SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

疑似ドキュメンタリーについて その11

2010年07月30日 | Weblog


>タブレットの上の表面には、微細で透明な一葉のフィルムがとりつけられていますが、下にあるタブレットの面からは離れていて、浮き上がっているのです。そしてこの一葉のフィルムも二重になっています。何かを反射したり、みずからが畳まれたりしているのではなく、二重になり、二つの「層」に分割されているのです。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻343ページ)

 映画『フォース・カインド』は、普通に観れば娯楽映画としては最低の作品だ。なにも人気女優のミラ・ジョヴォヴィッチを起用してまでこんなクズ映画を作ってみせる必要なんかない。しかしこうしたUFO神話にまつわる古典的テーマが、いまなお人々の関心を失っていないということについては、作品評価を抜きにして考えなくてはならないだろう。この映画では、催眠療法を受ける不眠症の人たちが、カメラの前で「浮き上がる」。催眠術に「振り子」は欠かせないが、もしつねに地上から「浮き上がって」いるUFOが何らかの「振り子」であったとしたならば、その無意識的な「ダウジング」が探り当てようとしていたものとは何だったのか? 言うまでもないことだ。ポストモダンの超越論性である。......冗談を吹いてるわけではない。主体の構造が、「精神と身体」の逆説的二重基準のモデルから、「情報と物質」の乖離的二層構造のモデルへと変化しつつあることを、人々は「UFOダウジング」を通して感じ取ってたのではないだろうか。重要なのは、シミュラークルとデータベースの二層のあいだが「浮き上がって」いる、ということである。

>そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の乖離的な共存。(東浩紀著『動物化するポストモダン』140ページ)

(続く)