今、吉祥寺は秋祭りの真っ最中!!
萬鶴さんの勤務先の駐車場もお神酒所になっているそうです。
そんな中、吉祥寺四軒寺の一つ、光専寺に鶴の大先輩の碑を発見!!
「稲垣黄鶴」先生の詩と書だそうです。
黄鶴先生は1903年(明治36年)、長野県追分生まれの
近代詩文を得意とする女性の書家だそうです。
石碑の右下の三文字は...
「なんとかかんとか草?」と記されているようです。
その後、吉野先生からご指摘があり、「麒麟草」と記されているそうです。
吉野先生ありがとうございました。
また、ある方からご丁寧なご指摘をいただきました。
稲垣黄鶴先生は、昭和13年に中華民国北京で興亜書道連盟理事となられ、
昭和16年中国の湯山で開催された全国書道展の審査員をされ、
昭和18年には、墨華書道研究会元主幹の宮本旭水先生に「色紙折帖十二カ月」を贈られ、
昭和22年には貞明皇太后宮に「離燕の情」献納のご下命を拝し、
昭和44年には日本書道院副会長になられたそうです。
そして、墨華創刊以来、百歳になられる平成14年まで、32年間にわたり
墨華書道研究会の顧問として、墨華を支えてくださったそうです。
*書宗院とは別の組織に属されていたとはいえ、私ども墨華にとっては
切っても切れないご縁があることがよくわかりました。
秋祭りで武蔵野商工会議所の稲垣会頭とお会いした時、
書の話になり、会頭のご親せきに書家がいらっしゃって
雅号を黄鶴といい、実は光専寺に石碑がある、
とのことだったので、さっそく現場に。
黄鶴先生の出身の軽井沢には多くの碑文が残されているそうです。
またまた行くところが増えましたね。
吉野先生からのお知らせありがとうございます。
麒麟草とは...うーん言葉がありません。
信州の野山に普通にある黄色の細い花弁を持つ
野草です。
ユビキタスなお人柄だったのでしょうか?
「なんとかかんとか草?」読めない3文字いや2文字の読み方ですが
「麒麟草」(キリンソウ)と書いてあるそうです。
麒麟草は夏草で、ベンケイソウ科の多年草。
茎は高さ30センチ、黄色の花が咲く草とのことです。
先生ご教示ありがとうございました。
ご紹介ありがとうございます。
我が家にも、同じファックスが届いていました。
複雑な内容・文面でしたので、よく読み返してみました。
でも複雑でした。
しかし、つながりのある鶴さんだったんですね。
ホント、縁は異なものです。
吉野先生からのファックスをご紹介頂き
ありがとうございました。
いやぁ本当に縁は異なもの、「墨華」とも深い
繋がりがあったのですね。
それではぜひ、今度は長野の追分にある
詩碑を勉強に行きましょう。
もちろん、反省は蕎麦処「追分茶屋」でね。
ご紹介させていただきます。
「稲垣黄鶴さんは、かなの名手で有名。実は桑原翆邦先生が北京で書宗院を立ち上げ様と事務所をかまえ、昭和14年生まれのご子息 千磨太(チマタ)さん(現呂翁先生)のお母さんが体が弱かった為、昭和15年に迎えに来て、千磨太さんを北京に連れて行きました。その時の養育係兼書宗院事務局員として、3人の女性が同行しました。稲垣黄鶴先生はそのうちの1人です。また、戦地北京郊外の湯村の軍病院に衛生兵として居た宮本旭水先生(当時20歳位)と書縁が出来、昭和45年墨華設立の時にかな担当となるはずでしたが、他の会と重複する事があり実現しませんでした。宮本家には当時「宮本の君に」という四季をうたった画帖が今もあると思います」
とのコメントを頂戴いたしました。
東鶴さん曰く鶴の大先輩とのことでしたが、名実共に墨華の先輩いや先生だったとは驚きです。
板戸の時もそうでしたが、書を通じて様々な方々とのつながりがあることに不思議なものを感じております。
お祭りのお神酒どころの管理お疲れ様です。
例年、この時期は雨が多いのですが、今年は
晴れが続いてよかったですね。
当然、差し入れで飲んでいるとは思っていました。
黄鶴さんの詩碑は、光専寺の本堂に向かって、
左の墓に通じる道の左に建っています。
同じエリアに居たのですね。
事務所の駐車場をお貸ししていますので、オープン前から、終わりまで(建物管理者として?)ずぅ~っといました。
帰宅は夜9時過ぎでしたよ。
ビールなども差し入れていただき、中途半端な飲み方でしたので、お疲れになりました!
今日(日曜日)も朝9時から出ます。
昨日も光泉寺の前を通りました。
こんな碑があったんですね。
しかも鶴の大先輩の碑が・・・。