東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

おじいさんの双眼鏡

2019-04-01 | 淡路・神戸・明石・京都

 新元号は令和となった。祖父のことを想い出した。祖父の双眼鏡が手元にある。接眼レンズには LEMAIRE FABT PARIS と記されている。ルメールファビはフランス製で日本でも海軍にて使用されることが多かったようだ。多分、戦前には日本製の双眼鏡に現在のニコンのような良い製品がなく、船乗りはフランス製を愛用していたようだ。

 明治生まれの祖父は第2次世界大戦というか大東亜戦争以前から生船(なません)の船長だった。生船の船倉の栓を抜いて生簀にし、戦前は五島列島や天草、朝鮮から高級魚を生きたまま運んだり、あるいは生簀(いけす)となる船倉の船底を栓で密封して水を入れないようにして船倉を空にし、その中に粉砕した氷を敷き詰めた魚箱を何段にも積み上げて船倉を満杯にして、大阪や神戸に運んでいた。

 私の母の弟にあたる叔父は終戦直後のほんの一時期、祖父が船長だった船に乗っていたことがあり、何年か前に伺ったところ,終戦直後は魚が飛ぶように売れ、魚を生簀で生かしてして運ぶよりは魚を多く大量に運ぶために、空船にした生船に氷漬けにしたサバやイワシの魚箱を積み込んで、九州各地や下関あたりから瀬戸内海を通って大阪や神戸に運んだそうだ。祖父は魚箱の氷がちょうど融けるころに荷揚げの港に到着するように船を運行していたことを例にあげ、腕のいい船長だったとたいへん感心していた。身内のボクが言うのは気が引けるが祖父は真面目で落ち着いていて評判が良かったそうだ。五島列島の網元の神徳さんには贔屓にして頂いていたが、残念なことにその神徳の親方は後年に羽田沖の航空機事故で亡くなられたと伺った。
 子供のころチョコレート菓子やフグの干物などを、九州や下関から祖父が小包でよく送ってくれたのでそれが楽しみだった。祖父や父は九州の州と同じ発音で、対馬のことを対州(たいしゅう)、壱岐のことを壱州(いしゅう)と呼ぶ。瀬戸内海を通って大阪神戸とを行き来する生船は、途中で船員の多くを占め多くの船の母港でもある淡路島の富島港に立ち寄る。ボクが小学生の低学年のころ祖父の生船に乗って神戸港まで同乗して行ったことがあり、その時から使っていたのがこの双眼鏡だった。

 終戦後に世の中が落ち着き、鮮魚の運搬も既に船から陸送に代わったため、少しやんちゃなボクの父親は生船をやめてコックとなって神戸の進駐軍に勤めていたが、その後、ボクが小学生の3~4年になるころ、父は生船乗りの祖父を誘って独立して神戸で海運業を始め、神戸製鋼の鉄鋼製品を運ぶようになった。親父も長年この双眼鏡を使っていた。

 何年か前に「坂の上の雲」のTVドラマで日露戦争の日本海海戦を拝見したが、東郷ターンで有名な旗艦三笠の船橋で将校が首に掛けていた真鍮製の双眼鏡はどこかで見たことがあるな、ああ、これは祖父の双眼鏡と同じメーカー製に違いないと思った。
(追記: 大澤様よりコメントを頂き訂正しました。有難うございました。東郷司令長官の双眼鏡はZeiss製とのことです。望遠鏡や双眼鏡の世界のシェアや歴史を調べると時代や背景が解ると思います。)




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