宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

§7. 「宮澤先生を追つて(二)」より

2011年09月26日 | 賢治と一緒に暮らした男
 では今回は『 四次元』(宮沢賢治友の会)の5号に戻って、そこに載っている千葉恭の「宮澤先生を追ひて(二)」を見てみたい。

1.千葉恭の帰農と研郷會
 先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。
 家に歸ることについては先生は非常に喜んでくれました。家には年寄ばかりで朝から晩までせつせつと働き續けるのを見てはぢつとしてはゐられなくなり、私は元氣を出して働き出したのです。田舎の朝の空氣一番先に胸一杯吸ふのはやつぱり百姓だ!私もその百姓として先生の教へを乞ひつゝ働きつゞけて美しい農民の生活に入つて行こうと決心したのです。鋤を空高く振り上げる力の心よさ!水田が八反歩、畑五反歩を耕作する小さな百姓だが何かしら大きな希望が見出した様な氣がされました。作物に對する愛情はだれも知り得ない美しい世界です。春の田打から田植えの土のかおりに浸りながら、暖かい陽ざしを浴び農業の研究的なことを語る樂しさ、伸び行く作物にしみじみと親しさを感じ味はひ得るところに農民の尊さと神聖さのあることを發見しました。
 その年の私の村では農會廢止論が起こつたり、また年の離農者が増して來るばかりで、私が考へたやうな理想の農村や先生が語る理想の農村は、破かいされて行くばかりなのです。かうした農村を如何にして是正しようかと考へさせられました。味氣ない農村だ農業だと年の離村して行くのは私が百姓をやり出してからの苦悩の最大のものであつたのです。それを除くために如何なる方法を講ずべきかと、私は十日間も考へ抜いた末にやつとその方法を見出したのです。それは實際やつて見て巧く行くか、また逆轉するかは判りませんが先づやつて見ようとしたのです。
 村で農學校を卒業して働いてゐる青年は三十二名もありましたので、稲作も濟んだある夜役場に集まつて、何とか農村日本の美風を保つて行きたいと相談しました。その結果先づ農村は味氣なく殺風景だから、文化による向上で農民の土に親しむ道を講じ、それと共に農會の機能を活發に活動するやう促進させることであると、各人担當研究員として組織し農會を盛り立てゝ行くことゝしました。そして實地農業技術の透徹であり、農業経営の理想化自然と親しむ芽生えの昂揚であることを強調しました。研郷會と云ふ名稱の下に組織して水稲関係は水稲の担任者の意見、副業関係は副業担任者意見によつて、農民の働く力を増進させること、それと共に一方年によつて農民劇を、子供には童話會を開催して文化により土に親しみ土地を去る心をおさへることに腐心しました。
    研郷會規則
一、この會は農村の隆盛と技術の向上により理想化し親しみのある農民の集合である。
二、この會は研郷會として事務所を會長宅に置く。
三、この會は事業の遂行のために左のことを行ふ。
 1.各種目の研究を担當する
 2.研究會・座談會・普及會・農民劇・童話會・農事視察・農事調査を開始する
 3.その他必要なる事項
四、この會には農民の誰もが入りうる。
五、この會の事業は奉仕的にやり役員を必要とする。
 1.会長 一名 2.専任役員 四名 3.研究員 三十名 4.修養員 十名 5.幹事 若干名
六、この會は互いに随時集まり必要なる問題につき研究討議するものとす。
七、この會は理想農村の完遂までつゞくること。
  …(中略)…
 一ヶ年の成績は見るべきものがあり、明るい村となつて來たのを見出しました。成績については別の機會にゆづることにします。
 かうした方法で色々の問題が解決して行き、年の離村も苦い顔もなくなり、水稲其他の収穫等も多くなり模範村となつたことだけは記して置きます。

         <『四次元 5号』(宮沢賢治友の会 Mar-50)より>

 さて、千葉恭が述べているこの追想に関して次の二つのことをここでは述べてみたい。
(1) 「一ヶ年の親交」とは?
 その一つ目は、もちろん
 親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。
の部分の解釈に関してである。これに続けて
 昭和四年の夏…とうとう役所を去ることになりました。
と千葉恭は言っているわけだから、素直にこれを受け止めれば千葉恭が役所を去ったのは昭和4年の夏ということになろう。とすればこの、”一ヶ年の親交”の”一ヶ年”とは”昭和3年の夏~昭和4年の夏の一ヶ年”ということになるはず。
 ところが、賢治は昭和3年の8月初旬には発病してそれ以降は豊沢町の実家に戻っているはずだからこの期間を”親交の一ヶ年”という表現をする訳にはいかない。この〝昭和四年〟は明らかにおかしい。
 では次に、”親交の一ヶ年”を”昭和4年の夏”と切り離して、”親交の一ヶ年”の部分だけに焦点を当てて考えてみることにしよう。”親交の”といえば直ぐに思いつくのは千葉恭が賢治と一緒に寝泊まりしていたと考えられる大正15年の二人の密接な関係である。ところが、千葉恭自身はその期間を約半年と言っているから大正15年頃の一ヶ年も”親交の一ヶ年”とは考えにくい。
 すると、”親交の一ヶ年”とは一体何時の期間のことなのだろうか。そしてどのような”親交”だったのだろうか。はたまた、役所を辞した時期はそもそも何時で、それと”親交の一ヶ年”どんな関係があったのだろうか…。理解に苦しむところである。
(2) 「研郷會」を組織
 述べたいことの二つ目は千葉恭が「研郷會」を組織したことである。松田甚次郎と同じ様に千葉恭もまた地元に戻って帰農した、盛町の実家に戻って農業に専心したということになる。さらには、水沢農學校を卒業して働いている地元の青年32名と語らって「研郷會」を組織し、農村の隆盛と農業技術の向上により理想の農村を創ろうと頑張ったことになる。まさしく千葉恭は松田甚次郎と同様「賢治精神」を実践しようとしたのだと私には思えるのである。
 もしここに書いてあるとおりに千葉恭が実践したのであればそれは誰にも出来ることではない。松田甚次郎の「最上共働村塾」と同様、規約を設けた組織を設立し、農業技術や農村生活の改善・向上、農村文化の振興などに努めてことになる。もちろん農民劇も企画していたようだ。さらにはこの様な実践活動により実際それ相応の成果を上げたようだから、私はそのことに敬意を表したい。わけても、そのことにより村の青年が離村することのない明る農村になったし、一方では水稲その他の収穫等も多くなったなどという実績を上げたということに、千葉恭もなかなかやるじゃないかとエールを送りたくなる。

2.帰農後の千葉恭と賢治
 「宮澤先生を追ひて(二)」は続けて次のように述べている。 
 農業に従事する一方時々先生をお訪ねしては農業経済・土壌・肥料等の問題を教わって歸るのでした。先生は或る時「學校でテニスをやりながら教はる教育ではだめだ!」と、言はれたことがあります。その頃先生は學校を退職されて花巻町在下根子の、北上川に面した大櫻の雑木林の中に、二階建ての小さな家に住んでをられました。そして農民の最低生活を基準に農村を研究し指導しなければならないと、強調されて私にも時々聞かされました。「今迄の農民又は其他の問題でも指導する指導者が間違つてゐた。農民の生活には巾があり、その中間平均を指導の基準として、最低生活者を指導し又最高生活者を指導するのも同じだ。眞劍に指導せんとするには總ての最低生活者を基準として指導すべきである。そして早く進めみんなと近づけて行き、一人ひとりの幸福を滿してはじめて世界の幸福がひらけるのだ!」私にはこの言葉こそ未だに忘れ得ぬものとして胸に烙印となつてゐます。先生は一人で毎日雨が降らふうが風が吹かうが、最低生活に甘んじそれこそ玄米四合と味噌と少しの野菜をたべ、少しばかりの開墾によつて花を作り、作物を取り美しい自然に接することを唯一の希望に、命をかけて勵まれていられたをられたのでした。花も作物も自然を表はすことは同じです。私が百姓をしているのを非常に喜んでお目にかゝつた度に、施肥の方法はどうであつたか?とか、またどういうふうにやつたか?寒さにはどういふ處置をとつたか、庭の花卉は咲いたか?そして花の手入れはどうしているかとか、夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、また農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の年達に授けて実行に移して行くのでした。そして研郷會の集りにはみんなにも聞かせ、その後成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。
 農業の研究程至難なそして苦しいものはないと思ひます。何んとなれば農民は無智であるのと因襲に捉はれがちであり、只何をうらむともなく社會をうらみ、また個人間の感情的な争ひにさわぎ、生きることの尊さを知らずに死んで行くのです。私達はそれが本當に可哀そうであり、こまつたものだと思つて來ました。それを如何に打開すべきかは、研究の集りに出る一番大切な問題であつたのでした。先生はそれは言葉を持たない植物動物を取扱ふ百姓に、自然の美しさを知らしめてそこに樂しみと、美しさと尊さを見出させることが必要であるからと、色々草花の種子を取寄せられみんなに配つては、花の美しさを土台として見出させようと努力されたのでした。…(以下略)

         <『四次元 5号』(宮沢賢治友の会 Mar-50)より>

 ここでは千葉恭の帰農後の賢治との往き来について語っている。下根子桜での寄寓を解消して実家に戻ってしまった千葉恭ではあるが、その後も千葉恭はときどき下根子桜にやって来て賢治の指導を受けていたということになる。
(1) 盛町から花巻までの訪ね方
 それにしても千葉恭は頑張るよなと私は思ってしまう。千葉恭は大船渡の盛町出身であると佐藤成氏は述べている。その盛町から花巻までときどき訪ねて来るということは生易しいことではない。盛町から直線距離でも60㎞以上は優にある花巻下根子桜の賢治の許まで度々訪ねて来ていたということになる。
 では、具体的にはどのような経路と方法で千葉恭は盛町から花巻へ通ったのだろうか。ちょっとシミュレートしてみよう。千葉恭が通ったのは昭和初期と考えられるから、たまたま手許にあった昭和10年12月1日時点での『岩手縣内自動車便』(『昭和10年版岩手縣全図』、和楽路屋)を見てみると、そこには
 盛→遠野については 盛発6:30、7:30 の2本だけ(所要時間2時間30分)
 遠野→盛については 遠野発12:30、14:30 の2本だけ(所要時間1時間50分)
と記載されていた。その他には便利で使えそうな自動車便はなさそうだから、当時千葉恭はこの自動車便を使って遠野~盛間を往き来し、おそらく遠野からは、遠野~花巻間は軽便鉄道にでも乗ったのだろう。いずれ当時にすれば大船渡盛町~花巻下根子桜間は所要時間もかなり要したであろうからそう簡単に往き来できる所ではない。逆に言えば、「研郷會」を拠り所として地元の農業の改善と発展に掛ける千葉恭の意気込みと千葉恭と賢治の親密な師弟関係をそこから読み取れるのではなかろうか。
(2) なぜ語られぬ千葉恭のこと
 なお、こうなるとますます気になることがある。というのは次のようなことである。
 約半年間千葉恭は賢治と一緒に寝泊まりし、千葉恭が穀物検査所を辞めてからも時々こうやって下根子桜に来ていた。そしてその場合の千葉恭は盛町~花巻間を一日のうちに往復はしなかったはず。というのは前述したバスの所要時間等を考えれば明らかで、時間的に窮屈あるいは無理だったろうし、その上『夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ』と千葉恭は証言しているのだから、この当時もときどき千葉恭は下根子桜に泊まったはずである。
 したがっておそらく、下根子桜の別荘に集った人達はこの熱心な賢治の弟子、約半年間寝食を共にしその後もときどき盛町からはるばる訪ねてやって来る弟子の千葉恭のことは良く知っていたはずだし、一目置いていたに違いない。なのに何故なのだろうか、私の管見のせいかも知れないが、彼等は千葉恭のことを公には一切語っていないはずだ。あるいはまた、千葉恭のことを十分に知っているだろうと思われる伊藤忠一(羅須地人協会の隣人かつ協会員)に対して、賢治研究家のK氏が千葉恭のことを取材しようとしたならば、伊藤は『そんな人は知らない』とつれなく言ったとK氏は私に教えてくれた。

 ところで先程のシミュレーション、後程とんでもないことに遭遇して残念な事態を招くのだが…それはそのときにお話ししたい。
 
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