宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

500 伊藤からの聴取は昭和2年6月 

2013年07月04日 | 賢治昭和三年の蟄居
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 私がなぜ「同年6月」であると思ったのかというと、それはまず次のような菊池忠二氏の記述があることを知ったからである
『私の賢治散歩(下)』より
 菊池忠二氏によれば
 じっさい宮澤賢治は、社会主義教育を行っているとの風評もあった、昭和二年春頃(三月か)、花巻警察署刑事の事情聴取を受けたと言われている(『校本全集』一四巻「年譜」)。しかし上記教え子小原忠氏によれば、同年六月末頃に一身上の相談で、羅須地人協会へ宮澤賢治をたずねた時、川岸の畑で草とりをしていた賢治が、「どういうわけか非常に機嫌が悪く興奮」しており、小原氏の用むきには耳もかさず、「いま、それどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない」といって、とりつくしまもないほどの剣幕だったという(「賢治研究」39号)。
 とすれば、警察の事情聴取が行われたのは、その後まもない時のことになるのだろうか。小原氏は「こんな取り乱した姿を後にも先にも見たことがない」と記しているが、宮澤賢治が警察当局の動向にいかに過敏に反応し、動揺し狼狽していたかを物語る、これは珍重すべきエピソードだと思われる。
             <『私の賢治散歩(下)』(菊池忠二著)176Pより>
 なんと、賢治が
 『警察に引っぱられるかもしれない』ととりつくしまもないほどの剣幕だった。
ということを、他ならぬ小原忠が証言していたわけだからこの証言の信憑性は低くないであろう。まして、昭和2年の6月とは伊藤儀一郎が花巻警察署の署長であった最後の月でもあることでもあり、なおさらに。
 そして、このいわば〝6月説〟を暗示するものが別にあると菊池氏は続けて前掲書で次のように述べている。
 作品「ポラーノの広場」の四、警察署には、行方不明になったファゼーロについての事情聴取のため、キューストが警察へ出頭し警察の尋問を受ける場面がえがかれている。その出頭期日が「一九二七(昭和二)年六月廿九日」と明記されているのは、小原氏の回想とあわせて誠に暗示的である。
             <『私の賢治散歩(下)』(菊池忠二著)176Pより>
と。この菊池氏の指摘を知って、私はなるほどと頷いた。
 賢治は少なくとも昭和2年6月に花巻警察署長伊藤儀一郎から事情聴取を受けた。
ということはかなりの確度で正しかろう、と。

 そして一方、この時期については冨手一の証言からも裏付けされそうだ、ということを伊藤光弥氏は述べている。

 『賢治昭和三年の自宅蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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