東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

黄金の半年間

2024-09-13 | 野球
中学1年秋 野球団解散


子供のころの遊びで野球は楽しかった

もちろん山に行ったり、
海に潜ってモリで魚を突いたり
チャンバラごっこ、鞍馬天狗、カン蹴り
パッテン(メンコのことをこう呼んでいた)
バイ、コマまわし、ビー玉
それはそれは楽しい子供時代でした

ゲームとしては野球が面白かった
グローブのない幼少時代から始まった
何人か子供が集まれば野球が始まった

三角ベースもどきをした
ゴムボールがなければ布巻きボール
バットは板切れや木の丸太
ちょっとした広場や切り株の残る乾燥した田んぼ
富島港の埋め立て波止場

幼少の弟を自転車に乗せて
どういう訳か親父がのぞきにきていたことがある
長期の船乗りで忙しく滅多に帰って来ないのだが
ほんのたまには家に帰ってくることがあった
野球をしているところを見られるのが少し気恥ずかしかった

小学校6年で小学校のチームに入った
ファーストを守った
別格のエースがいたので
2番手くらいのピッチャーもやった
いつもは6番くらいを打った

さて遠征試合に行った
郡の大会だったかな
試合前の数日間、練習では急に当たりが出てきた
顧問の先生から4番を打てと言われていた
遠征は隣町、淡路の岩屋町
富島小学校 対 岩屋小学校
相手のピッチャーは左利き
球は速いしカーブはよく曲がる
ボクは左投げ左打ちの左ギッチョ
何しろまともな左ピッチャーの球を打った経験が無かった
タイミングが合わずバットに当たらない
4番を任されたが結果は散々だった
ピッチャーフライと三振を覚えている
試合は完敗
あんなに練習したのに


小学校を卒業して富島中学に入った
バレー部は強かった
何たることか野球部がない
グランドが狭く指導者がいないのが理由だったそうだ

1年上の2年の中学生たちが私設で野球チームを作っていた
その先輩から声が掛かった
チームに入れよ、一緒にやろう
小学校でショートを守っていたタカタ君と
ファーストだったボクが加わった
2人の中学1年生が加わった

絶対的な2年のキャプテンから言われた
オマエはピッチャーをやれ
練習場所は隣町の野島の河口のグランド
2kmぐらい離れたグランドに行く
チームの皆んなは自転車の相乗りで練習に行く
オマエはピッチャーをやるから足腰を鍛えろ!
ボクは自転車を追ってランニングで野島のグランドへ行った

大人のチームと試合をした
シュート、カーブ、ストレート
勿論、子供の思い込みだが
スピードは出たと思う
そこそこ投げたつもりだ
シュートの切れは良いがストレートのコントロールが散々だった
いま思えばストレートの握り方が違っていた
誰も教えてくれなかった

現在も夢の中でキャッチャーめがけて投げている
コントロールが定まらない
ストライクが入らない
うなされて目が覚める

中学1年の秋、チームは解散に追い込まれた
学校以外で中学生がチームを作っている
隣町のグランドで野球をやっている
いつもたむろしていると、
どうも噂が立っていたようだ

絶対的なキャプテンが中学の指導教員に呼ばれた
中学の校舎のグランドで教員がキャプテンを説教している
理不尽にもチームを解散させられた
どんなふうに説得されたのか
言うことを聞かないと退学とでも言われたか
キャプテンは黙して語らず

半年間だけピッチャーをやった
チームは中学1年の秋に解散した

解散の時みんなが集まり記念写真を撮った
あれはボクが唯一輝いた時代
半年間の黄金時代

その後は暇を持て余した
仕方なくバスケットを始めた
中学は合併して北淡東中学と名称が変わった



後日、中学を卒業して明石高校へ入学した
高校1年の同じクラスに小学校のあの時のピッチャーがいた
岩屋中学から来た多田くんと言った
岩屋町は渡哲也と渡瀬恒彦兄弟の出身地で有名になった

ボクは野球名門の明石高校に入った
しかし多田君もボクも野球部に入らなかった


少年時代の野球の思い出は
阿久悠「瀬戸内少年野球団」そのままだ
阿久悠さんは淡路島五色町の出身
彼の出身高校は洲本高校
大学は明治大学

阿久悠記念館 明治大学 - 東西圧縮回流記 (goo.ne.jp) 


同時代の淡路島の洲本高校は
1953年(昭和28年)第25回選抜高等学校野球大会(甲子園)で
全国優勝を果たした
夢を叶えた






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