《↑『宮沢賢治からへ』』(佐藤通雅著、學藝書林)》
前回は宮澤賢治自身の「下根子桜時代」の評価について触れたが、今回は周りの人が「羅須地人協会」に関してどのように評価したかについて調べてみたい。
1.谷川徹三による評価
佐藤通雅氏は『宮沢賢治からへ』の中の章「亀裂する祝祭 羅須地人協会論」を次のような内容で書き始めている。
羅須地人協会に関しての評価は正反対 . . . 本文を読む
《↑9月23日付「澤里武治あて宮沢賢治書簡」》
大正15年4月、宮澤賢治があれだけの意気込みで移り住んだはずの下根子桜であったが、不本意ながら病気のために昭和3年8月とうとうそこから退却して実家に戻ってしまった。したがって賢治の下根子桜時代は2年4ヶ月ちょっとで幕を閉じたことになる。
1.下根子桜退却の理由
賢治自身は下 . . . 本文を読む
《↑「巡回予定場所(二子、飯豊、太田、湯口、宮野目、湯本、好地、八幡、矢沢)」》
さて「大島行き」から下根子桜に戻った賢治の、その後の昭和3年内の年譜であるが
7月18日 農学校へ行き堀籠に稲の病気検査依頼。
(この頃日照りで稲作指導に奔走)
8月初旬 発病と共に羅須地人協会自然消滅。
8月10日 賢治健康を害し自宅に戻り、別棟1階に病臥。 . . . 本文を読む
《1↑『宮澤賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)》
昭和3年6月の「大島行き」の際の長期滞京に関しては、かつてとは異なる賢治を何かしらそこに私は感じてしまったのであるが、このときの上京のことを佐藤竜一氏は「東京への逃避行」と題して次のように論じていることを知った。同じ様なことを感じていたのではなかろうか、と私は勝手に決め付けてしまった。
1.「東京への逃 . . . 本文を読む
《↑「築地小劇場」》
さて、前回のブログで「大島行き」の賢治の日程は
6/7(木) 花巻発、仙台東北産業展覧会
6/8(金) 水戸、水戸偕楽園、県立農場試験場、神田上州屋泊
6/9(土) 滞京
6/10(日) 築地小劇場?
6/11(月) 滞京
6/12(火) 大島へ?
6/13(水) 大島滞在
. . . 本文を読む
《↑「MEMO FLORA」手帳メモの104p》
今回は、
「大島行き」の帰花は定説となっている6月24日ではなくて、実は6月26日に花巻に帰ったという可能性もありうるのではなかろうか。
ということを考察してみたい。
前回の「大島行き」を調べていて不思議に思ったのが、賢治は大島訪問後すぐに花巻に戻らなかったということである . . . 本文を読む
《↑『宮澤賢治幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)》
今回は「大島行き」について調べてみたい。
『宮澤賢治幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)には次のようなことなどが書かれていた。
1928(昭和3)年当時、水沢の豪農伊藤家の伊藤七雄と妹・チヱは水沢を離れ伊豆大島に住んでいた。その兄妹がその年の春、賢治を訪ねて花巻にやって来た。ときに七雄29歳、(チヱはおそ . . . 本文を読む
《↑『宮沢賢治必携』(佐藤泰正編、學燈社)》
では今回は昭和3年4月~6月までの年譜を見てみよう。
4月? 黒沢尻女学校校長新井正市郎を訪ねる。
5月 7日 前校長畠山栄一郎来花精養軒で歓迎会
5月16日 堀籠文之進を訪ねる。
5月18日 堀籠文之進を訪ねて稲苗腐敗病について話しあう。
6月 7日~ 仙台、水戸、東京、大島への旅行に出る。浮世絵や演 . . . 本文を読む
《1↑『賢治の時代』(増子義久著、岩波書店)》
今回はまずは昭和3年分の年譜のその3月までを再掲してみる。
<1928年(昭和3年)>
2月 9日 湯本伊藤庄右衛門の依頼で湯本小学校で農事講演会に出席。堀籠文之進のあとを受けて講演。聴衆100名余。帰途堀籠家を訪れ長男見舞う。
2月初旬 賢治は『これをタスにしてけろ』と言って、労農稗貫支部事務所 . . . 本文を読む
《↑『みちのくサロン』(みちのく芸術社)》
以前〝滞京中の「高等遊民」賢治〟において、
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大正15年の12月18日または20日に本郷駒込千駄小林町に高村光太 . . . 本文を読む
《↑ 「雨ニモマケズ手帳」29p~30p》
さて、昭和2年の8月以降のその年内の年譜を再度見てみると
8月 8日 松田甚次郎の訪問を受ける。
夏頃から〔推定〕高瀬露しばしば来訪。
10月頃 石田興平を宮澤家から花巻病院へ案内、下根子桜にも案内。
11月 藤原嘉藤治と小野キコの結婚式参列。
11月1日~3日 東北菊 . . . 本文を読む