったのではないでしょうか。

そんな人がこんな話をすれば、今風に言えば「スルー」されて消えて行ってしまうはずです。
なのに残ってしまい、関氏は高瀬露を「はかなきもの」として実際に辛く当たっています。
それはなぜなのでしょうか。考えられるのは以下の点です。

・関登久也氏が羅須地人協会を訪ねた際に
 その噂話(高橋氏ではなく地元の農民たちが話している)を耳にし、高瀬露の姿も目にした
・高橋慶吾氏→高橋氏をあまり知らず、関家・宮沢家から信用されている誰か→関家・宮沢家


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悪評の原因について考える(2)

2008年10月01日 | 悪評の原因について
高橋慶吾という人物

まずは、高橋慶吾氏という人物についてみてみたいと思います。
高橋氏のプロフィールを以下に引用します。


明治39年(1906)12月28日~昭和53年(1978)4月23日
江刺郡稲瀬村出身。父は稲瀬村や花巻川口町などの養蚕教師や麦作指導を通じて賢治を知っていた。
父は慶吾の将来を案じ、農耕自炊中の賢治を訪問させた。
以後羅須地人協会に出入りし、楽団でヴァイオリンを弾いたりした。
賢治は高橋の職を心配し、昭和2年レコード交換会を開かせた。
3年には共済組合を組織し、さらに消費組合とした。
のち、この事業のうちの牛乳販売を続けたが戦時中は休業。戦後は豆腐製造業。
少年時からキリスト教信者だったが、賢治の影響により仏教を信仰、
昭和43年出家、慶雲と号し無寺托鉢の生活を送った。家で賢治遺墨店を開いた。
              (江刺ルネッサンス・賢治に関わりのある人々より)



太字下線部「少年時よりキリスト教信者だった」ということは、
上記資料以外にも宮沢賢治全集や数々の賢治評伝本でも書かれています。
しかし、その点を上田哲氏は以下のように指摘しています。


『校本宮沢賢治全集』(第十三巻書簡)の「受信人索引(付・略歴)」の「高橋慶吾」の項に
<少年時よりキリスト教信者だったが>と記載されているが誤りである。
花巻のバプテスト教会の在籍名簿には会員としての記録はない。
高橋は東京に一時行っていた時期があり、その時他のプロテスタント教派で受洗して、
花巻には自分の所属教派の教会がない場合客員会員として
バプテスト教会に所属したことも考えられるので調べたが、その記録もない。


実は、花巻地方は保守的、世俗的気風の強い土地柄で中々キリスト教が定着しなかった。

(中略)

花巻のバプテイスト教会が巡回教会から独立した教会として定着するのは
一九三〇年ごろでその基礎作りをしたのは林文太郎牧師、阿部治三郎牧師である。
高橋慶吾が出入りし、高瀬露が洗礼を受けたのは佐藤卯右衛門の巡回教会時代である。
ただ日本社会の一般的な道徳観にくらべかなり厳しいキリスト教倫理を受け容れ、
イエスを受肉せる神子キリストと福音的信仰告白をして受洗に至る者は少なかった。
高橋慶吾も信仰には至らないで教会を離れていったのである。
 (上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―」より)



花巻におけるキリスト教伝道は入っては撤退の繰り返しだったようで、
大正デモクラシーの気運に乗った若者たちが集うことでやっと定着していったということです。
詳細はこちらをご覧下さい。
そんな状態ですから高橋慶吾氏が「少年時」からキリスト教徒だったとは考えにくいです。

では、高橋慶吾氏の人となりはどうだったのでしょうか。
上田哲氏の論文から引用します。


高橋慶吾を戦前から知っている、
第一次『イーハトーヴォ』以来の菊池曉輝主宰の「宮沢賢治の会」の会員で
『農民芸術』その他に賢治についてのエッセイを寄せている鏑慎二郎は、
あの人は、新しいことが好きで理想主義者だが、足が地についていない感じもしました。」と語った。
職業も転々としていたこともあって鏑だけでなく彼を知る人は余り信用していなかったようである。
ある時期賢治の高弟を自称していて一部では反感も持たれていたという。
 (上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―」より)



先に引用したプロフィールを見ると、大変失礼ですが
「この人は結局何がしたかったんだろう」という印象を抱いてしまいます。
足が地についていないだけでなく自分のしたいことのビジョンもしっかり定められず、
また自己顕示欲の強い人のようにも見えます。
多少軽薄な印象さえ抱いてしまいます。
今風に言えば、「よく大風呂敷を広げるフリーター」といった感じでしょうか。
控え目な性格で自分を律するのに厳しく、小学校教諭を定年まで勤め上げた高瀬露とは対照的な人柄です。
高瀬露はともかく、高橋氏は高瀬露を少し煙たく思っていたのではないでしょうか。
そんな高橋氏がキリスト教とも相容れず、教会を離れていったのも分かる気がします。

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悪評の原因について考える(1)

2008年09月29日 | 悪評の原因について
「七尾論叢」11号の上田哲氏の論文は残念ながら未完のまま掲載されており、
ライスカレー事件の有無同様、何故このような悪評を流されたかについての
検証や考察はなされないままとなってしまいました。

上田氏の論文及び小倉豊文氏の「雨ニモマケズ手帳新考」を読んでいくと、
悪評の出所は全て高橋慶吾という人物に行き着きます。
高橋慶吾氏からの情報が関登久也氏、森荘已池氏、儀府成一氏に渡り、
尾鰭が付いて行ったことはこれまでも述べてきました。

キリスト教という縁で高瀬露と知り合い賢治と高瀬露の縁をつないだ張本人、
そして高瀬露の悪評の出所である高橋慶吾氏は、
高瀬露に私怨でも抱いているんじゃないかと邪推してしまうくらいに、
高瀬露の「愚行」を得意げに語っているように見えます。
その高橋慶吾氏という人物はどういう人なのでしょうか。

また、

そのこと(引用者注・高瀬露の愚行やそれに対する賢治の行動などに
数々の疑問点や矛盾点が出てくること)を古くからの賢治研究家である鏑慎二郎に話したところ、
わたしもあなたと同じような疑問をもっていました。どうもこの話は作り話臭いところがあります。
火のないところに煙は立たないから全部否定はしませんがといって次のようなことを語ってくれた。

 昔、田舎は娯楽が乏しかったので男と女の間のことについての噂話は大きな娯楽でした。
 それほどのことでない話も村中をまわりまわっているうちに拡大され
 野卑な尾鰭背鰭がいくつもついてバトンタッチ毎に変形されるから
 元は一つの話でもあきられず村中を何回もまわることがあります。
 高瀬露が賢治のところをしばしば訪ねていたとしたら、
 こういう噂話の好きな人々の間では恰好の材料だっただろう。

 (中略)

 ただ、田舎におけるこの種の話は直接的でいくら尾鰭がついても
 基本的には、単純な構成であるのに賢治と露の話はストリー性があるんです。
 それから田舎のこういう噂話は大体、村や部落の範囲をめぐっているだけなのに
 賢治と露の話の場合は、間を飛んで町の方しかも
 賢治にかかわりをもつ人々の住む町に伝わっているんです。
 この噂話は、田舎の人が作ったのではなく……
 あるいは田舎の人でも都会生活の経験者が作ったのかも知れない。
 また、伝わり方も誰かあやつっている人がいるような気もする。

このような内容であった。現代的にいえば何者かがシナリオを作り、
意図的な情報操作が行なわれていたようだという指摘である。
    (上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―」より)


という指摘のように、悪評の内容・伝わり方にも不可解な点があります。
また、非常に興味深いのが上田氏の論文に掲載されている、
高瀬露の娘の幼馴染みであるE.K氏の
後輩や若い人には、先輩としての義務観から忠告や注意をして
誤解されるようなこともあった
」という証言です。
高瀬露の悪評の原因は、彼女のこういう一面が鍵になっているような気がします。

まずは高橋慶吾氏という人物を見ていき、
それから悪評の出た原因や悪評が広がってしまった原因を考えていきたいと思います。
ただ、手元にある資料のみを元にした私の推測が多分に含まれてしまうので
「きちんとした検証」とは言えないものであることを先にお断りしておきます。

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おひるねこ

2008年08月25日 | ひとやすみ
申し訳ありません、油断するとすぐ空白期間を作ってしまう

ほんの少し前まで何もしたくなくなるような暑さだったのに
最近はうってかわって涼しくなりましたね。
皆様もお体には十分お気をつけ下さいませ。

次回は「高瀬露の悪評の原因」について考えて行きたいと思います。

エントリが上がるまで、某神社の手水場で撮影した
お昼寝ねこさんの写真を眺めながらお待ち下さいませ


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「中傷行為」伝説について考える(9)

2008年07月29日 | 「中傷行為」について
まとめ?と個人的意見・2

理解できないのは、こんなひどい噂を花巻どころか全国区まで広められたというのに、
高瀬露は「事実でない事が語り継がれている」と言っただけで何の弁明もしなかったことです。
賢治でさえ、最初は黙っていてもとうとう関登久也氏に了解を求めに行ったくらいです。
どんなに度量のある人でも、身に覚えのないことを言われれば
弁明の一つもしたくなるのが普通です。

それについて上田哲氏は「これは彼女がキリスト者であったことによるのかもしれない。
肉体的苦痛はもちろん、貧窮、迫害、誹謗などを自分の十字架としてにない、
キリストの十字架の御苦に合わせ献げるため甘受するといった考え方が昔の信者にはあった。
また、どうしてこのようなうわさを流布されるようになったかを話せば
傷つく人のあることも考えていたようである。
」と述べています()。
それと共に「意見が違っても逆らわない方だった」という評判もあります()。
自分の名誉を守るために、宮沢家や関登久也氏、森荘已池氏、儀府成一氏らと
場合によっては泥沼化も考えられるような争いをすることは望まなかったのでしょう。

そういう高瀬露の意向に私が口を挟む権利はありませんが、
私自身は、それでも「ないものはない」と主張してほしかったと思っています。
ただ賢治のもとに学びに行き、賢治にかすかな恋慕の感情を抱いたかも知れないというだけで
そこまで貶められる筋合いはないのですから。

推測と憶測のみでこのようなことを書き、広めた関氏、森氏、儀府氏、
そしてそれを鵜呑みに信じ続け半世紀に渡って広め続けている
数々の賢治研究家たちのその行いこそ高瀬露を中傷する行為であり、
本当なら彼ら(高瀬露の中傷行為を否定していたとはいえ、
高橋慶吾氏もその一人であることは言うまでもありません)を
責めてもいい立場であるはずの高瀬露が
多くを語らないことで彼らを庇っているかたちになっているのです。

すでに鬼籍に入られている関氏、森氏はともかく
儀府氏(失礼ながら、まだご存命なのでしょうか?)、
そして今もなおこの話を鵜呑みにしている賢治研究家たちは
高瀬露の懐の深さに救われているということを忘れないでほしいと思います。

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「中傷行為」伝説について考える(8)

2008年07月28日 | 「中傷行為」について
まとめ?と個人的意見・1

あまりにも個人的な考えであり、かつ願望も入っていることをお断りして
私自身の中傷行為の有無を述べたいと思います。

私は高瀬露は賢治の中傷などしていないと考えます。
上田氏の述べるような状況的理由については地図や年譜をを見れば一目瞭然です。

悪評系は、賢治が昭和6年頃手帳に記した「聖女のさましてちかづけるもの」 ()を
「高瀬露の中傷行為」が現実にあった証拠のひとつとしていますが、どうなのでしょう。

「聖女のさましてちかづけるもの」が本当に高瀬露を指しているのかさえ
はっきりと分かりませんが、賢治は「自分の中傷をしている女がいる」という情報を
耳にしていると考えられています()から、そうであると仮定します。
(こんなことを言うと、「ヒドリ問題」みたいなトンデモ意見にされてしまいそうですが)
そうであるとしたら、この詩は単なる被害妄想の産物にすぎないと思います。
賢治は実際に高瀬露が中傷行為をしているところを目撃したわけでもなく、
また確認をとったわけでもないのですから。

また、高瀬露の(こういう事件を知らない)周囲の人の証言や
彼女のその後の行動について考えてみても「白」と言えるのでないでしょうか。
10年前後の時間が経過しているとはいえ、中傷までして憎んだ賢治を讃えるような短歌を作ったり、
積極的に賢治を偲ぶ集まりなどを開催するでしょうか。
また、このエントリでも書きましたが、
相手の心が自分の思い通りにならなかったと相手の悪口を言いふらすような人が、
教え子やその親、そして周囲の人たちに長く慕われるとは思えません。
それに、他人と自分を比べて嫉妬し、賢治の心情を邪推し悪口を言いふらすなど
誇り高く自分を律するのに厳し」く、「不正やいい加減が大嫌いだが、
他人の悪口や批判を決して口にしな
」い
高瀬露が一番嫌う行いではないでしょうか。

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「中傷行為」伝説について考える(7)

2008年07月27日 | 「中傷行為」について
中傷伝説の正体?

前エントリでは、新たに出て来たこの問題の疑問は、

・高瀬露の中傷行為について、断定調で語っているのは関登久也氏のみ

ということであり、

・1930(昭和5)年10月初めに、高瀬露が関宅を二度訪れたという出来事

にその鍵がありそうだと述べました。

まずは、関氏の日記の内容を引用します。


昭和5年10月4日
「夜、高瀬露子(露のこと)氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話。女といふのははかなきもの也」

昭和5年10月6日
「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」
()

なぜ高瀬露は賢治からもらった本を返しに直接賢治・宮沢家を訪ねず、関家に来たのでしょうか。
前述した通りあれだけの押し掛け行為や好意の押し付けを平気で出来るような人なら、
わざわざ関家へ行かず、堂々と宮沢家に行くことも出来たでしょう。
そのことも絡めながら、日記の記述をもとに「中傷行為」の正体について考えて行こうと思います。

10月4日の件について。
賢治の実家及び親戚では高瀬露は良く思われてないでしょうから、
高瀬露の顔を見て関氏の母親が「あなた何しに来たの!」と怒るのも無理はないことでしょう。
しかし、怒られても抜け抜けと「私、宮沢先生と結婚します」なんて言えるでしょうか。
いや、あれだけの押し掛け行為や好意の押し付けを平気で出来るような人……
ひどい言い方をすれば「面の皮の厚い人」ならそれも出来るでしょう。
それよりも、このエントリでも述べたように、
宮沢家にではなく関家に来てそういう話をするというほうが不自然です。

「結婚話」というのは、賢治とではなく小笠原牧夫氏とのことではないのでしょうか。
挙式の日(昭和7年4月7日)を考えてもそれが自然な気がします。
もしかすると高瀬露は、この日関家に来たのは関氏ではなくナヲ氏と話をするためであり、
その内容は小笠原氏との結婚を決心したということだった、
しかし「結婚を決めました」とだけ発言しその相手が小笠原氏であることを
ナヲ氏はそれを知っていた、などの理由で省いてしまったのではないでしょうか。
それを聞いた関氏は……「女といふのははかなきもの也」という記述にも見られるように
高瀬露のことを「怒られても抜け抜けと賢治との結婚話が出来る面の皮の厚い女」
と思っているでしょうから、この話を「賢治とのこと」と思い込んでしまった。
あのように記述したのではないかと思います。

10月6日に本を返しに来たというのは、賢治との結婚を諦めたというより
小笠原氏に嫁ぐに伴い花巻を離れることになる、そして何より、
自分が宮沢家に来ることで賢治に迷惑をかけてしまうことを考えての
行動にすぎなかったのではないかと思います。
怒られても「私は宮沢先生と結婚します」などと言えるほど面の皮の厚い人が
たった2日で諦めるなんて、ちょっと変ではありませんか。
「宮沢先生と結婚します」と発言したら「ふざけないでよ!」と怒られので諦めた、
というのならまだ自然ですし、そうなると日記の記述は
「夜、高瀬露子(露のこと)氏来宅の際、露子氏宮沢氏との結婚話。母来り怒る。……」
となるでしょう。日記は出来事の順に記すのが普通ですから。

その際……4日か6日のどちらかで高瀬露は賢治とのことを話したのではないか、
その中には多少愚痴のようなものも含まれていたのではないでしょうか。
それに関氏が過剰反応して「悪口・中傷」と受け取り、
後に著書でそう記すこととなったのではないでしょうか。

小倉豊文氏が聞いたという関夫人ナヲ氏の証言というのも、
「そういえば、確かに露子さん賢さんのことをちょっと話してましたね」
程度のものにすぎなかったのではないかと思います。

ところで、この日記が「賢治と高瀬露の間に結婚話があった」ことの証拠となると言われていますが、
私はこのエントリに書いたことを理由に、その説を否定します。

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「中傷行為」伝説について考える(6)

2008年07月26日 | 「中傷行為」について
3.他の目撃者が現れない

では、その中傷はどのように伝わったのでしょうか。
森荘已池氏、儀府成一氏の文章では
あちらこちらに賢治の悪口を言いふらして回ったように書かれてあります。
関登久也氏は「(高瀬露が)賢治の中傷ををしていた」と断定調で言っており、
その妻ナヲ氏も下記引用文にあるようにその話をしていたようです。


 (略)
 その結果高瀬女史は賢治の悪口を言うようになったのであろう
 この点、高橋(引用者注・高橋慶吾氏のこと)否定していたが、
 私は関登久也夫人(賢治の妹シゲの夫岩田豊蔵の実妹ナヲ)から直接きいており、
 賢治が珍しくもこの件について釈明に来たことも関から直接きいている。
                (小倉豊文「宮沢賢治「雨ニモ負ケズ手帳」研究」より)




小倉豊文氏は、「彼らが話したから確実だ」と言いたげに書いていますが、
賢治側に立ちがちな親族のみの証言ではむしろ信憑性に欠けるでしょう。
賢治と高瀬露の「ゴタゴタ」を知らない人々からもそれを聞くべきです。
このエントリでも述べたように人というのは悪い噂をすぐに信じる癖があり、
また悪い噂というものは広まるのが早いものです。
そういう話が本当にあったのであれば「そんな話を聞いた」という人が
賢治と関わりのない人々からももっと沢山出てくるはずです。
そういう人々からのそういう話を出さないというのはおかしな話です。
それとも、そんな話は知らないという人が多くいたのに
それを隠しているということなのでしょうか。

また、あちらこちらに中傷して回ったというなら、
それぞれに「誤解のないよう了解を求めに行」くはずですが、
なぜ賢治は関氏だけにそのような話をしに行ったのでしょうか。

繰り返してしまいますが、この出来事を断定調で書いているのは関氏一人です。
また、この出来事について「見た、聞いた」という証言も
関氏と妻のナヲ氏のものしかありません。
高瀬露の「愚行」についての唯一の情報提供者である高橋慶吾氏ですら
この「中傷行為」を否定しているのです。
全ての真実を知っているのは、関氏だけのように見えます。

このエントリでも述べた、1930(昭和5)年10月の
二回にわたる高瀬露の関家来訪にその鍵があるように思えます。
次エントリでそれを考えたいと思います。

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