宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

第二章 <仮説:露は聖女だった>定立

2014年03月01日 | 『賢治と高瀬露』
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
明らかにできたとなど
鈴木 さて、これで露に関して今まで明らかになっていなかったいくつかの事柄を明らかにできた気がするので、今までのことを一応まとめてみるか。
荒木 おぉ、そうしてみるべ。
鈴木 ではまいりましょう。主なところは以下のようなもとなる。
(1) 露の生家のあった場所確定
 賢治が〔同心町の夜明け方〕という詩において「向ふの坂の下り口」と詠っていたまさしくその「坂の下り口」に高瀬露の生家があった。
(2) 露の当時の勤務校の場所確定
 露が勤務した寶閑小学校は湯口村鍋倉字十地割七番(現「山居公民館」の近く)にあった。
(3) 露の下宿先と下宿の仕方確定
 露は、当時“西野中のTさん”のお家(現「鍋倉ふれあい交流センター」の近く)に下宿していたと教え子KTさんが証言。
 寶閑小学校は街から遠いので先生方は皆その“西野中のTさん”のお家に下宿した。ただしその下宿では賄いがつかなかったから縁側にコンロを出して自炊していたと、そのTさんの隣家のおばあちゃんTFさんが証言。

検証不十分だったM
荒木 つまりMは検証もせずに、単なる噂話程度を基にして想像力を駆使して、たとえば
 彼女は…一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。
と記述した可能性が極めて高いことになった。
 さてそうなってしまうと、この記述を含む
…どうやら彼女の思慕と恋情とは焔のように燃えつのって、そのために彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。
にどれだけの真実が含まれているというのだろうかということが危惧される。ひいては「昭和六年七月七日の日記」そのものの信憑性も薄まってしまった、と言わざるを得ない。
鈴木 しかも、以前私が「措いてもらって」と言ったことについてなのだが、え~とだな、「露は当時自炊をしながら下宿していた」ということも判っているから、これらの事実は著者が検証した上で「昭和六年七月七日の日記」を書いたのではないということを証左すると私は思うのだ……
荒木 …話しが見えねぇぞ。
鈴木 ……。
吉田 それはさ、鈴木にしてみれば言いづらいのさ。「昭和六年七月七日の日記」の著者M(実際は、吉田は以下実名を用いて話している)について、その名前を顕わに言ったり、Mのことを論うことになったりすることを躊躇っているからだろ。僕が代わりにまとめてやろう。僕ははっきり名指ししながら言うよ。
 こうだ。
 Mは、「昭和六年七月七日の日記」の中に記している
 彼女は…一日に二回も三回も遠いところをやってきたりするようになった。……◆
については、自分が調べてみようとしたならば当時なら比較的容易に調べることができたはずだ。ところがMは何ら裏も取っていないし検証もしていないことが今までの僕等の調べでほぼわかった。
 それは同じく「昭和六年七月七日の日記」の中に著されている、
 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家も借りてあり、世帯道具もととのえてその家に迎え、今すぐにも結婚生活を始められるように、たのしく生活を設計していた。………★
についても同様だ。それは先に僕たちが検証してみた結果、真実がどうであったかはほぼ明らかにできたからだ。
 したがって、“◆”や“★”についてはMが直接自分の足で裏付けをとったとか、取材して検証したとかという代物ではないと言えるだろう。しかも、いずれもその内容はほぼ事実とは言い難い。そうすると自ずからこれらをそれぞれ含む文章全体だってその信憑性はかなり薄いと言わざるを得ない。
とを鈴木は言いたいんだよ。そして、おそらくその当時広まっていた興味本位にでっち上げられた噂話をそのまま活字にした程度のもに過ぎない、と指弾したいのさ。
荒木 つまるところ、Mは検証不十分だったということか。

ちょっと思考実験
鈴木 まあそんなところだ。
 では次は思考実験をしてみようじゃないか。そうすれば、今まで以上にその真相が見えてくるはずだから。
荒木 おぉ、また鈴木の好きな例の実験だな。
鈴木 じゃ始めるぞ。露の教え子のKTさんの言うとおりで、露は当時“西野中のTさんのお家”に下宿していた。そしてその下宿は賄いがつかないから露は自炊せねばならなかった。だから、露は寝具のみならずコンロなどの炊事道具などを含む生活用具一式を用意して下宿せねばならなかった。
 そこで、露が「学校のある村」すなわち湯口村の寶閑小学校に勤めることになった際に下宿したことが、端から見ればまさしく
 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家も借りてあり、世帯道具もととのえ………☆
たと見えたのだろう。
吉田 ところが、賢治と露との交際が下根子桜の人達やその周辺の人達の間にはある程度知られていたようだから、そのような人達がこの露の下宿の仕方とを結びつけて面白おかしくするために尾ひれを付けて下世話な噂話に作り上げ、それが周辺に広まったというあたりだろう。
 だから、この著者Mがちゃんと裏付けを取るとか、検証したのであればこんな「昭和六年七月七日の日記」の書き方は出来なかったはずだ。
荒木 そうか、物書きならば当然せねばならぬことをこの著者Mはしたのか、はたして検証した上で書いたのかということが問われている訳だ。
 そう言われてみれば、露の下宿から下根子桜の賢治の許に来ようとすれば、電車の乗り継ぎがうまくいったとしても片道約2時間がかかる。往復すれば4時間だ。そこで、もし「一日に二回も三回も遠いところをやってきた」というのならば、少なくともその往復だけでも“三回”なら約12時間、“二回”にしたって約8時間かかる。
 まして、いいか先程の《表1 花巻温泉電氣鉄道鉛線列車時刻表》を見てくれ、その際に乗ったであろう「ふたつぜき駅」の始発発時刻は5:44、そして「にしこうえん駅」の終電発時刻は8:22だから、小学校勤務の露が「一日に二回も三回も遠いところをやってきた」などということはまずあり得ない。また、仮にそんなことができたとしても、賢治の許に一体何時間いて何ができたというのか。
 こんなことは、当時であれば比較的容易に調べることができて、それがあり得ないことことなどは直ぐ判ったはずだ。
 となれば、この「昭和六年七月七日の日記」の中の露に関する重要な記述の中には、事実からはかけ離れている点が実際に複数個あることを俺たちは明らかにできたから、もはやこの「昭和六年七月七日の日記」を安易に文献としては使うことは許されない。
吉田 おっ、荒木もいつの間にか厳しいことを言うようになったな、流石鉄道マニアだ。でもそう、そういうこと。ひどい話だよ、まったく。いままでなぜこのことを多くの賢治研究家は看過してきたのかと僕は声を大にして言いたいよ。上田哲以外で、そのようなことを真剣に取り組んだ賢治研究者は殆どいなかったはずだ。
鈴木 一方、注意深く見てみると次のようなことも言えると思う。“★”の書き方はそのいずれの事項も断定調で書いている。伝聞したものであるという表現ではない。しかし、この内容は当時露は下宿で自炊せねばならなかったので“☆”と見えただけのことであり事実ではないことはもはやほぼ明らか。十分な裏付けもとらず検証もしていないMに許されることは、せいぜい伝聞したものであるという表現までである。
吉田 ちょっと同じようなことの繰り返しになるが、Mはそれがあたかも事実であったが如き断定調で多くを書いているということは、「昭和六年七月七日の日記」の他の部分だって同様に取材も検証もなしに口さがない人達の語っていた単なる噂話などをそのまま活字にしたものであったり、あるいはまた著者Mの想像力が書かしめたりしたものである、といったことがこの観点からも窺える訳だ。
荒木 つまるところ、「昭和六年七月七日の日記」における高瀬露の記述に関してはどこまでが真実だったのか、それがかなり危ぶまれるということか。
 そうすると、あのGの「やさしい悪魔」だって同様であったということかもしれんぞ。
鈴木 あるいはM以上に輪をかけて…。
吉田 だからそそそろ、それらを参考文献として使ってきたという過去の事実に対して私たちは反省せねばならない時機に来たということだよ。
鈴木 となれば当然、少なくともその償いもしなければならない。
荒木 それじゃ、俺たちもせめてできることをやってみるべ。

「「宮澤賢治伝」の再検証(二)」より
鈴木 そのためには先ず上田哲のこの論文「「宮澤賢治伝」の再検証(二)」を見てみる必要がある。
荒木 そもそも上田哲はこの論文に「<悪女>にされた高瀬露」というサブタイトルを付けているくらいだから、上田は「露伝説」に疑問を抱いているわけだよな。俺はまだ同論文を精読していないので、ここまでに引用してきた部分以外で、この「疑問」に関わって俺たちがチェックをしておく必要のある個所はどの辺なのかを教えてくれないか。
鈴木 よし、それじゃ頁順に見ていこう。
 先ずは、上田はこの伝説について
(1) 露の<悪女>ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。多くの本や論考にも取上げられ周知のことなので詳しく記述は必要でないように思われるが、この話はかなり歪められて伝わっており、不思議なことに、多くの人は、これらの話を何らの検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け容れ、いわば欠席裁判的に彼女を悪女と断罪しているのである。賢治もまた、彼の耳に入る誤伝に基いて彼女をさけ、確かめもせずに彼女に対応したと思われる節も感じられる。
                       <同論文1pより>
と、その扱い方の不備を指摘し、不満を呈しているところかな。
荒木 つまり、この伝説は戦前から流布していたが、それは歪めらたものであり、検証も一切なされていないし、情報も一方だけに偏ったアンフェアな扱い方をしている、と上田は見ているということか。
鈴木 次が、これは私も頗る問題を孕んでいると思っていることなのだが、
(2) 小学校教員をしている女の人と森荘已池が書いているのは、高瀬露のことである。この女性の本名が明らかにされたのは校本全集第十四巻(一九七七年刊)所収の堀尾青史執筆の年譜がはじめていわれている。
                       <同論文6pより>
という個所だ。
荒木 ということは、1977年(昭和52年)までは伝説が流布してはいたもののその女性の名前は公的には明らかにされていなかったが、その実名を『校本全集』が白日の下にさらした、ということか。
鈴木 それから、これは極めて重要な証言なのだが、
(3) 「露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。露さんは賢治の名を出すときは必ず先生と敬称を付け、敬愛の心が顔に表われているのが感じられた」
                       <同論文10pより>
と、下根子桜を訪ねていた期間を直接露から聞いたという菊池映一氏の証言だ。
荒木 そうか、この証言に従うとすれば、露の下根子桜訪問期間は大正15年秋~昭和2年の夏迄ということになるのか。
鈴木 それからMは「昭和六年七月七日の日記」の中で、露のことについて微に入り細に入り述べているが
(4) Mは、高瀬露に逢ったのは<一九二八年の秋の日><下根子を訪ねた>(注 下根子とは、賢治の羅須地人協会である)その時、彼女と一度会ったのが初めの最後であった。その後一度もあっていないことは直接わたしは、同氏から聞いている。
                        <同論文14pより>
ということであり、…
荒木 何っ! Mはたった一回きりしか露に会ってなかったのか。
鈴木 実はそれも、下根子桜の別宅に行く途中の道でMは露とすれ違っただけだ。会ったといってもその程度の会い方にしか過ぎない。実際そのことを、さきほどの続きにM自身が書いている。
荒木 な~んだ、それであればMは露からは取材していないのと同じじゃないか。
吉田 しかもこのMは一方で、『ふれあいの人々 宮澤賢治』の中に、
 この女の人が、ずっと後年結婚して、何人もの子持ちになってから会って、いろいろの話を聞き、本に書いた。この人の娘さんが、亡き母の知人に「古い日記に母が『宮沢賢治は、私の愛人』と書いております」と話したという。
                       <『ふれあいの人々 宮澤賢治』17pより>
と書いている。
荒木 えっ、こちらは「会って、いろいろの話を聞き」だって、一体どうなってるんだ。Mの言と上田の言とでは全く矛盾してるべ。
吉田 なあに、今までの経緯を思い返せばどっちが嘘を言っているかは明らかだろう。
鈴木 そう、いま荒木が心の中で思ったとおりだ。何っ、わかるのか?だって。当たり前だ、荒木の表情をみればすぐにわかるよ、長い付き合いだろうに。
 では話しを元に戻そう。次はあのGに関してだが、
(5) 彼は一度も露には逢ってない。彼が賢治と文通で交際をはじめたのは、一九三〇年(昭和5)からで、初めて賢治に逢ったのは一九三二年(昭和7)である。彼の高瀬露についての記述は、Mや関登久也、Kなどの文章を下敷にして勝手にふやかしたものに過ぎない。
                       <同論文15pより>
と上田は言い切っている。
荒木 何っ、Gに至っては一回すら会ってもいないというのか。
吉田 ほんとにそれでよくあれだけのことを書けたものだと感心するよ。まあ、Gの場合は仮名「内村康江」を使っているからフィクションだとすれば、それはある程度あり得ることではあろうけど。でもなあ~あの書き方はひどすぎる、週刊誌のゴシップ記事よりひどい。
鈴木 それから最後に、これは鏑慎二郎の証言に関わるところだが、
(6) (上田が)賢治研究家でもある鏑慎二郎に話したところ、

 わたしもあなたと同じような疑問をもっていました。どうもこの話は作り話くさいところがあります。火のないところに煙は立たないから全部否定はしませんがといって次のようなことを語ってくれた。
 昔、田舎は娯楽が乏しかったので男と女の間のことについての噂話は大きな娯楽でした。
 それほどのことでない話も村中をまわりまわっているうちに拡大され野卑な尾鰭背鰭がいくつもついてバトンタッチ毎に変形されるから元は一つの話でもあきられず村中を何回もまわることがあります。高瀬露が賢治のところをしばしば訪ねていたとしたら、こういう噂話の好きな人々の間では格好の材料だっただろう。昔は、先生や役人は雲の上の人。賢治も露も二人とも先生でした。「先生だって……」と先生やお役人のこの種の噂は特に好まれました。こうして賢治と露の話は村中にひろがっていったようです。ただ、田舎におけるこの種の話は直接的でいくら尾鰭がついても基本的には、単純な構成であるのに賢治と露の話はストーリー性があるんです。それから田舎のこういう噂話は大体、村やの範囲をめぐっているだけなのに賢治と露の話の場合は、間を飛んで町の方しかも賢治にかかわりを持つ人々の住む町に伝わっているんです。この噂話は田舎の人がつくったのでなく……あるいは田舎の人でも都会生活の経験者が作ったのかも知れない。また、伝わり方も誰かあやつっている人がいるような気もする。

 このような内容であった。現代的に言えば何者かがシナリオを作り、意図的な情報操作が行われていたようだという指摘である。
                       <同論文17p~より>
ということも気になるところだ。
荒木 どうやら鏑は、その「噂話を作った人」や「あやつっている人」がそれぞれ誰であるかほぼ目星を付けているような口振りだな。
吉田 それはほぼ見え見えだろう。
荒木 えっ、それって誰と誰のこと? 教えてくれよ。
吉田 おっと、それはいまの段階では僕の口からは言えない。100%の確証があるというわけではないから。
鈴木 なお、この他に「顔に墨塗りやレプラ発言」及び「ライスカレー事件」のことについても書いてあるが、これらは後でどうせ論じなければならないからこれらは後回しにしておこう。
 さすれば、以上が必要にして十分な個所だろう。
吉田 つまるところ、この論文のサブタイトル「<悪女>にされた高瀬露」にもあるように、上田は
    露は<悪女>にされた。
と確信したのでこの論文を書き上げた。そして、いみじくも上田が「彼女の冤罪的伝説を明らかにするために」と言っているように、そのためにこの論文を発表しようとした、ということだろう。
鈴木 それゆえ、なぜこの論文が未完で終わったのか残念でならない。一体なぜだったんだろうか……。
吉田 残念といえば、そろそろ本日は残念ながらこれでお仕舞いにしたい。それじゃまたな。明日の早池峰登山の準備をしなければならんのだ…。
荒木 いけねぇいけねぇ、そういえば俺も明日の山行の食糧買い出しまだだったんだ、じゃあな。

早池峰登山封印と露伝説
 7月の早池峰登山、この年はたまたま近来まれに見るコバイケイソウの花の当たり年であり、それは早池峰も例外ではなかったのでたっぷりと早池峰の素晴らしさと醍醐味を三人は堪能できた。
 しかしその登山後のミーティングの終わりがけに、
鈴木 私は今回の早池峰登山を最後に、今後早池峰登山を封印することにした。
といきなり宣言した。
荒木 なんだよ、突然。あんなに早池峰が好きだったお前がか…。
鈴木 実は今から約半世紀前のことだ。そのときが初めての早池峰登山だったのだが、ちょうど今年のように早池峰の頂上はコバイケイソウの花で一杯だった。そこで嬉しくなって私はそのお花畑の中に倒れ込んだことがあったんだ。
荒木 おい、そんなことしたら犯罪だぞ。特に今なら。
鈴木 その通りなんだ。若気の至りとはいえ、そのことについては今でも忸怩たる思いだ。
 一方で、今回「あきらケルン」一帯の花々どう思った?
荒木 そういえば、ハヤチネウスユキソウが心なし少なかったような気がしたな。
吉田 たしかにそうだった。それも大株のそれが殆ど目立たなかったのだから、ほぼ間違いなく盗掘のせいでだな。
鈴木 だろ、私から見れば激減だった。
 そして実はもっとショックだったことがある。二人には今まで内緒にしていて悪かったんだが、登山路の直ぐ脇に日本では珍しいある花が咲く場所があったんだ。それは岩陰にあり、しかも丈が低いし花も小さいから殆どの登山客は気付かない。それを見て『ああ、今年も無事に咲いているな』と呟くのが私の秘かで大きな楽しみだったのだ。
 ところが、それが盗掘されたという噂を耳に挟んだので、それをこの目で確かめるのが今回の早池峰山行の最大の目的だったんだ。そしてそれは、現実に起こっていたからなんだ。
吉田 話の半分はわかったが、もう半分がわからない。
鈴木 もちろん私一人が封印しても何ら問題は解決しないけど、もう見るに忍びないんだよ、痛めつけられ続けている早池峰が。それに、一人でも登山客が減れば早池峰の保全にはいくらかは役立つだろう。半世紀前の私の愚行に対するせめてもの償いだ。
荒木 それって、なんか「露伝説」のことを連想させるな。
鈴木 えっ、やばい、どういうことだ?
荒木 それじゃ訊くが、何で鈴木はそのお花畑に倒れ込んだんだよ。ついそのお花畑の見事さに感動して衝動的に倒れ込んだのだろう。それって「やっかみ」に似ていないか?
鈴木 そうか、あれは単なる悪ふざけではなくて、美しいものや素晴らしいものが妬ましくなってしまって、それを痛めつけたくなったという心理がそこにあったということか。そう言えばその早池峰に登った前日にそれを引き起こさせるようなあることがあったことを今気付いた。たしかに「やっかみ」だったかもしれない。情けない…。
 こうなったらなおさら早池峰に今後登るわけにはいかない。そして、その贖罪の意味でも高瀬露の濡れ衣を晴らすことに取り組む決意を固めた。
吉田 なるほど、「露伝説」は「やっかみ」の所産か。たしかに言えなくもないな。


気がかりなこと
荒木 さてその話しはそれくらいにして、次に行っていいか?
 実は俺はその後やはり気になって、鈴木から『七尾論叢 第11号』を借りて上田哲の論文「「宮澤賢治伝」の再検証(二)-<悪女>にされた高瀬露-」をもう一度読んでみたのだ。すると、その中で上田は
 人々は、キリスト者や他の宗教者を紹介するとき儀礼的修辞的に「敬虔」ということばをよく使う。ぐうたらで不謹慎な人間の標本のようなわたしまでもカトリックであることが知れると「敬虔なクリスチャンであられる上田先生」などと紹介されて苦笑することが折々ある。併し高瀬露の場合は、敬虔ということば通りの人柄に思われた。そういう彼女を知っているわたしには、流布している高瀬露の話は信じられなかった。
と述懐していたことを知った。上田はもちろん自分のことは謙遜して言っているのだろうが、クリスチャン上田が高瀬露に対しては
 併し高瀬露の場合は、敬虔ということば通りの人柄に思われた。
と太鼓判を押していた。
 そこでそもそも「悪女」や、その対義語に当たるだろう「聖女」ってどんな定義になっているかを辞書で確認してみた。『広辞苑』では
   悪女:①性質の良くない女。②顔かたちの醜い女。醜婦。
   聖女:清純高潔な女性。特に宗教上の事柄に身を捧げた女性。

とあった。だからもちろんこの「悪女」は露には当て嵌まらないと思うし、一方でこの「聖女」の定義はあの菊池映一氏の証言するところの高瀬露その人そのものではないか。
吉田 僕などはそれとともに、昭和15年の機関誌『イーハトーヴォ』に載った例の露の短歌からも露の「聖女」らしさがしみじみと伝わってくるんだよな。
鈴木 私ももともと「敬虔なクリスチャンの女性」は「聖女」というような認識は持っていたし、これが一般的な「聖女」という言葉の持つイメージだろう。まして、先の菊池映一氏・工藤正一氏・佐藤誠輔氏たちの証言、そして吉田の今言った短歌などから、露はなおさら「聖女」の中の「聖女」と言える。
 ただし私も気になっていたことが二つほどあった。
荒木 それはまた、何と何だ?
鈴木 いずれも上田哲の例の論文に関わることであり、その一つは遠野における露の評判だ。実は上田哲が同論文で、
 ただ賢治の教え子で遠野地区の教員を歴任した高橋武治(入婿で改姓-沢里)の周辺と婚家にかかわる人々の間では「悪女」説が信じられ彼女の評判は悪かった。
              <前掲論文13pより>
と述べていたことが気になったからだ。
吉田 それで結局どうなった。
鈴木 澤里武治のご子息の裕氏からは次のような証言<*2>を得た。
(1) 小笠原露さんはそれまで住んでいたこの家を手放した際に、父は我が家の後ろにあった家屋を露さんに貸していたということをつい最近ある方から教えてもらった。
(2) 父は露さんのことは一言も悪く言ったことがない。
(3) 露さんは立派な人だったと皆言っている。
吉田 となれば、“(2)及び(3)”から、「高橋武治の周辺と婚家にかかわる人々の間では「悪女」説が信じられ彼女の評判は悪かった」とは言い切れないだろう。言い換えれば、よしんばいたとしてもほんの微々たる数だろう。それで物事が左右されるほどのことではなかろう。大体どんなことでも約5%位の否定部分はあるものさ。
荒木 まして、それは上田自身がいみじくも言っているように「「悪女」説が信じられ」ているせいだろ。「説」を信じているだけであり、露自身をそうだとその人たちが言っているわけでもない。
鈴木 それからもう一つは、上田哲が同論文で
 これに対して高瀬露の場合は、O(イニシャル化:投稿者)のことばを借りれば〈「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ「悪女」〉とされているのである。露の〈悪女〉ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。
          <『七尾論叢 第11号』(1996年(平成8年)12月、吉田信一編集、七尾短期大学発行)より>
と述べていることに関わってだ。
 実は、この『〈「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ「悪女」〉とされているのである』の出典はOの何なのだろうかと以前から思っていた。
吉田 おそらく、『宮沢賢治の手帳 研究』『宮沢賢治『手帳』解説』『「雨ニモマケズ手帳」新考』『解説 復元版 宮澤賢治手帳』のいずれかにあるのじゃないのか?
鈴木 そう思って注意深く探してみたのだが、結局見つけられずにいた。いくばく喉に骨が突き刺さっているの感があった。
 それがこの度、『宮沢賢治・第九号』(洋々社、1989年(平成元年)11月発行)に所収されているOの論考「宮沢賢治の愛と性」を読んでいたならば次のようなことがそこに述べられていることを知ったのだ。
 従来、賢治に対して「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ「悪女」と伝えられており、賢治がその防衛に苦心した「話」がいろいろ伝えられているので、この際、私の把握しているところを記しておきたいと思う。…(以下略)…
               <『宮沢賢治・第九号』(洋々社)101pより>
吉田 となれば、上田はOのこの論考から引用した可能性が極めて大だろう。つまり、上田がOから借りた言葉の出処はこのOの論考「宮沢賢治の愛と性」と判断してもほぼ間違いなさそうだ。
鈴木 もしそだったとすれば、まず第一に、上田の言うとところの
 〈「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ「悪女」〉とされているのである。
は、
 「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ「悪女」と伝えられており
に対応しているだけであり、Oがそのような「伝聞」があると述べているのだが、その「表現」を借りたということに過ぎないことになり、Oがこのこと自体を検証していたというわけではないことがわかる。
 また第二に、Oはこの論考において『この際、私の把握しているところを記しておきたいと思う』ということで、たしかにその後に続けてそれが記されているが、その内容は既に私たちが考察を加えてものだけであり、基本的にはそこに新たな証言などは見当たらない。
 というわけで、取り敢えずは喉の骨は取り除けたと思っている。

<仮説:高瀬露は聖女だった>定立
荒木 よし、ならばもはやこれで決まりだ。
   仮説:高瀬露は聖女だった。
をここに定立する。今まで調べてみた結果からは、少なくとも遠野時代の露は〈悪女〉どころか〈聖女〉そのものであったことがこれで明らかになったと言えるからだ。
鈴木 うん、全くそのとおり。それじゃいよいよ検証作業を開始することにしようか。
吉田 しょうがないな、僕も少し手伝ってやることにするか。ここまで僕らが調べてきた限りにおいては、少なくとも遠野時代の露には〈悪女〉のかけらも全く感じられなくてその真逆の女性だということはほぼ明らになったことだしな。
鈴木 あれっ、まずいことを今思い出した、実は遠野時代の教え子のある証言があったことを。
私は慌てて本棚から米田利昭の『宮沢賢治の手紙』を抜き出して頁をめくった。
鈴木 ここに
 遠野市上郷小学校の校長高橋淳二氏が、当時の卒業生の荻野こゆきさんの話を聞いて報じて下さった。――五、六年生の時、裁縫と唱歌を教わった。やさしく物静かな先生で、いつもきれいな着物を着ていた。おなかが大きく授業中にいねむりをしていたこともあった、という。わたし(米田)も、スキー場の賄いをしている、昭和九年の卒業生で七四歳荻野さんを訪ねた。――色の白い、ひたいつき<*1>など歌手の藤あや子そっくりのきれいな先生で、語れば朗らかな人だけれど、泣きたいような顔をする時もあったのす、なんとなく悲しいことがあるようだったんす、あとで考えると、昭和八年に宮沢賢治が亡くなった、その頃だったんだべか、と言う。
             <『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店)231pより>
とあるんだよ。上郷小学校勤務時代といえば、上田の先の論文によれば昭和7年4月~同9年3月の間だから、花巻から転勤して結婚した直後の教え子だ。
 さてその教え子によれば、『授業中にいねむりをしていたこともあった』ということだから問題がないわけでもないな。もしかすると子供が生まれたりしていればそんなこともあろうから、この証言だけで<聖女>の資格が直ちに消滅するということもなかろうが…。
荒木 そんなことで「①性質の良くない女」 に当て嵌まるわけでもない。妻であり、嫁であり、もしかすると母であり、しかも学校の仕事もあるとなればたまにはそんなこともあろう。殆ど…いや全く問題なしだ。
吉田 それはそうだ。他のことで補って十分に余りある。言い換えれば、遠野時代の露はまさしく<聖女>そのものであることはもはや疑いようがないゆえに、この<仮説:露は聖女だった>を定立できたといもいえる。
荒木 おぉ、そういことだよな。
鈴木 それじゃ、今までのことは殆どが露の遠野時代のことについてだったから、そろそろ次は肝心の花巻時代の露について検証してみようじゃないか。

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<*1:筆者註> 「ひたいつき」とは「額のようす」を意味する【額付き】のこと。
<*2:筆者註> 以前から小笠原露の家、「村練」跡、「遠野教会」の場所等を確認したいと思っていたので、あるとき遠野の街を訪ねてそれらを探し回ったことがある。
 先ずは六日町にある澤里武治の家に立ち寄り、ご子息の裕氏に会う。小笠原露の嫁ぎ先は澤里裕氏のお家の近くだと聞いていたからである。すると、澤里家の道路を挟んだすぐ真向かいに武家屋敷の名残のある大きな家があるのだが、その家がかつての小笠原牧夫・露夫妻の住んでいた家であったということを教えてくれた。なんと、
   小笠原露と澤里武治は当時真向かいに住んでいた。
のだった。
 それからその際に、裕氏からこれまた思いもよらぬ重要事項をも含む次のようこともお聞きできた。
(1) 小笠原露さんはそれまで住んでいたこの家を手放した際に、父は我が家の後ろにあった家屋を露さんに貸していたということをつい最近ある方から教えてもらった。
(2) 父は露さんのことは一言も悪く言ったことがない。
(3) 露さんは立派な人だったと皆言っている。
 そこで、『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館、37p)所収の「澤里武治略年譜」を見てみれば、澤里武治は昭和3年に花巻農学校を卒業後、岩手県師範学校に入学、昭和4年に同校を卒業して、上閉伊郡上郷村上郷小学校の教員となっている。そして、昭和5年5月に澤里里栄子と結婚している。ちなみに、同6年9月には賢治の依頼を受け、上郷村を案内している。また、昭和7年音楽の勉強をやり直すために師範学校専攻科(音楽専攻)に入学している。 
 となれば“(1)”からは、澤里武治は小笠原露に便宜を図り、世話をしていることが容易に窺える。ちなみに露は明治34年12月花巻町向小路に生まれ、武治は同43年12月湯本村生まれ、武治は露よりちょうど9歳下である。そして、武治はしばしば下根子桜の賢治の許を訪ねているということだから、その頃からほぼ間違いなく武治は露のことを知っていたはず。また、武治は昭和5年上郷小学校に赴任、同5年には遠野の澤里家の養子となっており、そこへ翌和7年に花巻から露が上郷小学校へ人事異動、しかも露は武治の真向かいの家の小笠原家に嫁いで来たわけだから、お互い気持ちとしても理解し合える点も多かったであろう。ちょうど、露と武治は入れ違いで上郷小学校に勤務したことにもなる。
 “(2)及び(3)”に関しては、上田哲は
 世間話の中でそれとなく彼女のことを聞いたところ「熱心な信者さんで親切な方という」異口同音の評価だった。次にわたしが『岩手短歌』の発行人、県歌人クラブの役員だったのと彼女も短歌を作っているので短歌にかこつけて土地の歌人たちをたずね彼女と交流のあった人々からこれもそれとなく聞き出したところ評判がよかった。中には彼女の教え子の親もいた。ただ賢治の教え子で遠野地区の教員を歴任した高橋武治(入婿で改姓-沢里)の周辺と婚家にかかわる人々の間では「悪女」説が信じられ彼女の評判は悪かった。
              <『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)78pより>
と述べているが、「周辺と婚家にかかわる人々の間では「悪女」説が信じられ彼女の評判は悪かった」とは言い切れないのではなかろうか。


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