古谷利裕がシャマランの映画を理解できないでいるのは、メディオロジー的な視点を欠いているからだろう。たとえば古谷のシックスセンス論を読むと、この有名なラストシーンでシャマランが何を仕掛けたのか、まったく分かっていないようだ。ここでは、主人公(幽霊)、妻(生)、ビデオ(死)と、それまで物語の背後でバラバラ(leave)だった三つの時間が、妻の無意識を介して一致してしまい、それによって主人公のうちに同一性のループが回り始めてしまうのである(床に落ちた指輪の回転が強調されるのはそのためだ)。しかし主人公は幽霊であったため、消えねばならなくなったというわけだ。途中で、ビデオに写る本当の自分が、幽霊の自分に「来いよ」と呼びかけているのが分かる。
古谷利裕がシャマランの映画を理解できないでいるのは、メディオロジー的な視点を欠いているからだろう。たとえば古谷のシックスセンス論を読むと、この有名なラストシーンでシャマランが何を仕掛けたのか、まったく分かっていないようだ。ここでは、主人公(幽霊)、妻(生)、ビデオ(死)と、それまで物語の背後でバラバラ(leave)だった三つの時間が、妻の無意識を介して一致してしまい、それによって主人公のうちに同一性のループが回り始めてしまうのである(床に落ちた指輪の回転が強調されるのはそのためだ)。しかし主人公は幽霊であったため、消えねばならなくなったというわけだ。途中で、ビデオに写る本当の自分が、幽霊の自分に「来いよ」と呼びかけているのが分かる。