宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

§8. 「賢治抄録」より

2011年09月27日 | 賢治と一緒に暮らした男
 ではここでは「宮澤先生を追ひて」のシリーズはちょっと中断し、時系列を考えて「賢治抄録」(『宮澤賢治研究』(昭和33年))の方を先に見てみたい。それは次のような大正14年のエピソードである。
 大正十四年は豊作に近い年で、季候も良いのであつた、晴れ勝ちな日が多い年であつた。十月二十日役所に出勤し、何かと忙しく働き夕方下宿先の鎌田旅館に歸った時、宿の主人は「あなたところに宮澤先生から電話がありましたよ」と云われ、早速電話した。先生を呼び出した時、先生は若い元氣のある聲で出て呉れた。「何かお用でしたでしょうか」と尋ねたところ、先生の方から急ぎの句調で「先日は失禮致しました、私も突然のため何ごともなし得なかつたのに非常に申譯なかつた」と本當に申譯ないような聲で私に語つた。そして「今晩是非學校でなく私の家に遊びにお出で下さい。是非來るように、待つております」と電話を切つて了つた。
 その晩九時頃豊澤町にある賢治の家を訪ねた、屋がまえの大きな家で、花巻町として相當の舊家であつた。
 賢治は喜んで私を迎え入れた。
 私としては初めて家を尋ねるので、少しえんりよであつたが、來て了つたと云うあきらめの心になり静かに入つた。
 賢治の親達も聲をかけ「どうぞお入りえんせ」と云われて、力をえた氣持になつた。
 「賢治はおであんしたからどうぞ」と賢治の母親の優しい聲に誘われ、私はちよとあいさつをして濟むと賢治は「さあどうぞ」と表二階に誘われ、それに從つて階段を上がつて行つた、二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた。
 賢治の母は早速お茶を持つて室に來た「どうぞおあげんせ」と出され、私は恐縮して「ども……」と簡たんに頭をさげたが、賢治は自分の母に對してひざをついてていねいに「ありがとうございまいした」とお禮をしたのを見て、私はうろたえてひざをつき直して、今だやつたことのないていねいさで再びお禮を申上げたことは今だに頭の中に殘つている。
 自分の母に對して、賢治はあれだけの感謝と敬意を以つていたのは、私達に十分に考えさすべきことであると未だに浮かんで來る。一般社會で母に對して、それまでの敬意ある態度は認めがたいのは普通ではないでしようか、やはり賢治のえらさはそこにもあつたと思われる。祖先を敬い、親を敬う心は賢治は宗教的かんねんから來たことではないでしょうか。平和な戦いのない社會は、私達も望むところであるが、賢治はその場合から、それにより社會を清め明るい人間を造り出すことを考えていたのではないでしようか、世の人々は學ぶべきである。
 母が去つてから、二人で肥料の話、水稲栽培の話、花造りの話、地理の話をしたりして、それのあとは「一つレコードでもかけましょうか」と自ら蓄音機を持ち出し、賢治は蓄音機を大切にしレコードも大切にして、針は金でなく、竹の針は本當の音が出るし又レコードを長持ちするために必要であると説明して呉れた。…(以下略)。

   <『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房発行(昭和33年版))より>
 この後には引き続いてベートーベンの名曲を観賞し、その感想を訊かれたというエピソードが続けて書かれてあり、最後に銀河の星とか北斗七星のことなどの空の話をし、賢治の家を辞したと書かれている

 さて上述のエピソードは大正14年10月のことだから、千葉恭が賢治に初めて出会った大正13年11月から1年弱を経て千葉は初めて賢治の家(豊沢町)を訪ねたことになる。千葉恭が紹介しているこのときの、賢治の母イチに対する賢治の丁寧すぎるほどの接遇の仕方は、たしかに千葉の思ったとおり”流石賢治ならでは”のことである。また、二人は相変わらず熱く農事のことを語り合っていたであろうことが推し量ることが出来る。
 ところでこの中の
 二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた。
に出てくるこの〝蓄音機〟に関連して次は触れてみたい。

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