SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

ニーチェの萌え

2009年08月08日 | Weblog
>女性というもの、女性自体の真理自体というものは存在しない。そのことはすくなくとも、ニーチェが語ったことである。そして彼の作品にあらわれる母、娘、妹、オールド・ミス、妻、女家庭教師、娼婦、処女、祖母、少女、および成熟した娘たちの群れといった、きわめて色とりどりの類型学がそのことを証明している。まさにこの理由のため、ニーチェの真理もしくはニーチェのテクストの真理といったものは存在しない。(ジャック・デリダ著『尖筆とエクリチュール』146ページより)

 東浩紀の『動物化するポストモダン』第二章4節を参考にすれば、この「色とりどりの類型学」とは、つまりキャラクターをカテゴライズする「萌え要素のデータベース」のことであり、デリダがここでニーチェのテクストの「背後」に見ているのは、大きな物語ではなく、大きな非=物語としてのデータベースである。デリダが『尖筆とエクリチュール』で問題としているのが実は「キャラ萌え」であると気付いたとき、私はその先見の明に驚いた。しかし考えてみればこのテキストが書かれたのは1972年であり、すでに「大きな物語」は、理想(真理)どころか虚構(テクストの真理)としてさえ消え始めていたのである。ところで『尖筆とエクリチュー
ル』には、オタクであれば誰もがよく知るひとつの「萌え要素」が取り上げられている。ニーチェが『悦ばしき智慧』で「小さい女」を罵倒しているというのだ。いまなら「身長が低い」という要素だけに萌えるオタクは普通にいるが、たぶんニーチェは「早すぎた」のだろう。いまだそれが「キャラ萌え」であると知られていない時代の話なのである。

「第三の性。――〈小さい男というものは、一つのパラドクスだが、男であることに変わりない――だがしかし、小さい女というのは、背の高い女にくらべると、いまひとつ別な性に属するもののように、私には思われる〉、と或る年老いた舞踏教師が言った。小さい女なぞというものは何にも美しくない――と老年のアリストテレスは言った。」(『悦ばしき智慧』より『尖筆とエクリチュール』106ページの訳注より)