SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

メディア変換の技法

2007年06月25日 | Weblog
>二次創作とは、ここでの枠組みで言えば、物語志向メディアが供給する作品を、コミュニケーション志向メディアの支持材として再利用するメディア変換の技法なのである。(東浩紀『文学環境論集L』エッセイ編P49より抜粋)

 柄谷行人の名著『日本近代文学の起源』同様、すべての美術系の学徒は東浩紀氏の『文学環境論集L』を読むべきである。ただし、そのいかにも納得しやすい言葉の要約の背後にあるものこそを読まなければならない。その解りやすさを「罠」だと感じ、至る「納得」の裏面に回って考えてみることが大事なのである。それが出来ない人は、いつまでたっても(それこそ40歳になっても)あらゆる意味で「停滞」し続けるだけだろう(もう誰とは言うまい)。
 
 二次創作について書かれた、たったこれだけのフレーズのなかに、現代アート理論のひとつの核心が込められている。たとえば川俣正氏の仕事について、これ以上の説明の要約ができるだろうか。川俣氏のインスタレーションは、それ自体が「作品」なのではない。その木材のインスタレーションが寄生している建築物こそが「物語志向メディアが供給する作品」と目されるのである。典型的なコミュニケーション志向のアーティストである川俣氏の仕事は、それを物語(コンテンツ)志向の発想で「鑑賞」している限り理解することはできない。コミュニケーション志向の発想でそれに「参加」したときに、これまで作品だと思われていた一次的なものと、展示環境だと思われていた二次的なものとの関係が逆転(メディア変換)し、その「支持材としての再利用」が可能となるのである。ぶっちゃけ、川俣氏の仕事はそういう意味で、すべて二次創作として行なわれていると言っても過言ではないだろう。(掲載写真は1989年トロントでのインスタレーション)