>だがその展示風景は、端的にいえば、美術館で作品を展示しているというより、むしろ博物館で資料を展示しているかのようだった。〔...〕もちろん、それがボイスのいう「拡大された芸術概念」の現われだといえなくもないが、それにしてもフェティッシュな仏神崇拝の匂いを拭い去ることはなかなか難しい。(福住廉*1)
ボイスの「遺物」をまさか「美術作品」としてまじまじ鑑賞しようとしている福住など最初から論外なんで(爆)、水戸芸の学芸員もそんなにムキになって反論する必要もなかった(*2)。ボイスの遺した物を、たとえば考古学的あるいは地質学的な視点から観直せば、それが博物館での資料展示に似るのは当然であるし、また「拡大された芸術概念」という考えも、ならばほとんど惑星規模にまで拡大された芸術概念であったと捉えることができる。そういう意味で、ワタリウム美術館の和多利恵津子氏による「エコロジーへの思想にしても、ボイスはただ理論からではなく、土から生えるというか、土の中から湧き上がるような考え方を持っていたんじゃないでしょうか」という意見は何気に面白いし(『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』(フィルムアート社)73ページ)、さらには次の山本和弘氏による壮大な話も、ますます興味津々である。
>ボイスの彫刻理論の基本は温めるとやわらかくなり、冷やすと硬くなる、ということである。わかりやすい例が脂肪という素材の使用である。脂肪は常温では固体であるが、わずかの熱で溶けてやわらかくなり、私たちがその形を思いどおりに成形できる硬さになる。こうしてみると、温暖期と氷河期を繰り返してきた地球そのものもまたボイス的視野に立てば温熱によって可塑的になる彫刻素材であることがわかる。ボイスのいうエコロジーはこのような極めて長期的視野から語られることもまた自明であろう。〔...〕この美術館を訪れる人々を待っているのはボイスの作品の残骸ではけっしてなく、活動休止状態にある作品である。私たちは活動が休止している、あるいは次の活動に向けて待機している状態をそこに見るのである。活動期と休止期という分け方はちょうど火山活動にあてはまる。これもまた温暖期と氷河期との交互到来と同じく人智を超えた時間の中にある。(同132ページ)
*1http://artscape.jp/focus/1210808_1635.html
*2 http://www.art-it.asia/u/ab_takahashi/4PXSNiA5WfC9QmJMEnhu/
ボイスの「遺物」をまさか「美術作品」としてまじまじ鑑賞しようとしている福住など最初から論外なんで(爆)、水戸芸の学芸員もそんなにムキになって反論する必要もなかった(*2)。ボイスの遺した物を、たとえば考古学的あるいは地質学的な視点から観直せば、それが博物館での資料展示に似るのは当然であるし、また「拡大された芸術概念」という考えも、ならばほとんど惑星規模にまで拡大された芸術概念であったと捉えることができる。そういう意味で、ワタリウム美術館の和多利恵津子氏による「エコロジーへの思想にしても、ボイスはただ理論からではなく、土から生えるというか、土の中から湧き上がるような考え方を持っていたんじゃないでしょうか」という意見は何気に面白いし(『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』(フィルムアート社)73ページ)、さらには次の山本和弘氏による壮大な話も、ますます興味津々である。
>ボイスの彫刻理論の基本は温めるとやわらかくなり、冷やすと硬くなる、ということである。わかりやすい例が脂肪という素材の使用である。脂肪は常温では固体であるが、わずかの熱で溶けてやわらかくなり、私たちがその形を思いどおりに成形できる硬さになる。こうしてみると、温暖期と氷河期を繰り返してきた地球そのものもまたボイス的視野に立てば温熱によって可塑的になる彫刻素材であることがわかる。ボイスのいうエコロジーはこのような極めて長期的視野から語られることもまた自明であろう。〔...〕この美術館を訪れる人々を待っているのはボイスの作品の残骸ではけっしてなく、活動休止状態にある作品である。私たちは活動が休止している、あるいは次の活動に向けて待機している状態をそこに見るのである。活動期と休止期という分け方はちょうど火山活動にあてはまる。これもまた温暖期と氷河期との交互到来と同じく人智を超えた時間の中にある。(同132ページ)
*1http://artscape.jp/focus/1210808_1635.html
*2 http://www.art-it.asia/u/ab_takahashi/4PXSNiA5WfC9QmJMEnhu/